玉祖神社(たまおや)
八尾市神立443番地 its-mo
石段とクスノキ
交通案内
近鉄大阪線服部川 北北東 2km
祭神
本社三所大明神
第一玉祖大明神(男神) 十一面観音
第二香森大明神(女神:中ノ森) 釈迦如来 都夫久美神社の祭神
第三鴨森大明神(男神:対ノ御前) 地蔵菩薩 鴨神社の祭神
櫛明玉命 または 玉祖神
配祀 イザナギ命、イザナミ命、宇麻志麻治命、ほか」
摂社 吉野三十八神社「木花開耶姫命」、恩智神社「大御計都彦命、大御計都姫命」、水神社「罔象女命」、山口神社「猿田彦命」ほか
由緒
大和では祭神名が櫛玉命となっている場合には、饒速日命の事と見ていいとは、広瀬大社の樋口宮司の言である。
それは崇仏戦争で物部守屋が蘇我氏と聖徳太子の軍に敗れ去った後の残った物部氏族の祖神を祀る知恵として櫛玉饒速日命の名を櫛玉命のみに隠したと言う事であろう。
この神社では神武天皇大和制圧の功労者である宇麻志麻治命が末席に配されている。
八尾教育委員会の神社説明では、和銅3年(710年)周防国の玉祖神社から分霊を勧請したとされる。この神社の西の平地一帯には玉作一族の集落や工房があったと推定されている。
神社の北には十三街道(山中に十三の墳墓)が通じており、大阪市内の玉造から大和の竜田へ通じる十三峠越えの古道である。
お姿
玉祖神社裏山古墳は横穴式石室で有名である。社宝に木造の男女神坐像があり、女神の坐像は左足を立てている像で、日本では礼儀に合わないが半島女性の場合には一つの作法になっている形である。
当社から西に下りた千塚集落から玉類の半製品や原石が採取されている。
石段下に大きい樟樹があり、石棒を巻き込んでいる。男根崇拝の名残であろうか。
社殿
樟樹の石棒
お祭り
高安祭り 7月16日
秋例祭 10月10日
河内国名所図会 玉祖神社
難波の三種の神器が神社配置に!
石切劔箭神社、玉祖神社、若江鏡神社は地図のように三角形を為している。
大阪伝承地誌集成 三善貞司編著から
業平の一節切笛
櫛明玉命を祭神とする。この神は天照大神の愛用した八坂瓊曲玉の制作者で、地上に来てからも玉造を業とした。和銅三年(710)ごろ当地域に多くの玉造部が集団で居住した記録があり、彼らは祖神として玉明玉命を玉祖神と尊称し、ここへ祀ったのであろう。
延書式内の古社で、近年では眼鏡の神としてレンズ業者からも信仰されている。さて、平安時代のプレイボーイの代表業平は、都の女性たちに飽いてしまい、八尾の高安には鄙びたうぶな女が多いと見聞し、好奇心も手伝ってやってくる。たまたま玉祖神社の境内の茶店に立寄ると、出てきた若い娘の美しさに眼を見張った。都の女のようにべたべた厚化粧もしていないのに、肌は抜けるほど白く輝き、漆黒の髪は腰のあたりまであふれ、重ね着をしていないため身体の柔らかい線が艶めかしくてたまらなかった。娘の名は拇野(とがの)といった。とりこになった業平は、玉祖神社に願掛けしたからと妻を欺き、月に何度もせっせと適い始める。いっぽう拇野の両親は遠い都から業平さまのような身分の高い貴族がこんな田舎に来るはずがない、おおかた性悪狐にたぶらかされているのであろうと娘を閉じこめ、会わせないようにする。困った業平は神社の真の森に忍び、合図の竹笛を吹いた。なんともいえぬ澄んだ音色に栂野もたまらなくなり、こっそり抜け出しては森で逢瀬を楽しむ日が続く。百日ほど経ったある日、いつものように業平は笛を吹いたが、どうしたわけか栂野はやって来ない。しびれを切らせた業平が茶店に近寄り様子を親うと、厳重に閉められていた窓の東側だけが開いている。そっと覗いてみた業平は仰天した。なんともいえぬほど行儀の悪い恰好をした栂野が、飯橋から素手で御飯をわしづかみにして、ムシャムシヤ食べていたのだ。
あっけにとられた業平には、女の姿が安達ケ原で人間を食らっている鬼女に見えた。百年の恋もいっペんに冷めた業平は竹笛を放りだし、一目散に逃走する。それとも知らぬ栂野は毎日待ち続けたが、いっこうに男はやって来ない。そこへ母親が落ちていた笛を拾ってくる。捨てられた笛で業平に嫌われたことを知った栂野は、悲嘆のあまり」君があたり見つつおくらむ生駒山雲ながくして雨は降るとも」と詠み、神社の傍らの池に身を投げて死んだ。それから高安の娘を待つ親たちは、「いいか、決して東側窓は開けてはならないぞ」と教えた。以上が伝説だが、「一節切笛」は「→夜きり笛」を掛たもの。伝説の内容は『伊勢物語』二十三段出る「筒井筒」項の焼き直しである。
以上 |
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