物部天神社・国渭地祇神社
天満天神社(北野天神)
埼玉県所沢市小手指元町3−28 its-mo



交通 西部池袋線小手指駅西南へ1500m

祭神
物部天神社  櫛玉饒速日命
國渭地祇神社 八千矛命
天満天神社  菅原道真公
 摂社 小手指神社、文子天神社
 合祀 宗良親王、小手指明神、天穂日命、応神天皇、日本武尊、倉稲魂命




注釈 社伝によれば日本武尊が東征時、この地に饒速日命と八千矛命を祀って両神社を創祀し、後の時代に京都北野天満宮の道真の分霊を勧請したとされている。
 物部天神社は武将の崇敬も厚く源頼朝が社領を寄せ、前田利家が社殿を再興、徳川家も代々所領を安堵した。祭神は饒速日命とするのが定説であるが、その子宇麻志摩治命また天穂日命(菅原氏=土師氏の祖)とする説もある。
 この付近には式内社が多く、物部天神社、國渭地祇神社、中氷川神社(所沢市三ヶ島)、出雲伊波比神社(入間市)等があり、古代武蔵の重要な地域であった。

お姿
 大きい社地である。鳥居からの参道も厳かなたたずまいである。日本武尊のお手植えの桜(3代目)尊桜がある。摂社の文子天神社は多治比文子を祀る。養蚕糸繰機裁縫の神として崇敬されている。 入り口の紹介板に「後たれて小手指原に住む神のあらむかぎりは国もうごかじ」との和歌が記されている。
 谷戸川に沿っている。物部天神社の例祭は3月31日である。

『平成祭礼データ』から 

 当社は、日本武尊東征のおり創建したと伝えられ、物部天神社・国渭地祗神社ともに延喜式内社です。一条天皇の御代に菅公五世の孫武蔵国司菅原修成が勅命を奉じて、京都の北野天神社より、菅公の分霊を勧請して、坂東第一北野天満宮と定められたと云われています。今より約970年前、長徳元年のことであり、この時から北野と呼ぶようになったと伝えられます。
 その後、源頼義、義家、奥州追討の宿願によって、総社を建立し、更に建久6年9月に源頼朝が正八幡宮を勧請して、総て九社を修造し、同時に一宇を建立し延喜式内の諸神を祀り諸神堂と称し、この時の大宮司は上毛野元重、社領は二百貫文増加され二千二百貫文になりました。
 その後、建武・延元の戦乱に兵火に罹り、延文元年足利尊氏が諸社を建立しましたが、再び罹災してしたが、後に加賀守大納言利家公が社殿を再興し、菅公御自筆の法華経、宗近の太刀、黄金二百枚を献納し、武運長久を祈り、境内に梅一本を献栽したので、今も大納言の梅として保存されています。
 徳川幕府になって、家康は、宮司栗原右衛門太郎を召出し、伊勢守(社寺を管理する神官)に任じ、繁栄したと記されています。
 境内は、現在よりはるかに広く、多くの末社諸神堂があり、天保年間の天神社絵図によりますと、東西及び北側に二十五社描かれております。
 以上


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