石上神宮(いそのかみ)
天理市布留町384 its-mo

神門



交通
近鉄JR天理駅東2km



祭神
布都御魂大神
配祀神 布留御魂大神、布都斯魂大神、宇麻志麻治命、五十瓊敷命、白河天皇、市川臣命

摂社 出雲建雄神社「出雲建雄神」草薙剣の荒魂や建御名方神とする。



社宝
七支刀(神功皇后摂政前紀に記載の百済より献上された七枝刀という)

拝殿



石上神宮略記(平成祭データ) 
御祭神は布都御魂大神で、配祀として布留御魂大神・布都斯魂大神・五十瓊敷命・宇摩志麻治命・白河天皇・市川臣命を祀る。

神武天皇御即位元年、宮中に奉祀せられ、崇神天皇7年に宮中より現地、石上布留高庭に移し鎮め祀られる。

御祭神・布都御魂大神は、又の御名を甕布都神、佐士布都神とも申し国平けの神剣、布都御魂(霊)にます。神代の昔、天孫降臨に際り、経津主、武甕槌の二神と共に、国土鎮定の大業を成就し給い、更に神武天皇御東征の砌、紀の国熊野において御遭難の折、天つ神の勅により、再び天降り給い、邪神賊徒を平げ建国の基礎を定め給えり。神武天皇は御即位の後その功績を称えて、物部氏の遠祖宇摩志麻治命に命じ、永く宮中に奉斎せしめ給うた。

その後第十代崇神天皇7年に物部の祖、伊香色雄命が勅により現地石上布留の高庭に鎮め祀り石上大神と称えまつったのが当宮の創めである。

爾来、歴代朝廷の御崇敬特に厚く、多くの武器を奉って儀仗に備え、物部連に配して武臣大伴・佐伯等の諸族をして祭祀にあづからしめ、国家非常の際は天皇親しく行幸あらせられ、国家鎮定を祈り給うた。

故に名将武門の尊信も深く、天下の諸氏族が挙って霊宝を神庫に托し、皇室の御安泰と国家の平安を祈り奉った。

古くは神地の周囲、凡そ10里(39粁余)に及び、殿舎神門の鎰匙は常に宮中の官庫に収められた。

又造営に当っては伊勢の神宮の例にならい、使臣を任ぜられるなど奈良朝以前に神宮号の尊称を用いられしは、伊勢の神宮と当宮のみにて、御由緒の尊厳を知ることが出来る。

社号は石上神宮のほか、石上振神宮、石上神社、或は石上社、布留社等とも呼ばれ、延喜式神名帳には、石上坐布都御魂神社と見え、早くから官幣に預ったが明治4年には改めて官幣大社に列し、同16年には神宮号が復称された。

古来国家鎮護、民生安穏、百事成就の守護神として悠久に亘る御神徳は恰く国民の尊信するところである。

配祀神・布留御魂大神は天璽瑞宝十種に籠る霊妙なる御霊威にます。瑞宝十種は、謂ゆる瀛津鏡一つ、辺津鏡一つ、八握劔一つ、生玉一つ、足玉一つ、死反玉一つ、道反玉一つ、蛇比礼一つ、蜂比礼一つ、品物比礼一つ、にして神代の昔饒速日命が天降り給う時、天つ神の詔をもって、「若し痛む処あらば、茲の十宝をして、一二三四五六七八九十と謂いて、布瑠部由良由良止布瑠部。此く為さば、死人も生き反えらん」と教え諭して授け給いし霊威高き神宝なり。

その御子、宇摩志麻治命は神宝を天皇に奉り、霊の神前に蔵めて、永く宮中に奉斎せられたが、崇神天皇の御代に霊と共に石上布留の高庭に鎮り給うた。世に行われる十種祓には、「天下萬物聚類化生大元乃神宝」とも唱えられ、その畏き霊威を尊んで布留御魂大神と称え奉り、古来病気平癒、長寿繁栄の守護神として、そのあらたかなる御霊験は、広く一般の信仰をあつめている。

布都斯魂大神は神代の昔、素盞嗚尊が出雲国簸の川上において、八岐大蛇を斬り給いし、天羽羽斬剣(別名を十握剣、蛇之麁正、蛇韓鋤之剣、天蠅斫剣という)の威霊にます。この時、八岐大蛇の尾より出でし天叢雲剣は、天照大神に奉り三種の神器の一つとなり、天羽羽斬剣は当神宮に配祀せられ、布都斯魂大神と称え奉り邪霊退散、開運招福の御神徳を仰ぎまつる。

