石上神社
天理市瀧本町483 

交通案内
近鉄天理駅 東4km 国見山ハイキングコース its-mo

拝殿


祭神
石上大神

摂社 皇大神社「天照大神」、春日神社「春日大神」、住吉神社「住吉大神」、水分神社「天水分神」、八幡神社「八幡大神」『天理市史』


由緒
 地元では、石上神宮の元社という。

 石上神宮は平野を見下ろす絶好の地に鎮座し、石上氏の威光でけではなく王権の武神、武器庫、宝物庫として、統治の象徴的存在であった。
 神宮は元々からそうであるはずがなく、布留川の水神祭祀の場であった。里神と言えよう。 

 里神に対しての山神が、この石上神社と考えてもよい立地である。
 一つは、桃尾(ももお)の滝を神として祀る立地とみることができる。水神は滝に日が射し込めば、白龍が虹となって出現するのである。

 桃尾はモモオと読まれるが、宮城の北の桃生はモノウと読まれ、元々モノオであって、物部の聖地であっても不思議ではない滝の名とも思える。 なお、神奈備掲示板に香具さんが桃尾を(とび)と読ませる資料を発見された旨カキコがあった。 とび、とみ、長髄彦や饒速日命にまつわる地名でもある。

 この滝には、草薙の剣を持っていた八岐の大蛇が剣となって降臨したとの伝承が語られる。 かって、桃尾(もものお)村の隣に針之尾(はりのお)村があった。 尾張には草薙の剣を祀る熱田神宮が鎮座している。尾張の勢力、すなわち天火明命を祀る勢力の影響が感じられる。 饒速日命を天火明命と合体させた神名もあるように、物部、尾張、さらに丹後の影響が、近江の柘植から大和の都祁を経由して大和平野の一角に登場した足跡ではなかろうか。
 大和平野の東の都祁から近江の南の柘植一帯は水が豊かで洪水の少ない絶好の穀倉地帯であって、古代の王権の垂涎の地であった。海人族の米倉であったと想定できよう。

 八岐の大蛇伝承は出雲の物語として語られるのだが、『出雲風土記』には出ていない話である。梅原猛氏は大和の三輪山を八岐の大蛇に重ねて論考されているが、 三輪山付近の勢力すなわち巻向の王権を凌駕した勢力の登場を素盞嗚尊神話に重ねたのかもしれない。

 饒速日命の降臨伝承には磐座信仰が残っているのは、河内の磐船神社、南河内の磐船大神社坐摩神社行宮の磐座を見ても明らかである。 この石上神社境内もそうだが、桃尾(ものお)の滝の周辺も荒れ放題だが、それでもかっては磐座信仰の聖地であったと見ることができよう。

 後に、大和平野がムツゴロウの干潟から干上がって広大な平地が出現して来て、山の地域から下りてきたのである。 二度目の降臨と言える。白庭山とは布留山であったか。

 仏教の興隆とともに、排仏派の物部守屋が蘇我氏に滅ぼされて以来、物部の聖地と民は仏教勢力におかされ、寺院建立に使役されたのである。 ここにも龍福寺が和銅三(710)年に創建された。敷地内には16の坊の建物が並ぶ時代があった。 この寺の山内絵図に「平大明神社」の名で、石上神社であろう小祠が描かれているとのことである。 この龍福寺は義淵(ぎえん)という僧侶が開祖とされ、後に行基(ぎょうき)や、弘法大師空海も訪れ、真言密教の大道場であったという。

神社


お姿
 石上神宮北側の道を布留川に沿っていく。布留川にはその昔は雨乞いを祈願して馬を投げ込んだそうだが、 現在の推量や幅では考えられないことである。川の中にも石塊が多く、神社から桃尾の滝付近にも磐が多い。 磐座かどうかは、そこに神が降臨するとするかしないかで決まるのだが、それは人間が感じて決めるものであろう。

桃尾の滝

高さ約23m、大和高原の西端を南北に走る春日断崖層の中では最大。八剣神社の由緒にあった八箇の石は、現地の奥まで探索された香具さんによれば、 桃尾の滝の水が落ちてくる上の方の、さらに奥で、テラスのようになっている所だそうである。

古今和歌集 今はまた 行きても見やば 石の上 ふるの滝津瀬 跡をたづねて(後嵯峨天皇)

桃尾の滝上流の磐

お祭り
例大祭 10月14日


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