阿波古事記 批判

[青5632] 阿波古事記1  神奈備 2010/07/01(Thu) 21:09 [Reply]
 『古事記』の国生みの段で、伊予の二名之島を生んだとあります。四国のことのようです。HPの『阿波と古事記』には、次のような考えが述べられています。

http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html

 愛媛県を「東予…,中予…,南予…」と言っているところから、四国西部(愛媛県高知県)を「予」の国と称していた。そうすると四国東部(香川県徳島県)を「伊の国」と呼んでいたのではとの説です。徳島の西部に祖谷と言う地名があり、これはイヤと読みますが、イの国の谷としており、徳島にはイのつく地名が多いとしています。

 阿波と讃岐をイの国とする説は実に興味深く、巧みな解釈だと思います。一歩すすめますと倭国(イコク)(ヰコク)とも読め、日本の中心地だったことへつなげられます。イ国の中に阿波地域と讃岐地域があり、淡路とは阿波地域への通り道と言えます。

 さて、『古事記』には伊予の二名島(いよのふたなじま)(四国)として
     粟国は,大宜都比賣(おおげつひめ)
     讃岐国は,飯依比古(いひよりひこ)
     伊予国は,愛比賣(えひめ)
     土佐国は,建依別(たけよりわけ)
を作ったと書かれています。この内粟国・讃岐国は共に食物に関係しています。

http://www.dai3gen.net/oki-no-3go.htm
 所で、アイヌ語で古典を解読されている大三元さんのHPに「二つの・名前・(を持つ)島はアイヌ語で tu re (kor) sir です。(2=tu, 名前=re)」との指摘があります。さらに、「turesi という言葉があり、「妹」の意味。この島には四つの国あって、二つの国に男性、残り二つの国には女性の名前が付いています。tures (kor) sir,「妹・(を持つ)国」だった(と考えられていた)なんて想像はどうでしょうか。」と続きます。
 伊予の愛ヒメと土左の建依別 ([愛]らしい姫様と力強い[建]の対)
 粟の大宜都ヒメと讃岐の飯依ヒコ(両方とも穀物・食事関係)
というペア(カップル?)に読めてくるから不思議です。」と締めておられます。見事に解読されています。


 「turesi」は「連れし」と考えれば、やはり妹を連れているとなります。

http://www.dai3gen.net/ainu_yu11.htm


[10315] 阿波古事記2  神奈備 2010/07/03(Sat) 19:42 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第1回)
> 事実,先に書いたとおり,古事記(記)には国生みの際に出雲(山陰地方)をつくったことが書かれていない。書かれていない以上,出雲を島根県に当てはめることはできない。また,記に書かれる近畿から東は,当時まだ一つにまとまっておらず,別の文化圏であるので,現在の日本全体に当てはめて読むと矛盾する点が生じる。

 出雲は国生みの範囲にはいっていないとの阿波さんの主張ですが、記紀の目的として天孫がこの国を治める正統な理由は、天照大神の親神である諾册二神が国生みをした故だと言うことですから、吉備や出雲を含む中国地方が大倭豊秋津島に含まれないとの解釈は全く説得力がありません。

 阿波さんの指摘は島根県東部の出雲の国はなかったのだから、出雲で起こったとされる事件は島根県以外のどっかだと言うことで話を進めていますが、実は二重の過ちをおかしています。

 一つはしっかりと出雲はあったからです。徳島の東側を無理に出雲としてしまう理由はないのです。

 出雲で起こったとされる事件、特に八岐大蛇退治については、大蛇の住む場所を高志としており、徳島県板野郡上板町高瀬周辺は,古くは「高志」という地名で,高志小学校・高志郵便局等が現在も使われている、としています。しかし『出雲国風土記』には「天の下をお造りなされた大神大穴持命は、越の八口を平定し賜うて」とあり、出雲近辺にもコシがあったようです。『古事記』では高志の沼河比売に妻問いに行くのです。
 島根県の出雲で差し支えありません。

 阿波さんは、八岐大蛇を「頭が八つ,尾が八つ」としているのは、吉野川の河口と上流の支流を表現している事である。とされていますが、この神話は、竜蛇の形をした怪物を退治し、犠牲になる運命にあった処女を助け妻とすると言う筋ですが、これは東は日本、西はスカンジナヴィアや西アフリカにまでおよぶ広大な地域に分布しているお話で、プルセウス・アンドロメダ型神話と一致しています。
 詳しくは吉田敦彦著『日本神話のなりたち』p63〜p65を参照。

 このような話は、渡来人によって各地でその土地の伝承として語られたのかも知れません。『出雲国風土記』に記載がないのは、出雲では語られていなかった、「記紀」の作成担当の渡来人が出雲神話に組み入れた可能性が高いのでしょう。

 国譲りの件は追って。

[10316] 阿波古事記3  神奈備 2010/07/04(Sun) 21:00 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第1回)
 阿波古事記には国譲りのお話については何故か触れていません。所が大国主神の御子神で、国譲りの助演男優を勤める事代主神と建御名方神を祀る式内社が阿波に鎮座しているのです。
 式内社である事代主神社が二社、多祁御奈刀弥神社も鎮座しており、阿波は事代主神の本拠地のように思われます。なぜなら、大和での式内社は高市御縣坐鴨事代主神社とか鴨都波八重事代主命神社と鎮座場所を指定した神社名です。大和は分遷されてきたように感じられます。

 建御名方神を祭る神社は信濃には南方刀美神社、阿波では多祁御奈刀弥神社、どちらが本拠とは簡単にはいえないのですが、母神が越国は翡翠の沼河比売神、信濃に近く、多祁(建)がついていない神名、信濃が本貫の地かも。

 いずれにしても事代主神と建御名方神は島根県の出雲には馴染みのない神です。
 所で、『出雲国風土記』に、意宇郡母理の郷にに以下ことが書いてあります。
 天の下をお造りなされた大神大穴持命は、越の八口を平定し賜うて、お還りになった時、長江山においでになって祥して、「私がお造りして領有して治める国は、皇御孫命が無事に世々お治める所としてお譲りしよう。ただ八雲たつ出雲の国は、私が鎮座する国として、青い山を垣として廻らし賜うて玉珍を置き賜うてお守りしよう。

