鏡作伊多神社(かがみつくりいた)
奈良県磯城郡田原本町保津150 ゼンリン


鳥居


交通案内
西)田原本駅(近鉄) 北西 1km


祭神
石凝姥命
摂社 宇間志麻遅神社「宇間志麻遅命」


由緒
 大和国城下郡の式内社。
 この地に居住した鏡の鋳造を業とした鏡作部の氏神である。鏡作部は倭鍛冶の祖としての天津麻羅の物部氏に関係がある。特に保津は穂積であり、物部氏の一族である。

 カガミのカガは物部の伊香我色男や天香具山のカガ・カグと同様に銅、もしくは溶けた銅が凝り固まるコリも同じである。


 さて何故「伊多」であるのか、石凝姥命と伊多とはつながるのであるか。 鋳形の中で凝り固まった状態を「板」にみた社名との見解があるが、語呂合わせ的なコジツケに思える。
 石見鏡作神社で述べたように、石見地方にゆかりのある五十猛命と宇間志麻遅命の関係で、金属鋳造に必要な木炭などの調達にからんだ「木の神、植林の神」の五十猛命をも祀った故の「伊多」であろう。


黒田廬戸宮、保津、石見と小坂の麻気神社の配置



 石見の鏡作神社と保津の伊多神社を底辺とする直角三角形の頂点に黒田の地域の孝霊天皇の宮の伝承を持つ孝霊神社があった。 偶然の一致とは思われない、重要である云々と大和岩雄氏も述べておられる。

 浅学を省みず小生がここで一つの答えを出してみたい。
 孝霊天皇が実在したのかどうかは別に記紀の伝える皇統譜によれば


 この系譜の孝昭から孝霊への皇位の継承は、御間城入彦五十瓊殖(崇神天皇)のイリ王朝から大足彦忍代別(景行天皇)のタラシ王朝への継承を前例ありとするためのものであるが、物部・尾張系の世襲足媛と石見出雲系の押媛(五十坂媛)の血を受け継いで即ち支配して孝霊天皇が君臨したことを示している。 まさに伝孝霊宮が頂点にたち、石見と保津の鏡作神社を配下に抑えた姿を語っている。

 なお孝霊天皇は、鳥取県日野町近辺のタタラ師が祀った楽々福神社(ササ=砂鉄、フク=タタラを吹く)の伝承にこの地で鬼退治を行ったとされる。伯耆のタタラ師と鏡作の鍛冶とのつながりを示す説話である。



お姿
 環濠集落内にある。保津遺跡は弥生前期から後期の集落遺跡で、土器、石鏃、石槍、硬玉の勾玉などが出土している。
 迷路のような中で神社に着く。湿地帯であったらしく、神社の周りも環濠である。杉と楠の巨木で盛り上がっている。また神前にはヒサカキが植栽されている。実に古社らしい趣である。宮古と保津の神社は西向きである。孝霊天皇の出自の葛城の赤銅の八十梟師の一部か移動してきたのかも知れない。祖先の地の方を向いている事を意味しているとも取れる。


本殿





お祭り
保津 早苗祭(さなえまつり) 6月不定期、10月13日 例祭



日本の神々4(大和岩雄)白水社
古代倭王朝論(畑井弘)三一書房

物部氏ホームページ
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