中臣須牟地神社(なかとみすむち)
大阪市東住吉区住道矢田2-9-20

社域と手前の謎の祭祀跡


交通 近鉄南大阪線矢田駅東500M  its-mo

祭神 中臣須牟地神 配 神須牟地神、須牟地曾禰神、住吉大神 『平成祭礼データ』
 住道曽根神(天種子命) 『大阪府神社史資料』


摂社 龍姫社「竜姫」、中臣酒屋神「中臣酒屋神」

 

拝殿と神木


注釈 中臣氏の祖先の天種子命一族が在住、藤原不比等公が祖神をあわせ祀った。 摂津国住吉郡の式内大社。後に河内国丹比郡に編入されている。
 当社を含めて須牟地社(住道社)は遷座を繰り返しているようだ。 中臣須牟地神社の拝殿に奉納の木額を『叢社記』と呼ぶが、式内では当社、
神須牟地神社須牟地曽根神社の三社で、神須牟地神社は当社の西の天神山にあり、少彦名神を祀る。(中略)。須牟地曽根神社は当社の北に鎮座、住吉の第二之社と言う。(後略)享保年中のもの、18世紀前半。

 住吉の第二之社とは中筒男神を祀る神社のことで、須牟地神社と呼ばれていた湯里の住吉神社のことのようだ。須牟地神がこの神社で鎮座していいのであれば何も天神山から遷座していく必要はないように思う。住之江の津から大和への道である磯歯津路にそれほど離れているわけではない。

 天神山は湯里住吉神社の南300m付近であったとされるが、今その面影はない。
 上町台地から泉北丘陵への陸地は古代からあり、そこに難波砂堆ができたり、諸川から運ばれる土砂が堆積して大阪平野が大きくなっていったが、それに合わせて道路も伸長し、それに相応して磯歯津路も動き、また社地も動いたのであろう。神社施設もそれほど大掛かりなものではなかったのであろう。

 『雄略紀』十四年三月に「呉国の使いが住吉の津に泊まり、この月に呉の来朝者のため道を造って、磯果(しはつ)の道に通じさせた。これを呉坂(くれさか)と名づけた。」と記載されている。磯果、磯歯津、四極は万葉集にも出てくる。

 万葉集巻三の二七二 高市連黒人覊旅歌八首の一
 [原文]四極山 打越見者 笠縫之 嶋榜隠 棚無小舟
 [訓読]四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚なし小舟
 [仮名],しはつやま,うちこえみれば,かさぬひの,しまこぎかくる,たななしをぶね
 四極山は磯歯津山で東住吉区または愛知県幡豆町吉良町付近、笠縫の島は大阪市東成区深江ないし渥美湾の前島などの比定される。大阪の地理から考えるとしっくりこない。

 『忌部記文』に「須牟地の神酒を賜うて穢を祓はない者は日本人ではない。」とあり、大陸からの渡来人が日本人になる為の儀式であったと思われる。酒を共に飲むことで仲間入りとは今もって日本人の習慣である。「俺の酒が飲めねーのか」。一種の踏み絵だったのかもしれない。
 社殿は古く、本殿を取り巻く土塀は崩壊し、すり減っている。神域は広く、木々も多い。南西角に新しい鳥居がたてられている。
 数年ぶりの参詣だったが、行き届いた清掃がなされていた。

本殿付近


『平成祭礼データ』


中臣須牟地神社
平安時代に定まりました延喜式と申す規則によりますと、当社は勅使のおまいりなさ っておられました大社であることが明らかであります。これは戦前の官幣大社と同格 でありまして、当代一流のお宮でございます。もちろんこの規則のきまるずっと前か ら堂々たる大社であったはずでございます。南北朝時代から室町時代にわたる長い間 の戦乱によって、しだいに当社の御由緒は忘れられてしまったようです。当社は、中 臣(ナカトミ)氏の祖先であり神武天皇にお仕え申された天種子命(アメのタネコの ミコト)をはじめ、その御一族や御子孫のかたがたが、二千数百年以上もの昔から在 住せられた誠に由緒ある地の神社でございます。大化改新には、この中臣氏から藤原 鎌足公があらわれて大きな手柄をお建てになりました。また御子不比等(フヒト)公 をはじめ御子孫の中には、奈良から京都へとつねに天皇さまのおそばにお仕えして、 歴史上重要な役目をはたされたかたがたが多いのであります。藤原不比等公は勅命を お受け担って、大昔から中臣氏の根拠地であった当地に、御先祖をあわせまつられた のでございます[社記]。もちろん中臣氏は、朝廷の祭祀をうけもつて来たのですか ら、ごく古い時代からここでお祭りをおこなうていたのは明らかであります。考古学 の研究によりますと、当地は、畿内での弥生式農耕文化の発祥地であり、弥生式文化 時代全体にわたる広大な住居地であります。ここに発達した農耕文化は、紀元前後に は畿内全体に広がり、三世紀ごろには日本全体に影響したといわれます。祟神天皇は ここにわが国最古の依網(ヨサミ)池を作られ、埀仁天皇は最大の狭山(サヤマ)池 をつくられて、年々豊作が続き、やがて朝廷のいきおいは朝鮮半島にまで及びました 。応仁天皇の御代に、大陸の人達が、本国の戦乱をさけて平和な我が国に新しい大陸 文化を伝えました。わが国内は、神をまつる固有の信仰で固く結ばれ幸せに暮らして いましたから、その人たちも当社の神酒を賜うて、神にかよう穢(ケガレ)を祓(ハ ラ)いました。[延喜式]忌部記文にも、「スムチ(当社)の神酒を賜うて穢を祓わ ない者は日本人ではない。」と申しております。

物部氏ホームページ


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