四天王寺と中山寺(物部守屋鎮魂)

中山寺についての市史や由緒書きなど 

枚方市


『交野原と七夕伝説』から
 この寺跡から、白鳳時代のものと考えられる複葉四弁で周辺に葡萄唐草紋の帯をめぐらし、中房が花心のように表現された軒丸瓦が発見されました。 このことから白鳳時代(7世紀で法隆寺なども建立されている。)の終わり頃の創建されたことになります。

『交野市史』から
 藤原氏一門の中山氏の創建になる観音寺で、近くの枚方市茄子作3には春日神社が残っている。
 世伝として、摂津国中山寺はもともとこの地にあったが平安遷都とともに宝塚の現在地へ遷座した。

枚方市茄子作の観音公園の石碑

宝塚市



中山寺奥之院の東向きの鳥居

『宝塚市史』から
 現在の中山観音寺の境内に白鳥塚古墳があり大中姫(仲哀天皇先后で忍熊王の母)の墳墓とされているが、年代としてはBC600年頃のもの。石棺は播磨国製。
 奥之院付近は未発掘で今後の調査を待たねば創建年代などを知ることはできない。

本堂前の『中山寺奥之院略縁起』から
 聖徳太子は大仲姫のお告げによりこの山をお開きになりまして悲運の忍熊皇子の鎮魂供養のため、また逆臣物部守屋の障りを除く為に当寺を建立されたのであります。 守屋の障りが鎮まったので、四天王寺を建立せんとして、聖徳太子が矢を射た石が奥之院の上の山を300m程歩いた所にある。
 奥之院の鳥居はやや南にふった東向きの鳥居であった。

 『日本書紀』の推古天皇紀には中山寺の件は記載されていない。また『上宮聖徳法王帝説』には太子七寺を起つとあるなかには中山寺と思わせる寺院は見えない。 後世の太子信仰の高まりの中で自分たちの寺院もそうあってほしいとの願望から出てきた創建譚のように思われる。

夫婦岩

 宝塚の北部には物部氏の一族の若湯坐連が住んでおり、その祖神の意富売布命を祀る売布神社があり、鎮座知は中山寺奥之院への途中の夫婦岩の南にあたる。夫婦岩が元社だったのかも知れない。

四天王寺についての市史や由緒書きなど

四天王寺の西向き鳥居

 

 『日本書紀』の記事
(1)廐戸皇子、四天王の像を作って、護世四王のために、寺塔を起立つ。と誓った。
(2)乱が収まった後に摂津国に四天王寺を造った。
(3)摂政となった後に、この年はじめて四天王寺を難波の荒陵の地に造りはじめた。

 四天王寺建立についての伝説など
 平安初期の『暦録』
  推古元年四天王寺、始めて壊し移し、難波の荒陵の東下に建つ。
『補闕記』
  川勝、進みて大連の頭を切り、玉造の東岸上に覆奏す。即ち営を以て四天王寺となす。

大宮「安閑天皇」大阪市東淀川区大道南の由緒
  聖徳太子はこの地に四天王寺を建立せんとし給いしが洪水が多く、今の天王寺に建立された。

 『飛鳥白鳳仏教史:田村圓澄著』の説
 推古朝までの寺は氏寺、斑鳩寺は聖徳太子の氏寺、四天王寺は難波吉士の氏寺、四天王寺は守屋滅亡から50年後の建立との見方がある。
 四天王寺は荒陵寺の呼称であって、天武天皇の頃に四天王寺の名となった。
 推古朝で仏教を国教とするほどではなく、摂津に四天王寺を作る理由がない。
 など、説得力のある見解が示されております。

 聖徳太子の四天王寺建立についても、その証を明示することは不可能に近く、説得力のある建立説にはお目にかかれません。 ましてや、その前に建立された中山寺においておや。
 しかしまた、それぞれの社寺た世間に伝わる伝承をあっそりと無視してしまうのも根拠のないこと。

物部守屋鎮魂と中山寺、四天王寺

   四天王寺に物部守屋を祀る祠があること。

願成就宮(守屋祠)


 聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀ったと伝えられている。(四天王寺談)

 聖徳太子は守屋鎮魂を行ったと伝承されている。何故か。
 物部蘇我戦争は数仏排仏の宗教戦争の要素もあったのかも知れないが、旧権力対新興勢力との戦いでもあったと言うか、この要素の方が強かったのだろう。守屋と言う武人の権力闘争である。これに敗れたと言うこと。讒言によって陥れられた訳ではない。怨霊になる理由はない。
 排仏派の頭目である守屋を討伐した。その時聖徳太子は14才で、とても主役だったはずがない。
 守屋鎮魂は全く別の理由があったはずで、世間もそれを知っていたと言うこと。

聖徳太子と物部氏
  聖徳太子の系図


 蘇我稲目の子が小姉君 欽明天皇が小姉君を娶り、穴穂間人皇女を生む。用明天皇が間人皇子を娶り聖徳太子が生まれた。小姉君の子孫は蘇我の手により滅亡。稲目の子か?なぜ”媛”ではなく”君”か?