宇摩志麻治命は饒速日命の御子、当宮祭主の祖神にます。御父饒速日命は天孫瓊瓊杵尊の御兄にまし、天祖より天璽瑞宝十種を受け、河内国哮峰に天降り、その後大和の鳥見の白庭山に移り、長髄彦の妹三炊屋姫を娶り、宇摩志麻治命を生み給えり。宇摩志麻治命は御父の薨後、瑞宝を受けてその遺業を継ぎ、中州の開拓につとめられたが神武天皇の大和御入国に際り天皇を迎えて忠誠を尽し給い、天皇御即位元年には天つ神の詔に随い、瑞宝を奉り鎮魂の神業をもって聖寿の万歳を祈り奉れり。これが鎮魂祭の始めである。天皇は命の忠節を喜ばれ武臣の首坐として御即位の威儀に立たしめ給い、・霊の祭祀をも主らしめ給えり。その建国に当り樹て給いし御功績を称えて配祀せらる。

五十瓊敷命は第11代垂仁天皇の皇子、御母は日葉酢媛皇后、景行天皇の御兄にます。
垂仁天皇39年、茅淳の菟砥川上宮にまして剣一千口を作り(剣の名を川上部、また裸伴という)、当宮に蔵められた。そののち、勅により神庫の神宝を掌られたが、晩年には妹の大中姫命に譲り給えり。日本書紀に「神の神庫も樹梯の随に」と見えているように、命は姫の為に神庫に梯を造てられたが、姫は手弱女の身をもって高き神庫に登ることを辞み給いて、更に之を物部十千根大連に譲り、ここに物部連が再び当宮の祭主となって後世に及ぶこととなった。

白河天皇は御三条天皇の第一皇子にまして第72代の皇位を継がせらる。当宮崇敬の御心持特に厚く、永保元年8月(1081)鎮魂祭のために、宮中の神嘉殿を遷して神門を改め拝殿を造営せられた。同年9月には参議源俊明を勅使として遣わし、奉幣走馬十列を献って祭祀を行なわせらる。寛治6年7月(1093)には親しく行幸あらせられ祭主以下に官位を授け給えり。毎年10月15日の例祭に行なわれる田村渡りは、これより始まるという。

市川臣命は第5代孝昭天皇の皇子天足彦国押人命の後裔、米餅搗大使主命の御子にます。その家は豪族春日臣の一族にて、垂仁天皇の御代すでに当神宮に奉仕せらる。その子孫を布留宿禰と称し、祭主物部連に副って永く祭祀に奉仕せられ、当宮社職の祖として配祀せらる。
『平成祭データ』はここまで。


昔はなかった本殿



注釈 

 大和国山辺郡の式内大社石上坐布都御魂神社である。
 この神社の創祀は布留川の水神を祀る祭祀であったとされる。布留川の発掘調査は徐々に上流に向かって進んでいるのであろうが、一般祭祀遺跡や馬の歯など特に祈雨の祈願の遺物が出ているとのこと。

 ある現役の神職の方が、良く晴れた日に禁足地近くで祈りを捧げたら、その場所だけ豪雨が降ったとのこと、これは祈雨の霊験の傍証になろうか。

 『源平盛衰記』によれば、此剣(石上神宮の神霊)を布留といふ事は、布留河の水上より一の剣流れ下る。此剣に触るるものは、石木共に伐砕き流れり。 下女、布を洗ひて此河にあり、剣下女か布に留まりて流れ遺らず。則ち神と祝に奉る。故に布流大明神と云ふ。
と記されている。もとより後世の付会もあろうが、布留川の流れが祭祀の根本であったことを『源平盛衰記』の作者も認識している。

 天理駅の西側に式内社夜都伎神社の論社の八剱神社が鎮座しており、由緒には「神代のむかし素盞男命が八岐の大蛇を退治されたとき、大蛇が身を変え天へ昇りて水雷神となって神剣に扈従して布留川上日の谷に天降り臨幸して鎮坐す。 貞観年中に八剣神としまつられた、もと村社で五穀豊穰神霊退散招神の守護神として尊れている。」と出ている。

 水雷神となって神剣に依り付くのは、大蛇退治の際の「雨の叢雲の剣」などというように剣には雨を呼ぶ霊験があるように信じられていたのではないか。 神とされる剣に雲、この組み合わせは、剣の名を持つ山を見れば容易に想像できる。
 「布留川上日の谷」については、香具さんからのサジェッションで、瀧本町の石上神社の上の桃尾の滝とその上流が候補地と思われる。八つの大きい岩があるそうで、八岐の大蛇に見立てられたのであろう。

