乘田神社(ひきた)
桜井市白河285

鳥居

交通案内
近鉄長谷駅 西へ行くと初瀬小学校 それから北へ700m 更に西へ400m
白川の東側に旧道があり、これを行き、集落で橋を渡り、西側の道を少し下り、西にまがり、突き当たり。 西側の新しい道は南の方まで出来ているが途中で消える。まったく無駄な公共事業の残骸。 its-mo


祭神
大己貴命、たかおかみの神(葛神神社)、豐受比賣命(稲荷神社)


由緒
 白山神社と称していた。式内社城上郡の曳田神社に当てられて、乘田神社となる。

 曳田神社は疋田物部(曳田物部)氏の鎮守ではなかろうか。
 九州遠賀川流域の鞍手郡新分郷(にいきた)は九州の疋田物部の居住地であったと、『女王卑弥呼の国』で鳥越氏は述べておられる。 さらに、大和でのヒキタを添下郡疋田郷(奈良市疋田町)と葛下郡疋田郷(新庄町疋田)を挙げ、葛下郡疋田郷を疋田物部の居住地と推定される。

当麻物部の当麻に近く、一方は本拠の北大和の山間部で居住の必要性を否定されての説である。
 城上郡の曳田神社の後裔が当の乘田神社であるか否かはともかくも、「ヒキタ」を冠する神社の存在を無視して疋田物部の居住地を探すのは何故だろう。

物部は軍事に係わった氏族で、一族の団結の為の祭祀は不可欠であり、神社の存在は大きい証拠となる。現に、鳥越氏は神社鎮座を重要視されておられる歴史家である。

拝殿


 磯城族がこの地に住んでいた。ヒキタの名では、引田君は文献では「日本書紀」天武天皇13年の条に、高麗への大使として派遣された三輪引田君難波麻呂の名が初出である。

 また雄略天皇の時代として、引田の 若栗栖原 若くへに 率寝てましものを 老いにけるかも」の歌謡が赤猪子の物語歌として出ている。(栗栖、物部を想起する。)

 出雲の北方の巻向山中にダンノダイラと言うやや平地があり、往古の出雲の住人が住んでいたと言う。 大和の出雲である。ダンノダイラを遥拝する場所とも言える。大己貴命を祭神としているのもむべるかなである。参照、十二柱神社


お姿
 隠国の長谷の更に隠国である白河の山影に鎮座している。三輪山系(巻向山)に取りすがっているような場所である。

 この地域は山間の田が段々になっている所で、水田の発祥としては古い所であったようだ。最近は神社付近にまで休耕田が出来ている。

 三輪山頂の真東に当たるようだ。照葉樹が多く、また楓、杉、楠などの木々が多い。本殿は雨風をしのぐように簡単に覆われている。参詣日は偶然に旧暦の6月1日に当たる日で、朔日祭の準備をされていた。
 昔は谷をひとつ隔てた西の丘上に鎮座、古宮跡といい三輪引田難波麻呂の屋敷跡と伝えると言う。(大和志による:式内社調査報告から孫引き)

本殿



お祭り

例大祭 10月28日



 参考 寺院神社大事典、式内社調査報告

物部氏ホームページ
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