丹生都比売伝承


姫の歩み
太伯説話
 神話と歴史をつなぐ夏王朝や実在が確かめられた殷王朝が周王朝に先行した。
 周の王子であった太伯は、聖人の資質を持つ末弟に王位を譲るべく自ら南方の地に去り、文身断髪して後継ぎの意志のないことを示した。 太伯は自ら勾呉と号し、呉の太伯と呼ばれた。
 なお倭は自らを呉の太伯の後裔と信じていた。

春秋時代(BC770〜BC402)
 周の後に春秋時代と呼ばれる時代となった。江南には越と呉の強国が建ち、相争う事幾たびにも及んだ。呉は太伯、越は禹の苗裔で夏后帝少康の後裔と称した。ともに「夷」であるが「華」の後裔を称した。
 我が倭も「夷」である。見よ「華」の傲慢さ、華より夷だ。夷の持つ礼節と独自の文化を大切にしよう。

誕生から美少女へ
 揚子江の南、西湖の景色で名高い杭州は絹や水銀を産する。
稚日女は、江南の呉王国の妹王女 として生を受けた。姉王女は大日女と云う。この地は遙か東の倭国に至る 中央構造線 の西端に当たる。

臥薪嘗胆の故事 結局呉王夫差は越王勾踐に敗れる。
 BC473年、呉は越に滅ぼされ、BC334年、越は楚に滅ぼされた。なお楚国は始皇帝の秦に滅ぼされる。 呉越の遺民は、揚子江以南の海岸沿いに国を構えた。
 この様な国の乱れの中で、金属採取に長けた越人を交えた一族部民は呉王女姉妹を奉戴し、まさに呉越同舟で船出をし、新天地の倭国へ向かった。
 呉越は往古より倭国とは交流があり、倭国には金や水銀の鉱脈が露出しており、また住民は穏やかな人々である事が知られていた。

九州上陸
 南九州に上陸、姉の大日女姫はこの地に伴侶を得てとどまり、後に天照大神と呼ばれる女神の原型となった。狗奴国の狗は呉(gu)であるか。
 妹姫の稚日女姫はミズガネの女神と讃えられ、すなわち丹生都比売神の原型となった。 稚日女姫を奉戴した一族は熊本の八代や 佐賀 の嬉野で水銀鉱脈を見つけ採掘した。
天野大社(丹生都姫神社)の丹生良広氏の「丹生神社と丹生氏」によれば、丹生氏の第一歩は筑前の伊都の地とされている。 この地は邪馬台国の伊都国であるがここには水銀鉱床は出ていない。しかし紀の国の主な水銀産地は伊都郡内にあり、伊都国から人と共に地名が運ばれたとの想定である。 伊都国王の後裔が紀州丹生氏や怡土県主の五十ト手につながり、大分豊後丹生氏になっていったとの見解を開示されておられる。伊都国の氏神の高磯比神社の祭神を丹生都姫と見ておられる。
誠に興味ある説である。伊都国の官は爾支(にき)と云い、これは丹砂に通じるか。


大分で大きい鉱脈見つかる。
  大分 で大きい鉱脈を発見、姫と氏族は移動した。
このサイトでは中央構造線をメインルートと考え、丹生都姫一族の末裔は紀の国に落ち着いたものと見ている。


海を渡り四国へ行く。一部は広島に移動する。
 女神の後裔に新たに爾保都比売が現れた。広島 へ移動した部族は石見・出雲播磨へと進出した。 日本海側に出た水銀師達は再び祖神丹生都比売を奉じて城崎丹後 と沿岸を北上して、 福井 へと鉱脈を求めて行った。

 丹生都比売は中央構造線を進む。
四国 の各地で鉱脈を発見・採掘を行いつつ移動した。四国は空海の生まれた土地でもあり、高野山真言宗が丹砂を狙ってか進出しており、二重構造になっているようだ。