 何故、石上と云う地名であるのか、石上とは何か? イソを石神の石という字を何故あてたかが問題となる。
祭神に五十瓊敷命の名が見える。「五十」は「イ」、「イソ」と読まれる。おそらくは、人格神として最初に祀られたのが五十瓊敷命ではなかったろうか。 この「五十」を「イソ」と読むのは、出雲、吉備、日向にその例をみる事が出来る。
則ち、五十猛神社を「いそたけ」神社と読むのは、島根県大田市五十猛町、宮崎県日向市大字財光寺 、岡山県玉野市広岡に鎮座している場合であり、福岡市西区金武の五十猛神社や紀の国の伊太祁曽神社の祭神の五十猛神を「いたけるの神」と読むようにばらついている。 偶然であろうが、島根県大田市があり、宇麻志麻治命を祭神とする物部神社の鎮座ます所である。この地にゆかりのある物部氏なら「五十」を「イソ」と呼んだであろうことは容易に想像できる。

 『天理市史』によると、天理市滝本町の石上神社について「『続日本紀』に、聖武天皇の神亀三年(七二六)弊帛を石成神社に奉るとあるのは、石上神社の前身で」とあり、石から成るもの、石の神、まさにこれは金属を云ってるのである。剣である。雨を呼ぶ剣が御神体の神社であろう。後世、八岐の大蛇が剣となる物語が付け加わったと見る。

 剣を神とするのは、実に自然ななりゆきに思える。

布留とはなにか? なぜ雨を呼ぶ剣が御布留御魂と呼ばれるようになったのか?
 石上神宮の後背地は都祁から柘植への広大な土地で、焼き畑農作が行われていた。 布留(ふる)の地とは焼き畑を特徴とする「火」の地であろう。
 十種祓詞に出てくる「ゆらゆらとふるえる」ものは炎、則ち、火。 『三代実録』に、貞観九(867)年に「大和国に令して、百姓石上神山を焼き、禾豆を播くことを禁止せしむ」と出ている。(稲作以前 佐々木高明 NHK) その頃まで、石上神山では焼き畑が行われていたと云うことは、石上神宮を祀っていた布留氏は「火」の民あったといえる。
 石から成り、火の魂が凝縮されたもの、神、いやでも剣が出てくる。布留御魂とは、見事な表現である。

 この神社の祭神である、布都御魂、布留御魂、布都斯魂、宇麻志麻治命、五十瓊敷命は全て剣であったと思われる。
宇麻志麻治命は剣か?
 物部の遠祖に饒速日命や宇麻志麻治命の名が見える。氏族が連合して行き、その象徴として共通の祖神が構想されていく。 特に物部は連合体の色彩の強い氏族であった。多くの祖神が出来ているはずである。物部はまたもののふであり、武士である。 後世、刀を武士の魂と称したが、武器こそ最高の守護神であることは言を待たない。

五十瓊敷命は剣か?
 五十瓊敷命は宇土の川上で作った千本の刀剣はを石上神宮に納め祀ったとされます。これは千本の剣の人格化された神と見るべき。
 この千本の刀剣は泉南で作られた。泉南は名草戸畔の支配した地域(某神主説:根拠は紀の茅渟の男水門は記では紀伊国)、 また紀氏の支配した地域(泉南郡岬町淡輪の船守神社の祭神が紀船守、紀小弓宿禰、五十瓊敷入彦命と半島で活躍した伝承を持つ紀氏の頭領が祀られていること)とされ、いつの日かの紀氏の大和王権への屈服の物語と考えられる。
より踏み込んだ解釈を行えば、千本の刀は千人の兵士を意味し、五十猛命を奉じ、丹敷戸畔に率いられた多くの紀の国の猛者が殺戮された。猛者の魂は五十瓊敷命と呼ばれた。と云うことを暗示しているのではなかろうか。


本殿


お姿
   
 参道は長く、鬱蒼としている。布留山の北西部に位置している。布留の高庭と呼ばれる人口かと思われる台地に鎮座している。 現在は本殿を持っているが、これは大正2年にできたもので、それまでは拝殿後方の瑞垣内に禁足地があり、ここから神剣が掘り出され、御神体となっている。