 ここでは国造りは大穴持命が行ったとし、それを天孫に譲って、出雲の国には自分の魂を鎮座させ、国々を守ろうとの事を言っています。出雲国造の神賀詞と似た内容です。

 国譲りのお話も古代ローマ、ゲルマンの神話、インドの神話にも見いだされて概ね次の構成になっています。(吉田敦彦著『日本神話のなりたち』p100。参照下さい。)

 1 天にいる祭祀と武力の神々と、地にいる生産労働の神々との間に争いが起こった。当初は生産労働の神々が富と性的魅力などによって、天側の神々を懐柔した。

 2.天の神々が地の神々を麻痺させる無敵の武器を投げることで挽回した。

 3.両者は和解。天の神々の統治権を認めるかわりに地の神々も仲間の神とし、互いに協力して世界を支配することになった。

 天の代表は天照大神、地は大国主神、性的魅力は下照比売、武器は武甕槌神。

 出雲の平定は蘇我氏の手によるものと言われています。忌部氏や紀氏は配下に置かれたようです。蘇我氏の平定のお話を神代のこととして国際派知識人である忌部氏が話を膨らまして語ったのでしょう。事代主神の登場は葛城の鴨の服従、建御名方神の登場は、信濃に都を遷す計画があった程の国でしたので、ここの国の神をも服従の物語に組み込んだのかも。


 国譲りの話はもう一つあります。 
 国譲りは記紀を作成した大きい目的の一つだと思います。神話的には国津神達が天津神達に従うことです。「紀」の国譲りの一書第二には、大物主神と事代主神が八十万神を天高市に集めて、神々を率いて天に上がってその誠の心を披瀝とあります。このお話は出雲ではなく大和の国でのお話のようです。大物主神は三輪山の神、事代主神は高市御縣坐鴨事代主神社の神で場所の天高市もこの神社の鎮座の場所です。なお、塚口義信先生は、このお話は神功皇后・応神天皇が大和を制圧した際のお話と見ています。

[10320] 阿波古事記4  神奈備 2010/07/06(Tue) 12:51 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第4回)
 『古事記』の大宜都比賣は四つの場面に登場します。
 1.国生みで伊予の二名島(四国)を生み、粟国は大宜都比賣と謂うとしています。
 2.国生みの次の段階の神々の生成で、鳥之石楠船神、亦の名は天鳥船と謂う。次ぎに大宜都比賣神を生みき。この次ぎに火之迦具土神を生み、伊邪那美の神は死にます。
 3.天照大神の天岩戸の物語の後、速須佐之男命が大気津比賣神に食物を乞い、身体から取り出しているのを見て、穢汚しているとして殺してしまいます。殺された神の身から五穀が生じます。
 4.大年神の神裔の項。大年神の子神に大山咋神や羽山戸神。この羽山戸神が大気都比賣神を娶りて生める神の名は若山咋神などの稲作関係の神々。

 1,2は誕生のお話、3は殺される、4は結婚して子をなす。複数の大宜都比賣神がいるように見えます。幾つかの伝承が混ざり込んだのでしょう。食物の姫神との名ですから、これは普通名詞です。

 「紀」では、殺されるのは大宜都比賣神ではなく、保食神。殺すのは速須佐之男命ではなく、月読神となっています。五穀起源のお話への速須佐之男命の登場は筋が悪いようで、ここは月読神が正解でしょう。ツキヨミとはコヨミ(暦)です。大宜都比賣は大月媛、まさに月読神の配偶神。大月媛の名は長野県飯山市の長峰神社の摂社の四之宮神社の祭神として出てきます。

 縄文時代の土偶は女神の形をしています。土偶は壊されて埋められています。女神が殺されることで作物の起源となるのは、インドネシア・メラネシア・南北アメリカ大陸の広範囲に分布しているハイヌウェレ型神話と謂われるものです。従って、大宜都比賣神や保食神は殺されなければならないのでしょう。

 
 さて、大宜都比賣神は殺された後でも娶られて子をなす、まさに神の仕業です。

大宜都比賣神を祀る神社数 旧国別に5社以上 『平成祭りデータ(神社本庁CDから)』
阿波国  3社
−−−−−−−−
出羽(羽前)国 5社
下野国  5社
武蔵国  9社
甲斐国  5社
信濃国 27社 建御名方神を祀る式内社が共通であることに関連か?
紀伊国  7社
土佐国  6社
−−−−−−−−
合計 131社

[10324] 阿波古事記5  神奈備 2010/07/08(Thu) 08:47 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第13回)
 延喜式内社・伊邪那美神社
 
 伊邪那美神を祭神とする式内社は全国で一社阿波だけです。伊邪那岐神の場合には、淡路、摂津、近江など7社となります。三貴子の唯一の親神として崇敬されたのでしょう。
 神社の格式も、淡路伊佐奈伎神社は貞観元年(859)無品勲八等から一品に昇格しています。それまでが無品だったのが面白いところです。近江の多賀大社は貞観元年(859)
に従五位下になっています。一方、阿波の伊射奈美神社は貞観十一年(869)に、正六位上を従五位下に昇格しています。

 女の体内に「火」があるとの伝承も世界共通と言えます。それででしょうか、恥部をホト(火処)と呼んだりします。女の情念というか好色が火処に現れるということでしょう。それが女体を焼いてしまうのです。

 伊邪那美神が焼け死んだのは火の神の阿遇突智神を生んだからです。女神の嘔吐物になる神は金山毘古神・毘売神、次ぎに屎には波邇夜須毘古神・毘売神、次ぎに尿になる神は彌都波能売神、和久産日神。この神の子は豊宇気毘売神。

 焼き畑栽培の名残も感じますが、伊邪那美神も死して穀物の種ではありませんが、農耕に必要な鍬鋤の材料、土、水、若々しい生産の神、そうして食物を司る女神を生成しています。やはり大宜都比賣神と同様にハイヌウェレ型神話を引きずっているようです。

 イザナミの墓とされる場所が、『古事記』では、出雲と伯伎の境の比婆山です。『日本書紀』では、『一書第五』では紀伊の熊野の有馬村としています。花の時は花をもってお祀りしと記されており、これは花窟神社で今日まで続いています。『日本書紀』では、一書第一から第十一までで第五を除いては場所を記述していません。

 黄泉の国から帰って来たイザナギ命が禊ぎをするのは『古事記』では竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原です。『日本書紀』では、一書第六では、築紫の日向の川の橘の檍原、一書第十では、出かけて阿波の水門の速吸名門は流れが急なので、帰って橘の小門で祓いを行ったとしています。

