石切劔箭(いしきりつるぎや)神社
東大阪市東石切町 its-mo


大鳥居

山門 劔箭が天をさす。


交通
近鉄生駒線石切駅 西へ下る700M
地下鉄中央線→近鉄乗り入れ新石切駅 東北へ500M
上之宮は、当神社から東へ1KM、近鉄奈良線をくぐって登る。



祭神
饒速日命、宇摩志摩治尊(可美真手命)
式内社二座とある。上之宮は上ノ神社と呼ばれ、饒速日命を祭神としていた。 従って本社は宇摩志摩治尊であった。

神社発行の参詣のしおりによれば、饒速日命は瓊々杵命(天孫降臨の孫)の兄 としている。先発隊として大和へおもむいたとの説明になっている。旧事本紀によるか。
物部氏の有力支族である穂積氏が祖神を祀ったとされる。また氏子世帯は6500 のほか、石切講が100講社15,000人の信徒となっている。*4

拝殿



由緒
 社伝によれば「創建は神武二年に東側の宮山に饒速日命と宇摩志摩治を祀った。」と言う。

 勝井純氏の『神武天皇聖跡考』によれば饒速日命は現在の大阪城所在地にあったとされる磐船神社に祀られていたとの説があるとされる。 それから草香山を目指して当地に移った。饒速日命はその後饒速日山(草香山)の頂上に設けられた上の宮に祀られ、物部氏が滅ぶと上の宮の神霊はそれぞれ東西の下の宮に移されたと言う。 下の宮として生駒市上町長久寺の
登弥神社(伊弉諾神社)と当社である。*1

 『和漢三才図会』東洋文庫 摂津の項に次の記事が見える。


高津社(高津宮)は生玉社の北(南区高津一番丁)にある。祭神は比売古曾神〔本名、下照姫命(高比売命とも)〕大国主命の女〔味耜高彦根命の妹、天稚彦命の妻である〕が始めて天盤船に乗って地上に降られた〔摂州東生郡高津がこれである〕。 その船の祠を磐船大明神と号する〔『延喜式』の当社の祭に、有帛・魚塩等を賜る目録がある。また、磐船社は東生郡にあるとするが今はない。河州交野に磐舟社があるのがこれか〕。
(日本紀)あもなるやおとたなばたのうながせるみすまるの玉の(玉のみすまるの)あな玉はやみ谷ふた渡らす味耜高ひこね。下照姫の歌は文字数が未だ定らない時で、歌の初めとする。そののち人代に至って、仁徳天皇が旧跡を慕ってここに都し、高津宮と名づけられた〔宮とは禁裏の通称である〕。
  飛びかけるあまの岩船尋ねてぞ高津の里に宮作りけり 仁徳帝御製
思うに、当社の神伝は紛失した。言い伝えによれば、往昔は生玉社に隣し〔今の農人橋広小路の辺〕、天正年中(一五七三〜九二)秀吉公が城を築いた時、社を坤(南西)に移した〔生玉及び森社も同時に移された〕。 今高津町(天王寺区東高津町)という〔人家の裏に古跡がある〕。
 

 玄松子さんから。


本殿

 大阪城所在地にあったとされる磐船神社の祭神が比売古曾神となっており、饒速日命ではない。 ところが福岡県小郡市大崎に媛社神社があり祭神は媛社神と織女神であるが、江戸時代に奉納された鳥居に磐船神社の名が見える。 由緒書きによれば媛社神は別名を饒速日命と言うとされている。*1 難波と筑後で媛社神と饒速日命が同一神と見られているのは興味深い。


 なお大阪城ができる前には石山本願寺があった。名の通り巨岩の多い地域であった。 大阪城にはかって難波宮が置かれた。ここと本殿と上の宮の延長に生駒山頂がある。生駒山頂は饒速日命が磐船にのって降臨した哮峰[たけるがみね]にも比定される。