淡路を経由し和歌山へ。
  淡路 から 紀ノ国 に上陸、更に紀ノ川上流を目指した。
 鉱脈の多い紀ノ川上流に拠点を設け、中紀、南紀、奈良県の 吉野・宇陀 方面に勢力を伸ばした。
 特に紀ノ川下流域には土地の祭祀を司る名草比売のもとに御子である 名草比古命 を婿養子に入れ、紀ノ川の守りを固めた。
 紀ノ川下流域を差配していた五十猛命の軍団も丹生都姫の集団を受け入れ、名草比売共々 見守 った。

神として高野に鎮座
 幾星霜を重ね、丹生都姫と一族の後裔は、鉱脈が尽きつつある中で、耕地開拓にも従事し、 紀ノ川流域 だけではなく、 有田川 、日高川流域の採取と治水につとめた。このあたりでは、金属採取より国土開拓の神としての丹生都比売命を祀る神社が多い。
 鉱脈が尽き、一部は 播磨移動した。

水銀を求めて更に東へ
 丹生都比売命を奉ずる人々は、 三重岐阜長野静岡千葉群馬 へと鉱脈を求めて移動していった。

姫の後裔、神武東征で賊として誅される。丹敷戸畔、名草戸畔である。
 日下で長髄彦に破れた 神武軍紀ノ川下流域 に到着した。ここで神武の兄の五瀬命が力つき、なくなり、 竈山 に葬られた。
 一方、神武軍はこの地を制圧すべく名草山を拠点としていた名草戸畔の軍を攻め、名草戸畔は神武軍の新しい製鉄技術の前に滅び去った。 名草戸畔の遺体は頭、胴、足とそれぞれ葬られ、祀られた。
 神武は紀氏をこの地の支配者として残し、神武軍は海岸沿いに南下し、 紀南の地 で同族とも知らず丹敷戸畔を誅したのである。

 丹生の威力のすざまじさは神武天皇の後継の第二代(綏靖天皇)に神渟中川耳の名に渟中(丹生)として現れ、かの天武天皇の天渟中原瀛真人と敏達天皇の渟中倉太珠敷にも登場する事で、その神威を示していると言えよう。

紀氏の地域融和策
 丹生都比売命は「海」の文化圏の出自である。紀氏はその古墳からの馬冑の出土からも判るように「馬」の文化圏の氏族である。紀氏の祖は天道根命とされているが、大名草比古命をその四世の孫としている。この命は 日前宮 を今の社地に遷座し、 伊太祁曽神社 を山東に追いやったとされる。
 土地で圧倒的な信望を得ていた名草戸畔の後に支配者として座った紀氏は名草比売を祀るとともに、その祖神を同じくすると宣伝し、地域との融和を図ったのであろう。

丹生都比売命は記紀には出ていない神である
 天照大神と丹生都比売命が姉妹である事は既に神武軍には忘れ去られており、その結果、丹生都比売一族を蹂躙してしまった。この事で、丹生都比売命を記紀に登場させる事は出来ず、わずかに丹敷戸畔として登場するのである。

丹生都比売命は下記の地域に祀られていない。
 南九州、福岡、山陰、愛媛、大阪、東日本の大半。
 天孫族の勢力、物部氏の勢力、出雲の勢力の大きい地域には別の金属採掘の一族がいたのであろう。

旧事本紀の名草比売命
 物部(海部)氏との関係では、天香山命の五世の孫の建斗目命の妃として中名草姫の名が出ている。
 大己貴命の六世孫の豊御気主の命の妻として、紀国造智名曽の娘名草姫の名が出てくる。

風土記の中の丹生都比売命
 <摂津国風土記> 神功皇后が筑紫国に行幸するとき、神崎の松原に神々を集めた。その神の中に美奴売の神がまじっていて、自分の住む山の杉を伐切り採って船を造れ、その船に乗っていくと幸いがある、との神託を下した。

