uga国譲り(舞台は摂津)

第一陣 天菩比神

  天照大御神「この葦原中国は、我が御子の知らす国と言依さしたまへる国なり。故この国にちはやぶる荒ぶる国つ神等の多にありと以為ほす。これ何れの神を使はしてか言むけむ。」とのりたまひき。
 天菩比神を遣はしつれば、すなはち大国主神に媚び付きて、三年 に至るまで復奏さざりき。

 天菩比神は天照大神と素戔嗚尊の誓約で誕生した五男神の次男である。長男は天之忍穂耳神、三男が天津日子根神である。
 天菩比神は徒手空拳である。彼は大国主神を徹底的に祀ること、祀り上げ尽くすことで、即ち地主神を祀ることで、支配している土地を手に入れようとしていた。高天原は気が短い。三年程度で土地が手に入るとは思われない。


第二陣 天若日子

  葦原中国に遣はせる天菩比神、久しく復奏さず。また何れの神を使はさばよけむ」と問ひたまひき。ここに思金神答へて白さく、「天津国玉神の子、天若日子を遣はすべし」とまをしき。故ここに天のまかこ弓、天のはは矢を天若日子に賜ひて遣はしたまひき。
 ここに天若日子、その国に降り到る即ち、大国主神の女、下照比売を娶し、またその国を獲むと慮りて、八年に至るまで復奏さざりき。

  ここに登場の下照比売神は難波の女神である。摂津国式内大社の比売許曾神社の祭神は延喜式で下照比売神と明記されている。
 『古事記』には、「難波の比売碁曽の社に坐す阿加流比売神」とあり、『日本書紀』には、神名はないが、都怒我阿羅斯等が手に入れた白い石から変じたきれいな娘が難波と豊国の比売語曽社の神となったとあり、記紀ともに下照比売神とは記されていない。
 渡来の女神を祀る難波の比売語曽社とは住吉郡の赤留比売命神社として祀られていると考えられる。


東成区東小橋の比売許曽神社


中央区高津の高津宮神社地主神・比売古曽神社


平野区平野東の杭全神社摂社・赤留比売命神社

 『万葉集』 録兄麻呂(ろくのえまろ)が歌四首(よつ)
 0292 久方の天(あま)の探女(さぐめ)が岩船の泊てし高津は浅(あ)せにけるかも

 難波津は時代を経るとともに、砂利などで浅くなって来た。

 『摂津国風土記』逸文 高津 
 難波の高津は、天稚彦が天くだったとき、天稚彦についてくだった神、天の探女が、磐座に乗ってここまで来た。天の探女が泊まったというわけで、高津というのだ、と。云々。


 風土記の逸文が古風土記の記述なのかどうかは不明とされるが、『万葉集』は奈良時代の作品である。

 天の探女の足跡は難波にある。更に、天若日子は難波の女神の下照比売と結婚している。
 さて、次男の天菩比神が復奏しないので、次に選ばれて降臨するのは三男の天津日子根神であってもいい。この神の名の「根」は尊称であり、天津日子となると、もはや天若日子と大差ない。使命を果たさず、裏切り者とされた者を天照大御神の皇子神とするわけにはいかないので、天津国玉神の御子神という訳の分からない神をでっち上げたのではなかろうか。


 天津日子根神は凡川内国造等の祖である。河内国造の祖である。この河内とは摂津河内和泉三国を言う。天津日子根神は難波に降臨する神としてはもっともふさわしい神と言える。
 しかしここではとりあえず降臨した神を天若日子とよぶことにする。彼は弓矢を持たされて葦原の中津国を手に入れるという使命をおびているが、所詮優男である。彼なりに考えて、「将を射んとすれば先ず馬を射よ。」の通り、娘の下照比売と結婚した。近江に伝わる伝承では、美濃国の平定に天若日子が参戦しており、中津国が全て大国主神の統治下にあった訳ではなさそうで、大国主神に従わない「ちはやぶる荒ぶる国つ神」が跋扈していたのである。彼らを言むけ平定に力をつくしていたのである。大国主神の後継者としての足固めをしていたのであろう。おそらく、天若日子は摂河泉の支配を委されていたのだろう。


 数年間の結婚生活で、御子神が誕生していて不思議ではない。『諸系譜』(中田憲信編、国会図書館所蔵)の「御上祝の系図」では、天津彦根命の御子に天目一箇命と比売許祖命(天日矛命后神)となっており、比売許祖命すなわち赤留比売命は下照比売命の娘と言うことになり、近い関係にある。神社本庁の『平成祭CD』では、同一神と見なしているが疑問である。