 小生、「浪花の古代史」平成22年3月の発表で以下のことを行いました。  一日に一人ずつ助けると言う神様が徳島県に鎮座しています。阿南市津乃峯町の津峯神社の神様です。 http://www.genbu.net/data/awa2/tunomine_title.htm

 『延喜式神名帳』では、賀志波比賣神社[カシハヒメ] となっています。この女神の名は『記紀』には見えませんが、一説には天照大神の幼名だとか。

 この神社の鎮座する津峯から眼下に橘湾は見えます。谷川健一著『古代海人の世界』によりますと、津峯の山の麓に青木と言う地名があるとのこと、イザナギ神が禊ぎをした阿波岐原と近い名前です。

 黄泉の国から逃げ帰ったイザナギ神にイザナミ神は一日に1000人を殺す、そうするとイザナギ神は一日1500人を誕生させると応答しますが、津峯の神を連想するお話です。

 国生み神話は阿波や淡路を中心に活躍していた海人が語り伝えたお話なのでしょう。阿波と言う言葉は”太陽”を意味するともされ、また阿波には式内社で、事代主神社が二社、伊射奈美神社、弥都波能賣神社、波尓移麻比メ神社、天石門別豊玉比賣神社、和多都美豊玉比賣神社、多祁御奈刀弥神社と言う国生みにからむ神々、海神、国譲りの神と神話を凝縮したような神社が見られます。

 阿波の国には古代の多くの謎が秘められているようです。

 阿波古事記の活動は小生にとっても興味津々の所です。ゾクゾクします。
 どちらにしてもイザナミ神を祀る唯一の式内社の阿波国美馬郡の近辺に伝承地がほしいところです。出雲と紀伊の共通地名に熊野があります。熊野の訓に「ユヤ、イヤ」があります。そうです阿波国の奥の院が祖谷(イヤ)です。祖谷がイザナミ神の送葬の地と見ていいのでしょう。

[10332] 阿波古事記6  神奈備 2010/07/12(Mon) 09:08 [Reply]
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(第32回)天照大御神と月読命 (第40回)須佐之男命

 日と月がイザナギの両目から生まれたという神話は、日本だけもものではありません。
 
 大陸
 はじめに盤古死す。死するに垂んとして身を化す、気は風雲となり、声は雷霆と為る。左眼は日となり、右眼は月と為り、四肢五体は四極五嶽と為り、血液は江河とと為り、筋脈は地の理と為り、肌肉は田土と為り、髪髭は星辰と為り、皮毛は草木と為り、歯骨は金石となり、精髄は珠玉と為り、汗は流れて雨沢と為り、身の諸虫は、風邪の感ずるところに困って、化して??と為る。

 『古事記』では、左の御目を洗うと天照大神、右の御目を洗うと月読命、御鼻を洗うと建速須佐之男命は成るとあります。鼻と須佐之男命の組み合わせは日本独自のものかも知れません。
 とは言え、『日本書記』一書第五 では、韓郷で素盞嗚尊の髯が杉の木、胸の毛は檜、尻の毛は槙、眉毛は杉と楠になったとあり、盤古神話の「皮毛は草木と為り」と似ています。

 目から日と月が成るお話は、西シベリア、マレー半島、イラン、アフリカにもあります。

 神話のレベルとして、日神・月神が誕生した場所を具体的に示す必要はないように思います。古代には多くの日神、月神が各地域の海人や農民に祀られていたのですが、記紀で日神は天照大神、月神は月読命に統一してしまったのです。

 現在まで残っている日神の例をいくつか。

 天照御魂神 大和国 鏡作坐天照御魂神社、他田坐天照御魂神社、摂津 新屋坐天照御魂神社 など
 丹波 天照玉命 対馬 阿麻て留神
 旧事本紀 天照国照彦天火明命 天照国照彦天火明櫛玉饒速日命
 日本書記 対馬 天日神命

 皇祖神としての天照大神の登場は天武天皇以降のことです。それ以前の皇祖神は高御産巣日神(高木神)でした。天孫降臨を命じたのは天照大神と高木神の連名で書かれています。と言っても記紀の著述者達が天照大神を捏造したと言う話ではなく、幾つかの伝承が各地に残っていたものを集約したものと考えられています。

 『日本書紀』本文には、「皇祖高皇産霊尊、皇孫の瓊瓊杵尊を立て葦原中國之主とせんと・・」とあります。天孫降臨の前提として葦原中国の平定の段取りは高皇産霊尊が行っています。「皇孫」とは、天照大神の子が父、高木神の子が母と便利になっています。

 須佐之男命まで阿波の生まれとしてしまうのは鎮座している神社からは無理がありそうです。唯一鎮座する神名のついた式内社を以て阿波に関連付けて来ている所に、その名からも後ほど勧請されたであろう式内社でもない徳島県海陽町宍喰の八坂神社を振りかざしているのは、まじめに阿波古事記に取り組もうとする人の腰を抜かしてしまいそうです。
 
 須佐之男命の名前を冠する式内社は、紀伊国在田郡の須佐神社[スサ](名神大。月次新甞) 、出雲国飯石郡に湏佐神社[スサ]が鎮座、紀伊が格式が高いので、本家は紀伊ではないかと松前健先生は述べています。丁度、阿波国の向かいに当たります。三貴子を紀伊水道でうまれたとするのなら、紀伊でもいいのでしょう。


[10333] 阿波古事記7  神奈備 2010/07/13(Tue) 08:34 [Reply]
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(第84回)天照大御神と高御産巣日神

> 天照大御神は,高天原に上り高御産巣日神の 妃 ( きさき ) となったのであろう。

 書店の歴史書を置いてある場所に時々、疑似歴史コーナーがあり、最近では関**さん、八*さんなど多士済々ですが、元祖は原田**さんあたりでしょうか。上記の説も疑似歴史家さんが好むテーマの一つでしょう。阿波古事記には無関係なこと、無駄な説です。

 先に述べて来た通り、天照大神が皇祖神として奉られたのは、天武・持統朝以降の事です。聖徳太子と蘇我馬子が作ったとされる『天皇記』『国記』のうち、『国記』が火災を免れたとあり、書かれた当時にはまだ、天照大神は皇祖神ではなく高御産巣日神が皇祖神だったのではないかと思います。

