丹生神社(伊太祁曽神社奥宮)
和歌山市明王寺 its-mo
交通案内
阪和線 天王寺→和歌山
貴志川線 和歌山→伊太祁曽 北へ徒歩40分
祭神
丹生津彦命、丹生都比賣命 配祀 天照皇大神
由緒
伊太祁曽神社の奥宮と言われる。普通奥宮とは先に出来た祭祀場所であるが、この摂社は根来寺と伊太祁曽神社との関連から奥宮とされたものと思われる。
伊太祁曽神社には日本の古代の母子神の伝承が伝わっている。この母子神は日前宮と伊太祁曽神社の分離以前のこの地の日神信仰を伝えており、その名残が丹生神社の祭神に現れていると見ることができる。伊太祁曽神社にも太陽神的な意味合いがあったのである。
渡しの神、浮き宝(船)の神としては、航海守護の観点からは太陽崇拝は不可欠である。
お姿
伊太祁曽神社の真北にある。鳥居はない。おそらく伊太祁曽神社の一の鳥居がその役割を果たしているのであろう。参道は熊野古道であり2.5kmになる。
明王寺や矢田の地域は豊かな地域である。すぐ南に矢田山傳法院と言う新義真言宗のお寺がある。横には覺鑁堂(かくばん)が新築されている。
近くの塩谷には「四季の郷公園」ができており、家族連れが楽しんでいる。
社殿
お祭り
10月15日 伊太祁曽神社例祭に御旅所として御輿がここまで運ばれてくる。
紀伊国名所図絵 伝法院明王寺 鎮守社が奥宮の丹生神社
紀伊續風土記 巻之十七 名草郡 山東荘 明王寺村から
生都 彦神
○生都比賣神 相殿三扉二間 二間半 境内山林共方一町許
三部 明神
明王寺の北にあり 祀る所の神本國神名帳載る所の従四位上生都彦ノ神従四位上生都比賣ノ神是なり 後世三部明神を合せ祭り三座の神となせり
當社古より此地に鎭り坐しに 鳥羽上皇山東ノ荘を根來寺に寄られしに因りて覺鑁上人此地に伽藍を造立して明王寺と號せし 伊太祁曾明神の奥ノ院となし其區域を東西八町南北六町と定めしより當社の境内其區域の中に入りて當社自然と明王寺の鎭守神の如くになれり
寛永記に神名を丹生明神とせり 外に白山權現熊野權現妙見社なとありて明王寺の鎭守なれともこれらと同し姿となれりとみゆ
然れとも其時供僧廿六名を置きしに伊太祁曾神社及當社皆供僧各六名と定むる時は當社を敬仰する事伊太祁曾と粗斉くして全く鎭守神とするにあらさる事知るへし
後世明王寺衰へ區域廣大の制壊れて當社の境内猶一町許を占[シメ]給へるを觀れは本より特立の神にして明王寺とは別なる事明けし
今三部明神を合祭るとするは三部明神と銘する神鏡を社内に納る故なり是は永禄七年(1564年)根來より社再建の時納る所といふ此時新に合せ祭りしや
古く合せ祭りしに此時新に御靈代を造りしや 其事は今詳にしかたし 當社の事猶異説多し 詳に神社考定に部辨せり |
紀伊續風土記 巻之十七 名草郡 山東荘 明王寺村から
○伊太祁曾明神游觀[オタビ]所
明王寺本堂の前なる平廣の芝地なり 其南一町半許馬塲にて祭禮の時には流鏑馬先此地は來り後本社に至る 寛永記に明王寺の鎭守丹生大明神の條に毎年九月十五日伊太祁曾大明神御輿神拜之馬此社へ渡るとあり |
伊太祁曽神社
古代史街道 紀ノ国編
丹生都姫伝承
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