 かっては皇室や物部氏の武器庫があって、その偉容は今はの天理教の建物のようであったのだろう。

 万葉集巻十二の二九九七の歌『石上[いそのかみ]布留[ふる]の高橋高々に妹が待つらむ夜そ更けにける』の高橋とは高い柱か梯子のことであり、高々にと形容されている。
 『垂仁天皇紀』で、「五十瓊敷命が妹の大中姫に語っていわれるのに、「自分は年が寄ったから、神宝を掌ることができない。今後はお前がやりなさい」といわれた。 大中姫は辞退していわれるのに、「私はか弱い女です。どうしてよく神宝を収める高い宝庫に登れましょうか」と。五十瓊敷命は「神庫が高いといっても、私が梯子を造るから、「天の神庫も樹梯[はしだて]の隋に」訳:庫に登るのが難しいことはない」と出てくる。 これは、それまでは梯子なしで武器庫の管理を行っていた、女は柱をよじ登るのは大変だろうから、梯子で行うように、と読める。
 ここに男神は柱を依代に、女神は梯子を依代にとの発想を感じる。
 丹後の天橋立ては伊邪那岐神、伊邪那美神が天に通う道であったのが倒れたものとの伝説が残る。 またそれをうけてか、阿波国美馬郡に天椅立神社[アメヨリタチ] が鎮座し、椅立とは立て椅の意との説明がある。梯子を樹梯[はしだて]と称したのである。

 伊勢神宮の本当の神は男神ではないかとの説が消えずに残っている。これは「心の御柱」に依りつく神を祭ることからも頷ける説である。

 内山山永久寺について
 永久二年(1、114年)より徐々に寺院として型を整えていった。真言宗。 布留明神など四所明神社や丹生明神社・高野明神社が鎮守社として整備されていた。石上神宮の宮寺の一。明治九年に廃絶、寺宝は分散、多くの文書は朽ち果てたようである。この中には石上神宮にまつわる貴重な古文書もあったものと思われる。

石上神宮境内の『大和名所図会』の拡大絵図 丹生高野明神付近
香具さん ご提供



例祭

 10月15日
    神剣渡御祭  6月30日
    榜示浚神事(ぼうじさらえしんじ) 10月1日 氏子地域の安泰を祈る
    鎮魂祭 11月22日 十種神宝をもって呪文を唱える特殊神事。

「フツの神」と「道教」との関係

 『常陸国風土記』の信田郡の所に下記のような記載がある。
 天地が創造されるころ、草木がことばを話すことができたとき、天より降ったフツノオオカミ(普都大神)はアシハラノナカツクニを巡り歩き、山や川の荒ぶる神を和らげた。 フツノオオカミはすっかり帰服させることができたので、天に帰ろうと思われた。その時、身につけておられた武具の甲・戈・楯・剣・お持ちになっていた玉をことごとく脱ぎ捨てて、この地に留めおきて、 白雲に乗って天空に昇って帰られた。
 道教においてセミが脱皮するように沓や冠を残して、肉体は天に昇って仙人になることを尸解仙(しかいせん)と言うが、『常陸国風土記』 のこの記事は尸解仙を念頭において書かれたものと考えることが出来る。 従って、フツの大神に道教の神の性格を見ることができる。
 石上神宮の周辺の布留遺跡からは多数の馬の歯が出ている。いけにえとしての馬にまつわるものであろう。これは漢神信仰に由来するもので、祈雨は白馬か赤馬、止雨は黒馬の生馬を捧げたのである。 後にこれは禁止され、絵馬が代用品となった。

        以上参考−『日本史を彩る道教の謎』から−
 



石上神宮の十種祓詞
   
高天原に神留り坐す 皇親神漏岐神漏美の命以ちて 皇神等の鋳顕はし給ふ 十種の瑞宝を饒速日命に授け 給ひ 天つ御祖神は言誨へ詔り給はく 汝命この瑞宝を以ちて 豊葦原の中国に天降り坐して 御倉棚に鎮め 置きて 蒼生の病疾の事あらば この十種の瑞宝を以ちて 一二三四五六七八九十と唱へつつ 布瑠部由良由 良と布瑠部 かく為しては死人も生反らむと 言誨へ給ひし随まに 饒速日命は天磐船に乗りて 河内国の河上 の哮峯に天降り坐し給ひしを その後大和国山辺郡布留の高庭なる 石上神宮に遷し鎮め斎き奉り 代代其が 瑞宝の御教言を蒼生の為に 布瑠部の神辞と仕へ奉れり 故この瑞宝とは 瀛津鏡 辺津鏡 八握剣 生玉  足玉 死反玉 道反玉 蛇比礼 蜂比礼 品品物比礼の十種を 布留御魂神と尊み敬まひ斎き奉ることの由縁 を 平けく安らけく聞こし食して 蒼生の上に罹れる災害また諸諸の病疾をも 布留比除け祓ひ却り給ひ 寿命長 く五十橿八桑枝の如く立栄えしめ 常磐に堅磐に守り幸へ給へと 恐み恐みも白す 