 天皇家の重要な祭り−月次祭− の唱えられる祝詞。「月次祭祝詞」
 宮中八神への感謝 御巫等祭神八座
 神産日神、高御産日神、玉積日神、生産日神、足産日神、大宮賣神、御食津神、事代主神

 ここに天照大神は祭られていないのです。それが、平安時代になって天照大神が祭られます。記紀ができた奈良時代でも天照大神は無視されていたようです。

 『日本書紀』顕宗天皇三年
 春二月 月の神が人に憑いて、「わが祖高皇産霊は、天地を造った(天地鎔造の)功がある。田地をわが月の神に奉れ。」と云われた。壱岐県主が奉った山城国葛野郡の葛野坐月読神社の由緒となっています。
 これは高皇産霊は月神だと言うことです。面白いことに徳島市加茂名町に鎔造皇神社があります。「鎔造」がついている神社はここだけです。

 夏四月 日の神が人に憑いて、「倭の磐余の田をわが祖高皇産霊に奉れ。」と云われた。
対馬県主が奉った大和国十市郡目原坐高御魂神社の由緒となっています。

 高皇産霊は日神と月神の祖であり、かつ月神でもあると言えます。

 月読神が保食神のもとに行った時の話が『紀』にあります。湯津桂の樹が一本あったので、月読神は湯津桂の樹に依ったのです。湯津桂とは斎桂で神聖な桂と言う意味。

 『古事記』に、「山幸彦(火遠理命)が綿津見の宮へ行った際、門の傍の井戸の上に湯津香木(香木は桂のこと)があったので、その木の上に坐った。」とあります。

 上記の物語はともに神々が湯津桂の木に依りついているのです。桂の木は月桂樹で月に生えているとされています。月読神が依りつくのは当然です。一方、山幸彦も依りついています。月の神の子孫だと云うことを暗示しているのでしょう。

 ついでに、『隋書倭伝』から。
 600年 推古八年の遣唐使が、「倭王、姓は阿毎、字は多利思比孤、阿輩雛彌
と号す。天を兄、日を弟、日が出れば弟に政務を任せる。」と返答しています。

 これからわかることは、天を兄、日を弟とする倭王は月(の神の後裔)ということです。タラシヒコ、満月のことかも。

[10334] 阿波古事記8  神奈備 2010/07/15(Thu) 08:46 [Reply]
http://park17.wakwak.com/~happyend/kojiki/rensai.html
(第84回)天照大御神と高御産巣日神 続

 高皇産霊神は別名を高木神と言います。高い木に依りつく神です。北方系の神とされています。恐らくは高句麗辺りの神だったのでしょう。

 高皇産霊神は忌部氏の祖神ということで、阿波や讃岐と大いに関係があります。このことは前方後円墳に先行する弥生墳丘墓に現れてきます。積石塚の墳墓は高句麗の代名詞のようなものです。
 阿波から出土している小銅鐸も朝鮮式のようで、古い時代から渡来人の影響を受けていたようです。

 阿波の弥生墳丘墓
  鳴門市 萩原墳墓群   積石墓
  三好町 足代東原遺跡  円形積石墓から前方後円形の積石墓へ発展

 阿波の弥生墳丘墓(萩原墳墓群)の中には、円丘部から突出部が出ているものがあり、前方後円墳へ変わる途中とも見ることができます。画紋帯神獣鏡が出土、同范鏡が北朝鮮大同江でも出土。
  
 国内で積石墓の多い地域
 長崎県対馬 山口県児島 愛媛県津島町高田 香川県石清尾山塊 徳島県吉野川流域 和歌山県 長野県 山梨県 → ツングース系の渡来人が多い地域。

 徳島県埋蔵文化財調査室  北條芳隆助教授の講義録から
 讃岐型前方後円墳
 前方後円墳の祖形・原形は鳴門市萩原にあった萩原噴丘墓である。
 中山大塚古墳(奈良県)の発掘により、前方後円墳の円噴の祖形が阿波の積石塚にあることを確信した。古墳の上に敷かれる葺き石は、積み石塚のなごりである。資料の実体を重視する見方の必要性を講義された。「徳島」に身を置かなければ気づかない事実。

 阿波の古墳を調べていますと、神社境内や神社が側に鎮座していることが目立つ気がします。神社発生の要素として、祖霊を祭ることがあり、それが古墳ということなのでしょう。

 阿波の古墳は積石塚・木槨が特徴、阿波と大和の古墳時期比較。
 西暦   阿波       大和
 200
     萩原2号墓    纏向石塚
 250 天河別1号墳
     西山谷2号墳   
     萩原1号墓    ホケノ山古墳(萩原2号墓と類似)阿波忌部氏が被葬者か?
              箸墓
 300

 弥生時代から古墳時代への移行の頃の以下の古墳は、立地、墳丘、列石、竪穴式石室、鏡の副葬、東西方向の長軸などの基本的要素が共通しています。これらの地域の王の連合を示しているようです。        
 岡山市総社市 宮山墳丘墓
 徳島県鳴門市 萩原一号墳
 兵庫県揖保郡 養久山一号墳
 奈良市桜井市 纏向石塚
              
 萩原噴丘墓一号墓から画文帯神獣鏡はヤマトのホケノ古墳と同范鏡のようで、半島の楽浪・帯方郡域からも出ており、交流の深さは偲ばれます。3世紀初頭でのこの鏡の分布図を下記に示しました。萩原の東に3世紀中頃の西山谷2号墓(円墳)があり、積石の竪穴古墳でこの形状では日本最古とされており、この技術がヤマトに伝わったとみられています。


[10340] 阿波古事記9  神奈備 2010/07/17(Sat) 08:25 [Reply]
 神代期での忌部氏と中臣氏はほぼ同列に登場しています。
 所が、天照大神が天岩戸から出てきた後、再度入らないように注連縄を張るのですが、『古事記』では、「布刀玉命(忌部氏の祖)が尻くめ縄を控き度して」、とあります。『日本書記』の場合、「中臣神や忌部神が、しめなわを引き渡した。」となっています。中臣氏のしゃしゃり出が気になります。『紀』への藤原不比等の干渉が目に見えるようです。

 地方忌部の登場シーンなどで、忌部氏の古さ、中臣氏のしゃしゃりがばれています。地方忌部の存在は『日本の建国と阿波忌部』林博章著に啓発されました。
『日本書紀』天岩戸隠れ (一書第三)下枝懸以粟國忌部遠祖天日鷲所作木綿。
『日本書紀』国譲り   (一書第二)既以紀伊國忌部遠祖手置帆負神、定爲作笠者。