天若日子 その2

  故ここに、鳴女天より降り到りて、天若日子の門のゆつ楓(カツラ)の上に居て、委曲に天つ神の詔命の如言ひき。ここに天の探女、この鳥の言ふことを聞きて、天若日子に語りて言はく、「この鳥は、その鳴く音いと悪し。かれ、射殺すべし」と云ひ進めき。即ち、天若日子、天つ神の賜へる天のはじ弓、天のかく矢を持ちて、その雉を射殺しき。ここにその矢雉の胸より通りて、射上げられて、天の安河の河原に坐す天照大御神・高木神の御所に逮りき。この高木神は、高御産巣日の別の名なり。かれ、高木神その矢を取りて見たまへば、血その矢の羽に著けり。ここに高木神、「この矢は、天若日子に賜ひし矢なり。」と告りたまひて、すなはち諸の神等に示せて詔りたまはく、「もし天若日子命を誤たず、悪しき神を射つる矢の至りしならば、天若日子に中らざれ。もし邪心あらば、天若日子この矢にまがれ」と云りて、その矢を取りて、その矢の穴より衝き返し下したまへば、天若日子が朝床に寝たる高胸坂に中りて死にき。これ還矢の本なり。またその雉還らざりき。かれ、今に諺に「雉の頓使といふ本これなり。

  天の探女は天若日子に副えられた神でない。建御雷神の降臨の際には天鳥船神を副へて遣はしたと明記しているが、天若日子には誰も副えられたとは書いていない。
 『摂津名所図會』は天探女を下照比賣の別名としている、天若日子の側にいる様子から妥当と思われる。大国主神の娘を天探女と名付けるかと言うことだが、国津神であるが太陽の神格を持っているゆえと理解すればいい。
 天探女が乗ってきた磐船の旧蹟が鶴橋にある。


鶴橋の天理教境内にたつ天の探女の舊蹟

 下照比売は大国主の命令で何を探っていたのか?
 天若日子の行動の探索であり、一つは国内の従わぬあらぶる国津神を言むけ平定することに力をつくさせること、一つは高天原の命令に従う様子があれば、妨げることであろう。

 天若日子が八年に至るまで復奏しなかったので、高天原は雉を詰問に差し向けた。門前の桂の木にとまって天津神の命を伝えた。これを聞いていた天探女は「鳥の鳴く声いと悪し、射殺すべし。」と言った。雉も鳴かずば撃たれまいにということ。雉を射た矢は突き抜けて高天原の天照大御神・高木神の側にとどいた。そこで高木神は天若日子に邪心があればこの矢にあたれと投げ返した。天若日子の胸に命中し、彼は死んだ。朝床にいたのは新嘗祭のためであろう。
 天若日子は高天原の天照大御神とは立場を異にした新しい太陽神・農耕神として地上に君臨しようとしていたのである。雉を射た勢いで天上の太陽神を射殺そうとしたが、失敗に終わった。結果的には天上と地上の両既存勢力の前に敗れ去ったことになる。

天若日子 その3

  かれ、天若日子の妻、下照比売の哭く声、風のむた響きて天 に到りき。ここに天なる天若日子の父、天津国玉神またその妻子聞きて、降り来て哭き悲しびて、すなはちそこに喪屋を作りて、河雁をきさり持とし、鷺を掃持(ハハキモチ)とし、翠鳥(ソニドリ)を御食人(ミケビト)とし、雀を碓女(ウスメ)とし、雉(キギシ)を哭女とし、かく行なひ定めて、日八日夜八夜を遊びき。
 この時、阿遅志貴高日子根神到りて、天若日子の喪を弔ふ時、天より降り到れる天若日子の父、またその妻、皆哭きて云はく、「我が子は死なずてありけり。我が君は死なずて坐しけり」と云ひて、手足に取り懸かりて哭き悲しびき。その過ちし所以は、この二柱の神の容姿、いとよく相似れり。かれ、ここを以ちて過ちき。ここに阿遅志貴高日子根神いたく怒りて曰はく、「我は愛しき友なれこそ弔ひ来しか。何とかも吾を穢き死人に比ふる」と云ひて、佩かせる十掬剣を抜きて、その喪屋を切り伏せ、足もちて蹶ゑ離ち遣りき。こは美濃国の藍見河の河上なる喪山ぞ。その持ちて切れる大刀の名は、大量と謂ひ、亦の名は神度剣と謂ふ。