<播磨国風土記> 神功皇后が新羅征伐に赴く時、集まった神々の中に爾保都比売命がおり、自分を良く祀ってくれるならば赤土を与えようと言った。その赤土を船体などに塗って新羅を攻略した。
帰還後、神功皇后は爾保都比売命を紀伊国筒川の藤代の峯に鎮め奉った。
 杉で船を造る、船を赤土で守ると言う伝えは、木の神でありかつ御船前伊太神として、神功皇后が播磨に祀ったとされている五十猛命を想起せしめる。
 神功皇后と紀伊の国との関係からの説話なのか、丹生都比売命と五十猛命との関係を示す説話なのか、興味の多いところである。

播磨へ移動し合流
また、住吉神との関連も多いようである。筒香の地名、 伊達神社 と住吉大社との関連もある。*1
「住吉大社神代記」に紀伊国伊都郡 丹生川上天手力男・意気続々流・住吉大神とある。住吉大社神代記は平安前期以降の偽書とされているが、 その中の丹生川の川上には丹生都比売を鎮め祀った藤代の峯があるとされている。 富貴村筒香の地では「つつ」が住吉を連想させるが、赤土の地で水銀や褐鉄鉱が出ていたようである。この地で鉄を取っていた船木氏が播磨へ移る際、丹生都比売を奉ずる人々も播磨へ遷って爾比都比売を祀る人々と合流したとも思われる。

弘仁七年(816年)空海は嵯峨天皇から高野山を賜った。
高野山の地を空海が丹生都比売から譲り受ける説話は二種類ある。

高野大師行状図絵から 空海と狩場明神、犬


丹生明神の土地譲り 空海が霊地を求めて大和国宇智郡まで来たとき南山の犬飼なる大男にあった。大男の協力で大小二匹の黒犬が案内し、紀伊との境の川辺で一泊した。 そこに一人の山民が現れ空海を山へ導いた。山の王、丹生明神・天野宮の神であった。この宮の託宣により丹生明神は自分の神領を空海に献じた。

借用書の説話
  弘法大師は高野明神から十年間の期限付きで神領地を借り受けたが、その後密かに十の上に点を加えて千とした。高野明神が十年後返還を求めたが、千を盾に応じなかったと云う。

借用書の説話2
 千年の借用書で借り受けたが、白ネズミが千の文字を食い破ったので、永久に借り受け、返還せずとも良くなった。 

紀伊国名所図会から 丹生都比売の出現



その後の丹生都比売命を奉じる人々
 新しい鍛冶技術の伝播、更に水銀鉱床の枯渇から、丹生神を奉ずる多くの人々は農民として民草の中に吸収されて行った。
 それでも後の世で水銀を扱う人々は丹生都比売命を祀り、鉱脈の尽きないことや中毒から身を守るべく祈ったのである。
 一方、丹生都比売命から罔象女神さらに雨師(おかみ)へと変遷して祀られる場合も多かった。

 高野山系真言宗の進出に当たって、丹生神社の鎮座地に狙いを付けて出ている場合がある。(播磨、土佐)
また単に真言宗だけではなく丹生都比売信仰ともども進出している場合もあるようだ。(白石島)





注 釈




呉太伯と姉妹 周や呉の姓は「姫」氏である。呉の太伯はこの家の出であり姫氏と思われていた。 奈良時代の日本書紀の講義中の質問に、皇室の姓は「姫」氏であると講師が答えている 。*日本の古代1倭人の登場(角川書店)
  丹生都比売神社 では天照大神と丹生都比売命は姉妹であるとの説明をしている。後世の付会かも知れないが、神功皇后が紀伊国筒川の藤代の峯に大神を鎮め奉ったが、この付近は東に大日川、西に丹生川が流れる。大日女、稚日女に因んで付けられた名前とすれば、あながち無視のできない言い伝えである。
 大和を中心として、中央構造線の東に伊勢神宮、西に日前宮が鎮座しているが、日前宮の祭神の日前大神とは丹生都比売命かもしれない。さすれば、双子となる。日本書記によれば、。日前宮の御神体の鏡は伊勢神宮の鏡より先に出来たものである。昔は双子は先に生まれた方が妹とされた。日前宮の祭神を丹生都比売命とすれば、まさに紀ノ国の一宮にふさわしい。
宇陀や吉野の金属を採取したのは飛鳥檜隈に住む渡来系工人との見方があり、ヒノクマでつながる。