 中臣氏の場合、地方の中臣の登場はないのです。

 記での各地平定譚 軍事と婚姻

 神武天皇 日向出発 築紫(豊国 遠賀川)阿岐 吉備 浪速 紀伊 大和
 孝霊天皇 派兵 播磨 吉備
 孝元天皇 婚姻 河内 尾張 木国
 開化天皇 婚姻 丹波 山代 淡海
 崇神天皇 婚姻 木国 尾張 派兵 高志国 東国(伊勢〜陸奥) 丹波 吉備

 四国が平定の対象となっていないし、四国からは妃も出ていません。神武さんを除けば、大和も平定の対象にはなっていません。これと同様な存在が四国と言えます。大王家の本拠地か本貫地か、または腹心の支配地だったのかも。

 阿波国の吉野川流域と讃岐国は阿讃山脈で隔てられていますが、それほど峻険な山並みではなく、多くの人々の交流があったようです。また阿波国板野郡(鳴門市など)とは海岸沿いにつながっています。

 讃岐と阿波は忌部氏の多い地域だったようです。忌部氏はその職制もあってか、大王家に反抗するような動きは一切なかったようです。

 吉備・播磨と讃岐・阿波は瀬戸内海の島嶼と海とでつながっています。古代文明の発展の基本的な地形です。

 大倭玖迩阿禮比賣媛と言う仰々しい諡名の姫神がいます。ヤマトの国を出現せしめた姫神と言うことです。おそらくは吉備の王だった孝霊天皇の妃となり、有名な倭迹迹日百襲姫命を生んでいます。卑弥呼だとか台与だとされている姫です。
 大倭玖迩阿禮比賣命は倭国香媛とも言います。この媛は唯一吉備(備中国賀陽郡)の吉備津神社の摂社の本宮社に孝霊天皇とともに祭られています。
 
 孝霊天皇の神霊は伯耆国(樂樂福神社など10社)、他に出雲(1社)、伊予(2社)、土佐(11社)などに祭られています。吉備を拠点に周辺の征服活動をしていたのかもしれません。
 
 倭国香媛の娘の倭迹迹日百襲姫命を祭る神社は吉備に4社、讃岐に5社、阿波に1社、他に大和など3社に祭られています。讃岐・阿波では水に関係する女神として祭られているようです。丹生都比売は水銀の神から水の神になりましたが、百襲姫は水神から水銀の神になったのかも。箸墓の発掘ができれば石室から大量の朱がでることでしょう。

 吉備・播磨・讃岐・阿波等の国々の連合が畿内に移動して大和に王権を確立したのでしょう。古墳の様式などが阿波などから、埴輪は吉備からとか、重要な祭祀様式がこの地から持たされているようです。
 
 王権が大和に移動した目的はいくつかありましょうが、一つは阿波の若杉山の辰沙の埋蔵量は減ってきて、大和宇陀の鉱山に活路を求めたのでしょう。

[10341] 阿波古事記 遺りたるもの  神奈備 2010/07/21(Wed) 13:17 [Reply]
阿波とは
 北方を中心とした粟国と南方をさす長国があったが、統合された。アワは太陽、ナガを蛇とすれば、縄文時代からの呼称だったのかも。 

古事記とは
 猿女君の巫女達は、朝廷や豪族に抱えられており、壬申の乱の負け組の巫女達は失業状態。

天武天皇
 天武天皇の大嘗祭では、中臣、忌部、及神官人等は奉仕。各地の語り部がそれぞれの神話を歌った。
 天武天皇は武勇の人でもあったが、政治家でもあり、文人でもあった。自分が皇統を奪い、新政権を樹立した段階で、実力主義の登用を行うには、逆に各豪族の系譜と位置づけを行っておく必要を感じたのではないか。
 天武皇太子の時の歌は万葉集の中でも秀逸
 万葉 巻き一 21番 紫のにほえる妹を憎くあらば人嬬ゆゑに吾恋ひめやも

 天武天皇の時代に、天武の命令で稗田阿礼が、後宮の女、巫女や各地の語り部などから伝承を収集した。天宇豆女のポースなど女性ならではとの視点で書かれたと思われます。

忌部氏
 また祭祀氏族であった忌部氏には祭祀が再現している古伝承を忌部家代々に伝えていた。これは古事記に反映している。
 忌部の古さの証明 古文献神代期の条で「鐸」について触れているのは『古語拾遺』齋部広成著、807年と『先代旧事本紀』。後者は前者を参考にしている可能性があります。 日神の石窟幽居の段に、「天目一箇神をして鉄の鐸(古語に佐那伎という)を作らしむ。」とあります。中臣氏には「鐸」を期待できません。

他にも神話の舞台
 阿波が古事記の舞台というのは、イザナミが黄泉の国である祖谷に隠れ、イザナギが橘湾に逃げてきたイメージはまさに阿波の真骨頂でしょう。

神楽
 阿波では神楽はほんの僅かしかなされていいない。宮崎県などとは大違いです。神楽になりぬくい部分の舞台だったのでしょう。

天孫降臨
 ニニギが立ち寄った笠沙の岬はどう考えても東支那海の岬、ここが天孫降臨の地。

[青5640] 岩陰遺跡こそ女神の墓所  神奈備 2010/07/22(Thu) 11:13 [Reply]
 『紀』でのイザナミの墓所とされている所が三重県熊野市有間にあります。
 
 有名な 花窟神社 の御神体の 岩壁です。

 ♪花の時は花をもってお祭りし、鼓・笛・旗をもって歌舞してお祭りする。
http://www.mikumano.net/meguri/hananoiwaya.html

 どうも、岩陰や岩窟を墓所とするイメージがあったようです。

 
 『記』では、出雲の国と伯伎の国(伯耆の国)の堺、比婆の山 となっています。

 通常、二箇所の候補地があるようです。

広島県庄原市の比婆山
ブナ林の中に標高1264mの場所に円丘があり、伊邪那美命の御陵と伝えられる苔むした巨石が横たわっているそうです。
http://websakigake.sakura.ne.jp/05-004.html


島根県安来市の比婆山
 本居宣長の『古事記伝』は出雲と伯耆の境に近い島根県安来市の比婆山であるとしているそうです。標高331mの山で、標高約280mの中腹に熊野神社(比婆山久米神社)が鎮座、イザナミの神陵古墳と伝えられるものがあるそうです。
http://www.geocities.jp/houshizaki/hibayama-yasugisi.htm

