星田神社
大阪府交野市星田二丁目
星田神社全景
交通 JR 学園都市線星田 南南西1km 星田神社its-mo 妙見its-mo
祭神 住吉三神、息長帯姫命
境内摂社 交野社(古宮) 饒速日命、須佐之男命、大雀命
境外摂社 星田妙見宮(小松神社) 天之御中主大神 (仏教では北辰妙見大菩薩、道教・陰陽道では太上神仙鎮宅霊符神)
妙見宮の天之御中主は、金属に関する神だそうである。地中にある鉱床は星の恵みとの理解からだそうで、古来からの金山の近くに妙見さんが多いのはそれゆえである。
当妙見宮にも北斗七星の精が降臨したとの伝承があるが、金属との関わりの伝承は聞かないが、字を鐘鋳谷(カネイダン)と云うのはただごとではない。
注釈 一本の大杉を聖樹として、交野物部の遠祖である饒速日命を祀っていたとのことである。
蘇我物部戦争の後、饒速日命を祀ることができなくなり、やはり物部系の津守氏の奉祭していた住吉大社の神を表の祭神としたと伝わる。
饒速日命は交野社として脇の摂社に祀られている。
海の神である住吉大神が海と離れた場所で祀られているのはこのようなケースが多いとのことである。この近くを流れる天の川上流に饒速日命の降臨伝説のある磐船神社があるがここも住吉大神を祀っている。 また更に上流の生駒の住吉神社にも摂社に饒速日命が祀られている。
なお交野ヶ原は平安貴族の遊びの野であり、和歌を詠んだ地であるので、和歌の神である住吉神を祀ったとする節もあり、定まらないようだ。
当社は宝永年間(1704-11)にこの地の総社である磐船神社から住吉三神と息長帯姫命を勧請して大きい社殿を建立した。
星田神社本殿
星田神社古宮
星田妙見宮について
生駒山系の端の磐座を祀る。磐座と天の川とは天磐楠船の通路としてその組み合わせは多く、饒速日命の伝承が残る場合が多いとのこと。
この妙見宮は弘法大師の修行地で、七曜の星が降りたと云われる。それを磐座としているが、恐らくはもっと古い時代の磐座信仰の地に弘法大師伝説が覆さったのであろう。
社頭の説明
当霊山は平安時代の弘仁年間(810〜824年)に弘法大師空海上人が私市の獅子窟寺の岩屋で仏眼仏母尊の修法をされたときに当霊山に七曜の星が降臨し大師自ら「三光清岩正身の妙見」と称され北辰妙見大悲菩薩独秀の霊岳、神仏の宣宅諸天善神影向来会の名山、星の霊場としてまつられました。
また当宮を一 点として、当村内の光林寺と星の森の三点に一辺を八丁として降臨するを以て「八丁見所」と云われ、当村を三宅庄星田村と称されました。当御祭神は神道にては天御中主大神、仏教にては北辰妙見大菩薩、陰陽道にては太上神仙鎮宅霊符神と申されます。
星祭り 2月8日 七夕祭 7月7日 星降り祭 7月23日
お姿
社域はそれほどひろいくはないが、社殿は八尾近辺の物部の神社とよく似ている。本殿の向かって右側に古宮がある。
妙見宮は鬱蒼とした参道を妙見山の頂上にまで登る。磐座は鼎の如くと形容されるように二つの巨石が並ぶ。 またその背後にも幾つかの巨石が見える。
星田妙見宮の磐座
星田妙見宮の奥宮の稲荷と竜王
<
お祭
秋例祭 10月16、17日
河内名所図会 星田妙見
『平成祭礼データ 星田神社』
田神社は旧の字向井にある。
境内一一八二坪。
祭神は住吉四神、すなわち表筒男(うわつつお)命、中筒男命、底筒男命、息長帯姫(おきながたらしひめ)命である。
社殿は住吉造りとせず、飛鳥造りになっているが、奈良飛鳥大社の二十年毎の建替の時、その旧社殿を譲り受けたからだといわれる。
建立の時期については、神殿に祀られている御神体を納めている桶代の表に「明治五壬申十一月」と記されており、推察するに、当時明治二年、明治政府より神仏判然令が布告されて、廃仏棄釈がさけばれ、明治五年に当神社も星田神社として、村社の社格が定められた時と、時を同じくして建立されたようである。旧の拝殿も明治五年建立と推定されるが、昭和五十八年に現在の拝殿が建立される。木造切妻造り銅版葺である。星田の古傳によると、当地交野の磐船明神はもと星田、私市、田原、南田原の総氏神だったが、宝永年間(一七〇四−一七一一)、この村々の間に宮座についての争いが起こり、その後磐船神社の神霊を、それぞれの村に移して祀ることとなり、当時、平井源左衛門という人が神主職に在任中の折り、当地にその御分霊をお遷しお祀りする事となったという。当社では大昔からこの土地に小さい祠を立てて、饒速日命を祀った宮、すなわち現在本殿の北側に古宮といわれる末社があったが、この時より、磐船の総社をこちらに遷すというので、古宮(もとみや)よりも大きい住吉四神の大きい神殿が建てられ、それ以来この社が主神の形となったものである。伝えによると、現在本殿の住吉四神を祀ったよりも遥か以前、ここに一本の大杉があって、そこに当地の氏神として交野大明神を祀っていたが、後にそれが枯死したので、その芯を御神体とし、この古宮ができたという。それは鎌倉か、室町幕府の時代か、いずれにせよ当社最古の神であった。西井長和著『星田懐古誌』(昭和五十四年交野誌話会刊)によると、西井長和氏所蔵の天文四乙未年(一五三五)の奥書のある神明帳には、この交野大明神の名が記されているという。この北河内にあって、遥か昔より当地方の交野物部の御祖である饒速日命を古宮として祀り続けてきたのは、この社だけであり、当地方第一であろう。この社につづいて、石段・鳥居の正面に八幡社がある。この社はもと新宮山の頂上にあったものを、明治維新神仏の分合整理によって、明治七年九月にここに遷されたものであり、昔は山城の男山八幡宮を本宮、こちらを新宮と言ったようである。平安時代に交野市域の南東部の丘陵地帯である津田、倉治、私市、寺村、私部、星田などは三宅山といわれ、一千四〇〇町の山と免田二三町が石清水八幡宮の寺領荘園となり、この地域の守護神として八幡宮の御分霊を新宮山に勧請したのに始まる。この外に境内に恵比寿社、天照大神社、菅原社、庚申塚、および祖霊社をお祀りする。なお文化二年(一八〇五)の三浦蘭阪著『川内奨撫古小識』には、当住吉祠に正平二十一年(一三六六)の銘の石塔があったと記されている。
以上
|
公式星田神社・星田妙見宮
物部氏ホームページ
神奈備にようこそに戻る。
|