出雲建雄神社

祭神 出雲建雄神

由緒板から 出雲建雄神草薙神剣御霊坐今去千三百余年前天武天皇朱鳥元年布留川上日ノ谷瑞雲立上中神剣光放現 「今此地天降諸氏人守」宣給即鎮座給

出雲建雄神社



 出雲建雄神社は大和国山辺郡の式内論社。他の論社は都祁の葛神社また雄神神社
 出雲建男神について(神奈備掲示板 平成13年8月1日投稿)


 石上神宮の出雲建雄神社は神宮の禁足地より高い所に西を向いて建っています。人工的に高くしたとは思えません。このことは、石上神宮は、もともと出雲建雄神社のあるところに鎮座していて、石上神宮の変遷から脇にある神宝を人質ならぬ「宝質」で集めた保管場所《宝蔵》が大きくなって、そちらが本殿になったと考えるのが自然です。

 『古事記』では印色入日子命は、横刀壱仟口を作らしめ、これを石上神宮に納め奉り、すなはちその宮に坐して云々。と記されています。
 次ぎにこの印色入日子命が年老いて、大中姫を経由して祭祀を物部十千根に委ねる話が『日本書記』
に記されています。これ以降、物部連が石上神宮の神宝を治めます。
 この物部十千根はその前に出雲国の神宝を確保しに行きます。出雲の豪族を征服したとも考えられます。物部十千根が選ばれたのは、物部氏が元々出雲系だったとも考えられます。
 物部十千根は饒速日命の七世孫で、遡れば六世孫の伊香色雄命、五世孫の鬱色雄命、四世孫に大水口宿禰命、三世孫に出雲醜大臣、出石心大臣の名前が見えます。

 桜井市池之内に稚櫻神社が鎮座しており、式内若櫻神社の論社の一つです。祭神は出雲色男命 配 履中天皇 神功皇后となっています。由緒は履中天皇が磐余市磯池で遊び、季節はずれの桜の花が飛んできたのを、物部長真胆連に桜を探させた。というものです。この物部長真胆連は『姓氏録』に神饒速日命三世の孫出雲色男命の後、四世の孫。とあり、物部十千根と同時代になります。多分、同一人でしょう。

 稚櫻神社の祭神に出雲色男命が神として祀られています。この神社にゆかりの物部の祖と言えば、物部十千根です。即ち出雲色男命のしこ名で祀られていると考えていいのでしょう。
 同じように石上神宮の出雲建男神社ですが、物部十千根の代に石上神宮の祭祀権を取り戻しています。功労者として、祀られたと考えられないことはありません。
【問題】 醜=建 か?
ということです。この前に提起しましたが、そのときに大三元さんからの例示として、葦原シコヲ、出雲シコ(タリ)、鬱シコ、伊香シコがあげられていました。葦原シコヲの名は大国主が出雲から須佐の男の坐る根の国に行ったときに、須佐の男の「こは葦原色許男の命と謂ふぞ」との台詞があります。大国主は八十神との戦いの後でした。出雲では「醜」です。
 倭男具奈は熊曽建との戦いの後で、倭建命となりました。九州では「建」です。『古事記』では和建命の物語の直後に出雲建を討ち取る話が出てきますが、これは大和から見たので出雲建と表記したのでしょう。自分で名乗っているわけではありません。
 【解答】 醜=建 である。敵対者を打ち倒すほどの強力さという意味があるのでは。
 物部系図の饒速日命の三世孫に出雲醜大臣の名が見えますが、第四代懿徳天皇に仕えた程度のことしか『先代旧事本紀』にも出ていません。愛知県岡崎市百々町字池の入の七所神社には饒速日命、可美眞手命、彦湯伎命、大彌命、出雲醜大臣命、出石心大臣とこの辺りの物部の遠祖の一人として祀られてはいますが、特段のことをなしたようではありません。
  出雲建男とは誰のことか? 
 稚櫻神社、石上神宮の出雲建男神社を考えると、物部十千根大連のことと考えるのが自然です。
 前には建御名方命と仮定しましたが、石上神宮や都祁村に現れる必然性が少ない上に、建御名方命が出雲に持ち込まれたのは近江佐々木氏が鎌倉末期に出雲に根を下ろし、自家の守護神として持ち込んだのでは、との説があります。室町時代でしょうね。


物部氏ホームページ

暢気なタオさん

神奈備にようこそ