波太神社
阪南市石田167番地 ゼンリン

鳥居



交通    JR阪和線和泉鳥取駅西へ2km

祭神    角凝命、應神天皇
摂社 鳥取神社「天忍穂耳命」

波太神社社殿



注釈 『平成祭データ』から
 古来、鳥取大宮と称し又は波太八幡宮の社等の称号あり、波太神社は鳥取氏の祖角凝命を主神として相殿に応神天皇を祀り、延喜式内の旧社にして国内神名帳に神階正四位下波太社とあり、鳥取大宮の称は鳥取郷の総社たるを以てなり、御鎮座年代詳かならさるも社伝(妙法院二品尭延親王の撰したるもの)に曰く、

和泉國日根郡鳥取郷者天之湯河板挙居地也、湯河板挙為垂仁天皇子誉津別命捕くぐい献之始皇子乃長無言於是発言天皇大悦、即賜姓曰鳥取造事日本書紀湯河板挙社建於波太むら祭祖神角凝命延喜式神明町所謂波太神社是也、古、紀、其他の史書に曰、垂仁天皇の時角凝命三世の孫天湯河板挙、皇子誉津別の為にくぐいを出雲(或は云但馬)に捕えてこれを献ぜしかば天皇其の功を賞して鳥取連の姓を賜ふ云々。

 時に天湯河板挙一族の居住地たる大字桑畑の奥の宮に祖神角凝命を奉祀す。 これ波太神社の起源なり。 波太は畑の義にて鎮座地を社名としたるなり。

 八幡宮は昔神功皇后新羅を征し凱旋のとき偶忍態王反し住吉に屯するとき式内宿禰に命じ皇子を懐きて南海に起かしむ、宿禰御船を鳥取の玉津に繁ぎ皇子を懐にし海辺を逍遥せられし縁により後に其の地に社殿を設け応神天皇を祀れり。 今の下荘村大字貝掛指出森神社是也。

 其の年間詳かならねど桑畑むらの波太神社兵火に罹りしを以て郷の耆宿力をあわせ私財をなげうち今の地に社殿を造営し桑畑むらより波太神社を是処に移し指出森神社より応仁天皇の神霊を迎へ相殿に合祀せり、当時神領数箇所ありしも歳月の移り行くままに社運漸く傾き元亀年間に至り最も甚だしく殿堂いたく朽廃せしかば、公方の保護の下に再興し仁和寺宮一品仁助法親王を導師として遷宮式を行えり。

 天正年間織田信長紀州征伐の時当社をよぎり内陣に入らんとしけるに社殿大に震動し其の目的を達し得ざりきと云う、後豊臣秀吉の根来征伐に際し其の余おうにかかり殿堂社寳一時に灰燼に帰し、昔平重盛熊野詣の時当社に奉納したる大刀を始め其の他の重寳悉く失せたりと云う、其れより慶長年間豊臣秀頼片桐且元を奉行として営繕せしめたるは現在の社殿なり。

 されど社領の多くは収公せられ僅かに御供田を社域の一部に遺し以て維新に至る。

波太神社社殿


 豊臣秀吉の根来征伐に際し其の余おうにかかり殿堂社寳一時に灰燼に帰し、昔平重盛熊野詣の時当社に奉納したる大刀を始め其の他の重寳悉く失せたりと云う、 其れより慶長年間豊臣秀頼片桐且元を奉行として営繕せしめたるは現在の社殿なり。 されど社領の多くは収公せられ僅かに御供田を社域の一部に遺し以て維新に至る。

 明治維新まで神宮寺であった神光寺の跡地から多くの遺跡が発掘されている。 約1万年前の終末期の旧石器時代、縄文時代の石鏃、弥生中期の方形周溝墓等である。 神社や寺院はまさに生ける古代史を語りうる。大切にしていきたい。

鳥取神社


祭神 天忍穂耳命(元、山中神社祭神:現地福寺)


由緒 王子原の馬目王子神社、八王子山の八王子神社、山中渓の山中神社(地蔵堂王子神社)が合祀されている。
これらのうち、八王子神社は観音を以て本地とし、もと紀伊国の岡崎郷にあったが、沢田某なる者が1084年(承暦8年)故あって山中村に転居するに際、神像、観音像に離れるを嘆き、窃にこれらを袖中に蔵して小社を建立した。 また山中渓には氏神がなかったので、八王子神社を分霊し山中神社を創建したと言う。
 山中神社は熊野詣での人々が健脚を願った。足神様と呼ばれていた。


物部氏ホームページ


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