 上記の二所は岩陰のイメージよりは墳墓を考えているようです。縄文の女神には似合わない発想だと思います。


広島県庄原市東城町(かっての比婆郡)に岩陰遺跡があります。
帝釈寄倉岩陰遺跡です。この遺跡は縄文時代のほぼ全期間にわたって営まれた遺跡で、縄文時代の墓葬にも使用されていました。
雰囲気としてはイザナミ命の墓所に相応しいイメージです。
http://home.hiroshima-u.ac.jp/maibun/hiroshimaken/yosekura.html
http://www.taishakukyo.com/p02_01.html


「阿波古事記」では高越山を比婆山に比定しています。
 根拠は、「江戸時代に書かれた阿波国最初の史書に,「伊射奈美神社小社美馬郡拝村山之絶頂にあり,俗に高越大権現,祭神一座伊弉冉尊(いさなみのみこと)」と書かれている。」ことを挙げています。これが奈良時代の文献ならば面白いのですが・・・

 高越山付近に伯耆神社があるそうですが、出雲途方記の国境と言ってもアピールするものがありません。比婆に似た地名でも残っていればいいのですが・・・。

 三好郡東みよし町に加茂谷川岩陰遺跡があります。縄文時代の住居跡とされています。住居跡ですと、墓所もあったことでしょう。
http://www.topics.or.jp/special/122545511653/2008/04/120772541277.html
http://www.museum.tokushima-ec.ed.jp/mnews/No40.pdf

 ここの方が縄文の女神の墓所に相応しいと思いますが。


 お隣の愛媛県に格好の岩陰遺跡があります。上黒岩岩陰遺跡です。
http://inoues.net/ruins/kamikuroiwa.html
愛媛県上浮穴郡、1万年間の墓だそうです。
さらに女神像を刻だ線刻礫が出土しているのです。
http://inoues.net/ruins/kamikuroiwa_museum.html

阿波のイザナミ尊を祭る神社に対応する女神の墓所、岩陰遺跡から探し出したいものです。

 神奈備流阿波古事記 言えること

[10368] 王権は何故大和を目指したのか?  神奈備 2010/08/20(Fri) 14:07 [Reply]
 王権は何故大和を目指したのか? 幾つかの考え方あったと思われます。

 結果論であって、大和を拠点とした大王(雄略か)が全国の統一に成功したから、大和が全国統一のシンボルとなったのです。これが後には京都となるのです。

 大和国には水銀朱が採れる辰沙の大きい産地があり、ここをおさえて他の地域より優位な立場に立つと言う思惑がありました。

 水銀朱は交易品としても重要な産物であり、また銅鏡へのメッキ、墓へ入れるなど、朱の呪術には不可欠な鉱物でした。

 弥生時代には阿波の若杉山が辰沙の産地でしたが、弥生時代の終わり頃には資源が底をつきました。有望な産地として大和国宇陀の名は知られていました。阿波・讃岐・吉備の連合は、いざ大和へ!と進出していったのです。

 戦いの先陣巫女は倭迹迹日百襲姫命が勤めました。姫の霊力は群を抜いており、大和を席巻しました。
 水銀とかかわる女神としては丹生都比売神が有名ですが、百襲姫が都とした讃岐国大内郡入野郷で、昔は丹生郷と言われていた場所で、丹生神社も鎮座していたようです。百襲姫もまた水銀の女神でもあったと言えるでしょう。

倭迹迹日百襲姫命を祭る備前備中讃岐阿波の神社

鳴門市北灘町 葛城神社摂社定水明神社
高松市西春日町 鶴尾神社摂社田村神社
大川郡大内町 水主神社
大川郡大内町 艪掛神社  大内町丹生に鎮座。百襲姫がヤマトより到着の地。
高松市一宮町 田村神社
高松市仏生山町 船山神社
岡山市石関町 岡山神社
岡山市一宮 吉備津彦神社
岡山市吉備津 吉備津神社

香川県大川郡大内町 丹生神社があったが現在は石清水神社と名前を変えている。
当地は大内郡入野郷で、昔は丹生郷、のち丹生村。古代の辰沙の産地。

鳴門市撫養町に丹生神社が鎮座、定水明神社とは数km。


[5642] 神奈備流阿波古事記  神奈備 2010/08/19(Thu) 19:48 [Reply]
『古事記』
 天つ神の命で、二柱の神は国を修め理り固め成すことになりました。
 二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の末より垂り落つる塩が淤能碁呂島になりました。

 二柱の神はその島に天降り、天の御柱を見立て、八尋殿を見立てたまひき。

 二柱の神は性交で国を生むことにしました。

 先に女神が「あなにやし、えをとこを」といいましたが、女神が先に言うのは良くないといいましたが、そのまま性交を行い、水蛭子を生みました。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも、子の例には入りませんでした。

 今度は男神が先に、「あなにやし、えをとめを」といいました。
淡路之穂之狭別島(アワヂノホノサワケノシマ)。
次に伊予之二名島(イヨノフタナノシマ)を生みき。この島は身一つにして面(オモ)四つあり。面(オモ)毎(ゴト)に名あり。故(カレ)、伊予国(イ

ヨノクニ)を愛比売(エヒメ)と謂(イ)ひ、讃岐国(サヌキノクニ)を飯依

比古(イヒヨリヒコ)と謂ひ、粟国(アハノクニ)を大宜都比売(オホゲツヒメ)と謂ひ、土左国(トサノクニ)を建依別(タケヨリワケ)と謂ふ。

 一般的には洪水が起こり、兄妹二人が生き残り、国をつくり、人々の祖先となると言う物語が各国に残っているようですが、日本の場合は海に囲まれている国土ですから洪水は必要なかったのでしょう。

 性交の起源、最初の天降りの失敗、その後の国生みと言う構成の神話は、台湾、インドネシアやポリネシア諸島にも分布しています。

 二柱の神の神話は一体いつ頃に形が整えられたのでしょうか。神話の原形を日本に持ち込んだのは海人族とされています。性交のやり直しで生まれたのが淡路島、次が四国となっています。どうやら難波に都が置かれた頃に形成されて来た神話と見ることができます。