  葬儀は鳥葬のイメージであるが、このシーンは芝居がかっているように見える。
 阿遅志貴高日子根神は天若日子と親ですら見間違う程そっくりだったと言うことである。葬儀は死者の再生のために行われるが、まさに阿遅志貴高日子根神として再生したのである。『古事記』で神名に大御神がつくのは、天照大御神と迦毛の大御神である阿遅志貴高日子根神の二柱である。
 米の収穫が終われば、新嘗祭も重要であるが、更に行うべき事は麦を植えて育てる事である、丁度北から鴨が渡ってくる頃であり、鴨は麦作の守り神とされたのかも知れない。穀神の交替で天若日子の去った後に阿遅須伎高日子根命が登場すると考えてもいい。天照大御神が稲作の神、迦毛の大御神が麦作の神、二柱の大御神は穀物の守護神である。 天若日子は大国主神に従わぬあらぶる国津神を言むけ平定することに努めて来たと思われる。同じように、『神武紀』には、阿遅須伎高日子根命の本拠地である葛城の長柄に猪祝がいること、葛城である高尾張邑には赤銅八十梟帥やずばり土蜘蛛がいて侏儒(ヒキヒト)のようであったこと言う。葛城の地は磯城の地と共に土蜘蛛の一大拠点であったようだ。天孫族の進入以前に大神氏や鴨氏が彼らを束ねていたのであろう。


大和葛城の高天彦神社参道前の蜘蛛塚


葛城坐一言主神社境内の土蜘蛛塚

 阿遅須伎高日子根命を祀る神社で陸奥国に都都古和氣神社が二座ある。祀ろわぬ者達が祀った古社と思われる。
 天若日子を祀る式内社は出雲にしかない。出雲郡の阿須伎神社の内にまつられている。同社天若日子神社、同社阿遲須伎神社として各二社づつ祀られている。『出雲国風土記』も同様である。二神一対である。


阿須伎神社


 『三代実録』に、近江国天若御子神の記載がある。近江国犬上郡 の天稚彦神社、近江国愛智郡の安孫子神社が論社である。


天稚彦神社


 美濃には天探女を祀る神社や天若日子縁の場所が点在している。美濃国武儀郡の大矢田神社の境内社に喪山天神があり、天若日子を祀る喪山神話の地である。
 また、美濃で戦死した天若日子を近江で祀ったとの伝承もある。

余談
 「鴨が葱を背負って来る」と云う餌食となる人間を馬鹿にした言い回しがあり、「鴨る」と云う言葉で残っています。
 鴨肉には葱がよく合うようで、鴨葱を鴨なんばんと云います。なんばんは南蛮ではなく難波の事で、葱の意味。  偶然でしょうが、出雲蕎麦での鴨なんばん、名物です。鴨、難波と出雲をつなくのは今に始まった事ではありません。
 鴨なんばんの鴨は合鴨、即ちあひる、漢字では家鴨、飛べなくなった鴨のこと、不具の鴨をアヒルと云い、浪速ではこれをヒルと云います。不具の蛭子神は鴨の神の零落した姿だったのです。

『日本書紀』巻二神代下第九段一書第二

  天神は経津主神、武甕槌神を使して葦原中國を平定させられた。
 大己貴神は「私は退いて幽界の神事を担当しましょう」言われた。
 経津主神は方々を巡って平定を進めていった。この時に帰順した首長は大物主神と事代主神である。そこで八十万神を天高市に集めて、これらの神々を率いて天に上がった。、

  
 『古事記』では、建御雷神が大国主神と直談判をして国譲りをさせている。
 この『日本書紀』の記事については、塚口義信先生は、河内王朝(応神天皇)の成立と結びつけておられる。以下引用。
 この神話では大物主神が帰順した首領の中心の神として記されているが、これは後代の改変によるものであろう。神話の中で、三輪山から遠く離れた高市御県坐鴨事代主神社(橿原市雲梯町の河俣神社に比定される)が鎮座する高市郡(天高市)に八十万の神があつめられたと語られていることからからすると、この神話の本来の形は事代主神のヤマト王権への服属をかたるものであったと考えられる。
 4世紀末の争乱によってその権力の座を追われた葛城南部の鴨集団らの神々も、高市郡の鴨集団の神とともに王権に服属した「八十万の神」のなかに含まれていたとみるのが妥当である。そして事代主神がその後もなお王権の直轄領たる高市御県のなかに鎮座していることからすると、4世紀末の争乱の後に王権に服属した高市郡の鴨集団はその後、神話が語っているように「永(ひたぶる)に皇孫(すめみま)の為に護る神、すなわち王権を守護する神に変貌していったことが考えられる。引用終わり。


橿原市雲梯町 河俣神社
高市御県坐鴨事代主神社

神奈備