たたずまい 
 神武と長髄彦が戦った日下はここの北である。
 神宝に画文帯神獣鏡や環頭太刀柄頭がある。*3 御神体は神武天皇の蹴上石なる霊石である。*4
 神木の樟の木は天念記念物である。神奈備は生駒山である。日下(草香)は日の元であり、かっての難波の海の最も東に位置し、太陽祭祀の中心地である。
 右に五社明神社(恵比須、大国主、住吉、稲荷、八幡の大神)、左に池と水神社(弥都波能売神、天水分神)がある。

 腫れ物に効験のある神として有名で参拝者が多い。お百度まいりの真剣な列が本殿の前で賑やかである。

 参道は和漢の薬(サカモトが有名)や土産物屋で縁日のようである。近鉄奈良線石切駅までの間に日本で3番目とされる大仏や献牛舎がある。 手前には絵馬殿があり、大きい神社である。


上の社(石切神社) its-mo 

 元々の本社、明治初期に廃止、昭和46年再興。ご神体は残っていたとの事、しっかりした顔立ちの巫女さんがいる。石段と木々が美しい風格のある神社である。奥は生駒山で、奥行きの深い印象の神社である。

上社拝殿

上社本殿



左奥に登美霊社があり、饒速日命の妃(長髄彦の妹、宇摩志摩治の母)を祀っている。
また婦道神社があり、弟橘姫命を祀っている。たたずまいがおくゆかしい。弟橘姫は穂積氏の忍山宿彌の娘とされ、物部氏と同祖である。

登美霊社



宮山めぐりハイキング

宮山の祠

  毎第二、第四日曜日  本社崇敬会館前→上之宮→宮山→参道商店街→本 社 無料、自由参加


お祭り
 4月14日〜16日 石切講の大祭り
 8月 3日・4日  夏の祭り 大幣撓神事(おおべいため)
10月21日・22日 秋期大祭・宝物館一般公開



難波の三種の神器が神社配置に!

 石切劔箭神社、玉祖神社、若江鏡神社は地図のように三角形を為している。

河内国名所図会 石切劔箭神社

石切劔箭神社(大阪府誌)

石切劔箭神社(大阪府誌)
 天津神より十棚の神寶を授かり天の磐船に乗じて哮峰に天降まし、饒速日尊及び可美真手の命を祀れりと創建の年代詳かならす、延喜式内の神社にして(式にも二座とあり)貞観七年(865)九月正六位より従五位下に昇わ給ひし事は三代実録に見ゆれども降りて足利氏の末葉兵燹に罷りて社殿・寶庫を灰燼となし記録由緒を失して沿革等を知るに由なし
 只云ふ社司木積氏は創建以来連綿として奉仕し、初、氏を穂積と称せしを後功積と呼び今はまた大積と改めたりと。
 家に神符を蔵し背に「弘治三年(1557)神主春行記す」と刻せり。近隣の邑人は皆本社々指して只穂積堂と謂へり以つて雷社と木積氏と由緒の浅からざるを知るべし。社は大戸村大字神並の南、高野街道を東に距る二町許の處に在りて華表は街道の側に立ち、賽路の両側は巨松堰蹇し其の下々穿ちて進めば即本融に達す。神域一千坪弱、幣殿・神輿庫・末社相并び巨樹蓊欝として社頭を蔽ふ。一石あり、伝へ云ふ神武天皇東征のとき生駒山を越えて大和に入らんとし給ひしに長髄彦との戦利あらざりしかば退いて此に次し諸神を祭り給ひき、神並の称は即是れに因り、且、天皇宣はく我能く醜虜を滅し中洲を定むるを得べくんは此の石抜くべしと、乃、身づから足を挙げて之を蹴り給ひしに忽飛揚せりと石はもと社の東南に在しを後に此処に移しゝものなりといふ。社は腫物を患ふもの祈願すれば必霊感ありと伝え賽者絶えず、社内及び華表前の売茶唐はみな此れに依りて優に衣食せり。


*1 白鳥伝説(谷川健一氏)小学館
*3 大阪府歴史散歩「山川出版社」
*4 神社パンプレット


公式石切劔箭神社


物部氏ホームページ


神奈備にようこそ