葛木坐火雷神社(笛吹神社)
かつらきいますほのいかづち
葛城市新庄町笛吹448 mapfan


鳥居




交通 近鉄御所線忍海西2km



祭神 火雷大神、天香山命
配祀神 大日貴尊、高皇産靈尊、天津彦火瓊瓊杵尊、伊古比都幣命
摂社 春日神、稲荷神、熊野神、梅室神、満開神 等


拝殿風景



注釈
 創建は詳かではないが相当な古社である。大和国忍海郡の式内社二座に比定される。

 神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置き大彦命を北陸に差向けた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)がこの軍にしたがって都をたって寧楽山(奈良山)に着いた時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返えし天皇にこのことを報告した。
 このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わしてこれを討滅された。


 一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫いてこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。


 天皇は大いに櫂子の戦効を賞して天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を与えたと言う。この夜天皇の夢にこの天盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当社に祀ったと伝えられている。

 笛吹連は火明命の児天香山命之後也とされる。詳しい所伝はないが、雅楽か遊部に関係のあった氏族とされる。 また、天香山命は別名を高倉下と云うが、今東光著『毒舌日本史』によると、この神の足跡には薬草が多いそうである。葛城山六は薬草が多かったと云う。

 火雷神社は延喜式の宮内省大膳職坐三坐の一つを始め山城国乙訓郡、大和国宇智郡、上野国那波郡に鎮座する。水神、火神を祀る神社であったと推定される。
当社を笛吹神社とも言うのは元は火雷神社と天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。

 笛吹の集落の神山に南面して鎮座、神山には多くの古墳があった。平成10年の7号台風が直撃しており、木々が多く倒れている。神社付近の田も稲が倒れて穂が濡れたままになっている。

神社の前の道は一言寺道という古道で葛城一言主神社に通じている。火雷神社は葛城一言主神社調田坐一言尼古神社(疋田神社)の中間点に位置し、火雷神社と疋田神社の中間に大屋という字がある。


本殿



 境内に日露戦争記念の露国製加農攻守城砲が置かれている。

お祭


夏越し祭  7月17日
例祭   10月24日
鎮火祭  11月15日

『平成祭礼データ』から葛木坐火雷神社
由緒書


 当神社の御創建は神代とも神武天皇の御代とも伝えられていますが詳かでありませ ん。然しながら神社に伝わる旧記によれば、第十代崇神天皇の十年に四道将軍を置かれ大彦命を北陸に御差遣され給うた時に笛吹連の祖櫂子(かじこ)この軍にしたがっ て都をたって寧楽山(奈良山)にお着きになった時、建埴安彦が兵を挙げて都を襲撃しょうと企てている事を聞いて直ぐに京に引き返されて天皇にこのことを報告し、建 埴安彦を討ち果たす事を奏上せられた。このことを知った建埴安彦の妻吾田姫は一軍を率いて忍坂から都に攻め入ろうとしたので五十挟芹彦命を遣わされてこれを討滅さ れた。一方大彦命は奈良山で安彦の本陣と戦いこれを追って和韓川(わからがわ、木 津川の上流)の南で川を挟んで対陣して居た時、櫂子の射放つた矢は安彦の胸を貫い てこれを倒したので賊軍は終に降伏して平定した。天皇は大いに櫂子の戦効を嘉賞し給うて天盤笛(あめのいわふえ)と笛吹連の姓を賜る。この夜天皇のおん夢にこの天 盤笛もつて瓊瓊杵命を奉斎すれば国家安泰ならんとの御告げによつて、瓊瓊杵命を当 社にお祭りになったと伝えられています。当社を笛吹神社と申すのは元は火雷神社と 天香山命を祭った笛吹神社と二社あったのが合祀されたものと考えられる。延喜式神名帳あるいは特選神名帳〓三代実録等の古い記録あります。
 



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