 仁徳天皇は吉備の黒日売を追いかけるのを誤魔化して淡路島に行きます。そこで一首。
 おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて 我が国見れば 淡島 自凝島 檳榔の 島も見ゆ 放つ島見ゆ これは国生みの準備過程で自凝島、蛭子、淡島が生まれるのですが、それらが歌われています。
 枯野と言う船で淡路島から寒泉を酌んで宮に運ぶとあります。
 反正天皇は瑞歯別天皇と言い、淡路島で生まれています。
 仁徳天皇以降の王朝は淡路島との関わりが多くなって来ます。その頃にアマの持っている伝承が宮廷に入ってきたのかも知れません。

[5643] 神奈備流阿波古事記2  神奈備 2010/08/20(Fri) 14:12 [Reply]
 淡路島には延喜式内社名神大社の淡路伊佐奈伎神社が鎮座、また阿波には延喜式内社の伊射奈美神社が鎮座しています。特に伊射奈美神の名を持つ唯一の式内社が阿波に鎮座しています。ただし、式内伊射奈美神社の有力な論社は麻殖郡山川町の高越神社と美馬郡穴吹町の伊射奈美神社(十二所神社を昭和になってから改称)の二社があります。どちらかが本来の伊射奈美神社であるかは不明です。

 伊射奈美神については『古事記』では、葬られたのが出雲と伯耆の境の比婆山とあります。また『日本書記』では紀伊国熊野の有間村に葬ったとあります。花窟神社とされています。これらは淡路・阿波・紀伊を股にして活動していた海人が伝えたのでしょう。彼らが吉野川を遡っていって伊射奈美神の信仰を置いていったものが阿波国美馬郡の伊射奈美神社の形をとったものと思われます。

『古事記』
 伊射奈美神は鳥之石楠船神を生み、次ぎに大宣都比売神を生みき。次ぎに火之夜芸速男神を生みき。亦の名は火之迦具土神と謂ふ。この子を生みしに因りて、み、ほと炙かえて病み臥せり。
 たぐりに成りし神の名は、金山毘古神、次に金山毘売神。
 次に屎に成りし神の名は、波邇夜須毘古神、次に波邇夜須毘売神。
 次に尿に成りし神の名は、弥都波能売神、
 次に和久産巣日神。この神の子は、豊宇気毘売神と謂ふ。
 かれ、伊邪那美神は、火の神を生みしによりて、遂に神避りましき。

 ここでも大宣都比売神が生まれています。国生みの阿波につづいて二柱目です。穀霊については幾つかの伝承があったようです。
 ここで生まれた水神と土神の二女神はやはり阿波国美馬郡の延喜式内社として弥都波能賣神社[ミツハノメ]、波尓移[方扁に弥の旁]麻比神社[ハニヤマヒメ]が鎮座しています。現在はその名の神社は残っていませんが、論社があります。この二柱の神名の式内社は阿波国だけに鎮座しています。伊射奈美神の屎と尿から水神と土神が生まれたとする神話は、女神の死体、また排泄物から食糧がとれるとするハイヌヴェレ神話の変形で、大宣都比売神を国魂とする阿波国ならではで語られていた伝承なのでしょう。
 阿波の海人族や語り部が宮廷へ持ち込んだのかも知れません。

 伊射奈美神の後を追って連れ戻そうと伊佐奈伎神が黄泉の国に行きます。しかし行くのが遅れたようで、女神は黄泉の国の食べ物を口にした後でした。男神がタブーを侵しので、一人で逃げ帰る事になりました。きたない国に行ったので御祓を行おうと、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到って禊ぎ祓いを行いました。
 死んだ女神を連れ戻そうとした男神がタブーを侵して失敗する話はギリシャ神話にもあるそうですが、その後の禊ぎ祓いは日本的なお話のようです。

 禊ぎ祓いを行った場所は一体どこか? 色々な候補があるようです。

 谷川健一氏『古代海人の世界』では、阿南市津乃峯町の橘湾を例示しています。土地の人は津乃峯が見える屋根の上に昇り、零時になると死に瀕した者の名前をあげ、その命を助け賜えと祈るのです。津乃峯の神は一日に一人だけ命を助ける神とされているのです。早い者勝ちということでしょう。伊佐奈伎神が伊射奈美神に追いかけられた際、一日に千人を殺すと言われたのに対して、それならば千五百人を誕生させると応じた故事を連想させるとしています。津乃峯の麓を青木と呼んでいるようで、「竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原」の幾つかに一致しているようです。

 『海神宮訪問神話の研究』宮島正人著に筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原として、福岡県古賀市青柳の地を比定しています。立花山があり、その北の尾東山麓に五所八幡宮が鎮座、ここは墨江三前神も祭神になっています。立花−橘、尾東−小戸、青柳−阿波岐と対応、青柳川から海に出るのに遠くない所です。

 その他には、日向国にも当然の事ながら候補地があります。宮崎市大字塩路に鎮座する住吉神社には禊ぎ祓いで生まれた3貴子以前の神々が祀られており、社伝によれば第六代孝安天皇(2400年前)の命によって創建され、全国二千有余社の住吉社の総社であり、社紋は「○に元」で、これは住吉社の元宮の印なりと伝えています。
又日向の橘の小戸の檍原の神域が当社より大淀河口迄を指す。とあります。

[5644] 神奈備流阿波古事記3  神奈備 2010/08/21(Sat) 08:44 [Reply]
 さて、鴨の神とされる事代主神ですが、この神を祀る式内社で事代主と名がついているのは、阿波国二社と大和国二社の計四社です。
阿波国 阿波郡 事代主神社[コトシロヌシ] 
阿波国 勝浦郡 事代主神社[コトシロヌシ]
大和国 葛上郡 鴨都波八重事代主命神社二座[シモツカモノ・・コト・](並名神大。月次相甞新甞。)
大和国 高市郡 高市御縣坐鴨事代主神社[ミアカタ・カモノコトシロヌシ](大。月次新甞。) 

 大和は鎮座場所+事代主神社の形式の神社名ですが、阿波の二社は事代主神社の単純です。大和国はどこかから勧請された神社なので、鎮座場所がついたのかも知れません。延喜式の神社からは阿波国が事代主神の本拠地のように思われます。

 事代主神は国譲りで父神に国を天神に譲ることを承知させたり、また壬申の乱で高市社にいる事代主神が天武天皇側に味方をして託宣をしています。これらの功労で宮中にも祀られている国津神です。出雲とは関係のない神がどうして出雲の国譲りに登場してくるのかですが、これは河内王権のできた際の葛城の鴨氏の服従が背景にあるのではとの指摘があります。