 間人皇后が一時丹後に逃れていたとの伝説がある。
三柱神社「稚産靈神 倉稻魂神 保食神」京都府竹野郡丹後町間人谷の上
三柱神社「稚産靈神 倉稻魂神 保食神」京都府竹野郡丹後町間人宮の谷
三柱神社「稚産靈神 倉稻魂神 保食神」京都府竹野郡丹後町間人宮の下
創建の謂われ:間人皇后に付いていった東漢直駒(を祖先とする者)が神社を建立。
 間人皇后は丹後にゆかりが深いようだ。海部氏の血を受けていると考えることができるようだ。即ち小姉君は海部氏の娘である可能性がある。そうでなければ間人皇后が丹後にエスケープするはずがない。

 

 間人皇后の誕生の地と物部
 奈良県天理市田町 穴穂神社 旧地名は穴穂、間人誕生の地かも。
 大阪府八尾市宮町 穴太神社 神社の由緒書きに「聖徳太子の生母、間人穴穂皇后の誕生地であり、成人された地」とある。
 いずれにしろ、間人皇后女は物部縁の地がつきまとう。聖徳太子の意識の中にも海部・物部の意識があったとしても不思議ではない。物部と海部とは継体天皇の凱旋時につながりを持ったのではなかろうか。饒速日尊を称える長い名前の天照国照彦火明櫛玉饒速日尊には海部氏の祀る火明命が組み込まれている。海部物部連合の成立である。

 小姉君の謎
 『古事記』 岐多志比売(堅塩媛)の姨(おば)小兄比売。
 『古事記』 間人は用明天皇の庶妹(同母妹)。
 用明天皇の庶妹なら、岐多志比売が叔母になる。『古事記』の中でも矛盾した説明になっている。
 『日本書紀』 堅塩媛の同母妹を小姉君と言う。
 記紀でも矛盾、要する蘇我氏の系統ではない、よそからの輿入れであったと言うことを露呈しているようだ。

 聖徳太子は蘇我氏の血をひいていない。海部の系統で、物部に親近感があった。 聖徳太子が物部守屋に敵対したのは小姉君の系統が殺されていることを見ての判断、逆らえば馬子に殺されるとの恐怖心と時の王権の趨勢がそうしたのであろう。
 聖徳太子にとっては同族でもあり、母親の庇護者でもあった物部氏の頭領である守屋の滅亡に加担せざるを得なかった。 それだけに守屋鎮魂の想いが強かったのであろうと世間は見ていたのではないだろうか。


 宝塚の地には物部氏の一族の若湯坐連の住む地で意富売布連(『高橋氏文』または大メ(口羊)布命(宇麻志摩治命七世孫:『天孫本紀』)を祖としている。中山寺西1kmに売布神社が式内同じ名社に比定されている。
 物部蘇我戦争で物部一族全てが守屋についた訳ではない。物部が総力を挙げていれば蘇我に負けることはなかったのでは。守屋が蘇我馬子に陥れられたところがあっても、物部の大半が日和見だったのでは。(鳥越説)




物部守屋
守屋とは
 「没落」は韓国では mol rak と言う。守屋である。守屋の父は尾興(オコシ)である。興隆して没落するのである。(畑井説)
 お隣の国の言葉、多くの渡来人がやってきた中で、没落を名乗る人間がいるはずはない。 
 これは日本書紀編纂者が適当に付けた名前かもしれない。
 諏訪大社の漏矢神、漏矢山がある。これも敗北を強いられての命名かも知れない。それが忘れられて守屋逃亡の話ができあがっていくと言うこと。
 お遊び 物部守屋に関係の神社  祭神とは守屋を祭神としていること。
滋賀県東浅井郡浅井町 祭神 波久奴神社
奈良県磯城郡田原本町蔵堂 
村屋坐弥富津比売神社摂社市杵嶋姫神社 祭神
岐阜県高山市江名子町 
錦山神社 祭神
長野県上伊那郡高遠町 守屋社 祭神
山梨県中巨摩郡田富町 大輿神社 祭神
福島県岩瀬郡岩瀬村 守屋神社 祭神
福島県会津若松市湊町 守屋神社 祭神
福島県会津若松市湊町 守屋神社 祭神
秋田県仙北郡協和町 
唐松神社 物部守屋の一子那加世が祀った。
京都市太秦蜂岡町 
大酒神社 守屋創建
兵庫県高砂市阿弥陀町 
生石神社 石造物の御神体は守屋が造った。
長野県諏訪 諏訪大社(漏矢山中) 守屋逃亡先 守屋を祀る祠

七宮
四天王寺周辺
大江神社「豐受大神 配 素盞嗚尊、欽明天皇 ほか」大阪市天王寺区夕陽丘町
上之宮 五條神社「敏達天皇」 大阪市天王寺区真法院町
小儀(四天王寺東門外北側)
土塔(南門外東側)
河堀稲生神社「宇賀魂大神、崇峻天皇 ほか」大阪市天王寺区大道
堀越神社「崇峻天皇」 大阪市天王寺区堀越町 
久保神社「天照大御神」 大阪市天王寺区勝山

中山観音 ◆は http://www.interq.or.jp/sun/tobal/top.html から。神社比定は神奈備
◆ 伊勢(天照大神) 川面皇大神社 兵庫県宝塚市川面
◆ 賀茂(賀茂別雷神) 南に加茂の地名がある。
◆ 春日(武甕槌命、經津主命、天児屋根命、比賣神) 春日神社 兵庫県宝塚市口谷西
◆ 稲荷(御食魂神) 多くある。
◆ 松尾(大山咋神) 松尾神社 兵庫県宝塚市山本東
◆ 祇園(素戔嗚尊) 八坂神社 兵庫県宝塚市平井
◆ 新羅大明神 見あたらない。
 聖徳太子の頃に勧請されるような春日神社があったのか。松尾、稲荷もしかり。平安時代のにおい。

玉造稲荷付近
鵲森宮「用明天皇、穴穗部間人皇后、素盞嗚命」 大阪市中央区森之宮中央

物部氏ホームページ
神奈備にようこそ