難波津 上町台地の東北西岸にあった幾つかの津の総称。例えば、高津、猪甘津など。
難波大津 中心的な津で、難波御津と同義と思われる。
1.中国・朝鮮諸国と交換した使節の発着港
2.西国へ赴任する官人や防人の発着の港
3.調庸など諸国から貢進される公的な物資・商品の集散地。
難波大津に関する資料
1.仁徳は磐之媛を難波の大津で待つが、大津に泊まらず、引き返して、川から遡って山城に行った。
2.推古十六年 大唐の使人裴世清らのために、新しい館を難波の高麗館の近くに造った。六月十六日、客たちは難波津に泊まった。この日飾船で、客人を江口に迎え、新館に入れた。
3.舒明四年 唐の使者高表仁らが難波津に泊まった。大伴馬養を遣わして江口に迎えさせた。
4.(万葉4331)若草の 妻をも巻かず あらたまの 月日数みつつ 葦が散る 難波の御津に 大船に
5.(万葉1453)大王の 命畏み 夕されば 鶴(たづ)が妻呼ぶ 難波潟 御津の崎より
6.(続日本紀) 天平勝宝五年753 御津村 南風大吹 潮水暴溢 懐損慮舎 没百姓五百六拾人
7.(行基年譜) 聖武二十一年744、大福院 御津 尼院巳上在 摂津西成郡御津村
8.朱鳥元年(686) 阿斗蓮薬の家から失火、難波の宮室はことごく焼けた。
9.天平宝字六年(762)遣唐使用船が難波江口の早瀬に乗り上げた。
難波大津(御津)はどこか?
千田稔説(埋もれた港)
御堂筋三津寺付近
三津寺は天平年間(729-)からこの地にあると云う伝承
三津寺の北に津村、南に難波(なんば)、湊町がある
資料7は三津寺を大福院としているが、現在もそうである。
堂島川の玉江橋の北に「字江之口」があった。堀江口だろう。福島駅の南
これで、資料2,3の 難波津 → 江口 → 客館 のコースが合理的になる
日下説 高麗橋(天神橋南付近)
資料2の記事で、難波津に泊まったのは全体の話。行路は江口から高麗新館
資料6の記事で、そのような被害が出る場所に重要な湊を置くはずがない。
資料7の地名は移動することがあるので拘泥されない。
資料9では、難波堀江に入ろうとしている。
神奈備 日下説を延長させて、大川から谷町筋に入った場所
大川沿いは時には流れが急になりがちだから、谷筋に少し入る。難波宮の中の港だから大津であり御津である。
資料1で大津に寄らず、引き返しているのは、谷町筋(元は谷)を北上して向かった様
資料4、5で、「葦か散る」、「鶴が妻呼ぶ難波潟」とあり、淡水の潟に位置した
古墳時代、飛鳥時代の巨大倉庫群が真東に出来ている
船乗りの頭領であった阿斗氏の宅が、難波大蔵の北東すぐ(谷町筋)にあった。
石町に住吉神を祭っていた。(坐摩神社は元大神坐)まさに港を見守っている。
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