 『日本書紀』(神代)に、「この時に帰順した首長は大物主神と事代主神である。そこで八十万神を天高市に集めて、この神々を率いて天に上って、その誠の心を披瀝された。」とあります。この伝承は大和の旧来の勢力(カゴサカ・オシクマ)が河内の新興勢力(神功皇后・応神天皇)に敗れたことを、神話化したものと推測することができます。(塚口義信氏『ヤマト王権の謎をとく』)

 国譲りでのもう一人の脇役を祀る式内社が鎮座しています。 
名方郡 多祁御奈刀弥神社[タケミナト・・]

 式内社の名に「カタ」に相当する字がありません。しかし一見、建御名方神、建御名方富神と思われる神名です。関連があるのかも知れません。阿波が本拠地なのか、やはり信濃は南方刀美神社二座[ミナカタトミ](名神大) (現在は諏訪大社と言う)なのかが問題ですが、阿波にこのような神社が鎮座していることが不思議なことです。
 『持統紀』に、「須波の神・水内の神を祭らしむ。」
とあります。全国的な水不足の気候があったのかもしれません。その時に諏訪から勧請された可能性もあるでしょう。

[5645] 神奈備流阿波古事記4  神奈備 2010/08/22(Sun) 08:52 [Reply]
 阿波国の海部郡が那賀郡から分離されたのは平安末期のことですが、阿波国東側には出雲系の人々や海人族が多く居住していたようです。
 海部郡にあたる海南町大里に下記の式内社が鎮座しています。
 和奈佐意富曾神社[ワナサイフソ]
 『阿波国風土記逸文』に、「奈佐の浦の項があり、奈佐とは波の音が止むときもない。それで奈佐と言う。海部は波をば奈(ナ)という。」とあり、当地の大麻神社と言う意味との解釈もあるようです。

 『丹後国風土記逸文』に奈具の社の項があります。
 和奈佐老人・老婦が天女の一人の衣装を隠して、養女とした。養女は酒を造るのが巧く、それを飲むとどんな病でも直すことができた。老夫婦は豊かになり、天女を家から追い出してしまった。
 天女は豊宇賀能売命となったのです。外宮の豊受大神の誕生譚です。

 上の『風土記』の物語は実に不自然な話に見えます。老夫婦が天女を追い出す理由はまったくないと思われます。老夫婦は天女の恩人ではありませんが、この世での縁のある人です。阿波の和奈佐意富曾神社はこの夫婦を祭っているのではないでしょうか。和奈佐夫婦神の大里分祀と言う意味かと考えます。丹後の海人が豊宇気毘売神の信仰をこの夫婦ごと持ち込んだのかも。

 丹後の海人は難波にも来ているようですし、阿波にもやって来たのでしょう。阿波で伊射奈美神が亡くなった際、和久産巣日神が誕生しています。その神の子が豊宇気毘売神と伝わっています。阿波で豊宇気毘売神が誕生したと短絡はできませんが、深い縁を感じます。和奈佐意富曾神社の存在がそれを語っていると言えるでしょう。

 なお、『摂津国風土記逸文』に、稲倉山の条があります。
 昔、止与[口宇]可乃売神は稲倉山にいて飯を盛った。また言う、昔、豊宇可乃売神はいつも稲倉山にいて、この山を台所としていた。のちにわけがあって、やむをえず、ついに丹波の国の比遅の麻奈韋に遷られた。
 これを見ますと、摂津→丹後→阿波、また丹後→伊勢と遷っているようです。
 
 阿波と丹後との繋がりでは、美馬郡の延喜式内社の天椅立神社[アメヨリタチ]が鎮座していることがあります。柱を立てることは古代からの神祭に行われていましたが、それが神社名となって残っているのは丹後と阿波だけです。興味深いことです。

 麻殖郡の式内社で天村雲神伊自波夜比賣神社二座[アマムラクモノ・・・]が鎮座、男女の水神。
 天村雲神は八咫大蛇の尾から出た剣の神格化したものの名とも見えますが、丹後の籠神社に伝わる海部系図によりますと、火明命の子の天香語山命が穂屋姫を娶って生まれたのが天村雲命となっています。その子が神武さんを案内した椎根津彦命となります。ここでは大蛇よりは海人に祀られた神と思われます。
 
 天村雲命は天五多底命との称され、射立郷が成立しています。今は湯立と言うようです。

 『出雲国風土記』大原郡の船岡山の項に、「阿波枳閉和奈佐比古命(あはきへわなさひこ)が曳いて来て据えた船が、すなわちこの山である。だから船岡という。」とあります。
 阿波枳閉和奈佐比古命とは、阿波の国の和那散から来た彦神とする説があるようです。和奈佐意富曾神社の老父神。

 『出雲国風土記』意宇郡に忌部の神戸だ記載されています。
 「国造が神吉詞の望に、朝廷へ参向する時の、御沐(ミソギ)の忌里であるから忌部と言う。」とあります。
 松江市東忌部町に忌部神社が鎮座、天太玉命を主祭神としています。明治末期までは大宮神社と称していたようです。阿波からの遷座との伝承があります。

[5646] 神奈備流阿波古事記5終わり  神奈備 2010/08/23(Mon) 08:21 [Reply]
 阿波国名方郡に、
天石門別八倉比賣神社[・・ワケクラヒメ](名神大。月次新甞。)と
天石門別豊玉比賣神社[・・トヨタマヒメ]と言う式内社が鎮座しています。
ほかに、佐那河内村に天岩戸別神社(あまのいわとわけじんじゃ)が鎮座。

 このような名の式内社は、摂津国には天石門別神社、
美作国に天石門別神社、土佐国に天石門別安國玉主天神社が鎮座しています。

 天石門別神は別名を天窓神と言い、忌部氏が奉斎する神であり、忌部氏の祖の天太玉命の子とされる。天石門別八倉比賣神社と言う名の神社は天石門別神と八倉比賣神の二柱の神を祭る意味にもとれますが、天石門別を修飾語と見なして、忌部氏の奉斎する八倉比賣神と理解する考え方もあるようです。八倉比賣神を天照大神と見なせば、天石門開きは意味を持って来ますが、天石門別豊玉比賣神社の場合、豊玉比賣神は天石門開きとは関係のない神で、やはり忌部氏が奉斎するとの意味と取るのが合理的なようです。




神奈備にようこそ