名草比売 田殿丹生神社の社伝には、丹生都比売命の御子の高野明神をまたの名を大名 草比古命としている。和歌山には名草比古命と名草比売命を祀る神社がいくつか 現存する。
 水銀採掘業者は娘に養子を迎え家をつがし、息子は外に出すのが慣例であった。中毒から実子を守り、血の繋がりは娘に託した。*朱の伝説(邦光史郎)。 女系は「海」の文化である。日高郡龍神村の丹生神社の主神は丹生都比売神であり、配神として丹生都彦神が祀られている。


猛軍団 五十猛命と日本武尊 五十猛命を祀る伊太祁曽神社の奥宮は丹生神社であり、丹生都比売命と丹生都比古命に天照大神を配している。
 伊太祁曽の社地は、今の日前国懸神宮の地にあった。紀ノ川下流域の要所である。
  五十猛命を祀る神社 と丹生神社とは佐賀、岐阜の飛騨、群馬、和歌山の紀ノ川・有田川に鎮座し、五十猛命が下流に位置している。これは産物の輸送、防衛の二面から妥当な配置と言える。

九州
佐賀県 藤津郡 嬉野町 丹生川(他に 平野 湯野田 下野)丹生神社(祭神 丹生都比売命)
佐賀県 藤津郡 塩田町 馬場下(他に大草)丹生神社(祭神 丹生都媛命)
これらは、丹生川、塩田川の上流に位置し、その下流に
佐賀県 杵島郡 有明町 辺田の稲佐神社(祭神 天神、五十猛命、大屋都比 売命)
佐賀県 杵島郡 白石町馬洗の妻山神社(祭神 抓津姫命、抓津彦命)
佐賀県 藤津郡 多良岳の多良嶽神社(祭神 瓊々杵命、五十猛命、大山祇命 )
などが鎮座しています。

関東
埼玉県 児玉郡 稲沢の稲聚神社(元丹生社)
埼玉県 児玉郡 神泉村 住居野の丹生大明神
群馬県 多野郡 万場町 3社(相原、黒田、塩沢)の丹生神社
群馬県 多野郡 鬼石町 2社(坂原、浄法寺字丹生)の丹生神社
群馬県 富岡市 下丹生 字六反田の丹生神社
神流川や鏑川の上流にあるのに対して、その下流に当たる
群馬県 多野郡 吉井町 神保の辛科神社(祭神速須佐之命、五十猛命)
藤岡市 上日野 字田本、字細ヶ井戸、字小柏の野之宮神社、字駒留の地守神 社
等が下流に位置しています。

近畿
奈良県 五條市 阪合の大屋比古神社(祭神 大屋彦命)
も丹生川が紀ノ川に合流する所にあります。
和歌山県の丹生神社と五十猛命を祀る神社もほぼ同様な位置関係に当たると言えるでしょう。


 五十猛命は佐賀で美しい娘を見初めているが、丹生都姫のとロマンスであれば楽しい話である。
なお、日本武尊と丹生都比売命を祀る神社も比較的近くに鎮座している。


紀南のニシキ 三重県紀勢町錦や串本の二色など諸説がある。いずれにしろ、高野・吉野から熊野は丹生都比売の支配下にあり、そこで姫は戦ったのである。

神武と応神 東征の主人公を神武軍として語ったが、八幡神を奉じる応神軍であった可能性がある。紀氏の騎馬民族的の風習、紀ノ国に多い神功皇后、応神天皇の伝承と八幡神社の数がこれらを示しているものと思われる。



*1 古代海人の世界(谷川健一氏)小学館
   丹生神社と丹生氏の研究(丹生広良氏)
   古代の朱(松田壽男氏)学生社
   朱の伝説(邦光史郎氏)集英社
   日本の神々(谷川健一氏編)白水社
   日本の古代1 倭人の登場 中央公論社

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