浪速の道の物語

[9149] 浪速の道の物語  神奈備 2008/07/08(Tue) 17:26 [Reply]
 『倭人伝』の対馬の項で、「道路は禽鹿(キンロク)の径の如し」と書いています。獣道が道のルーツだったことを物語っているように思います。獣道には所々に水がわき出る場所があるようです。所謂、断層の上が道になり、この断層からはα波やγ線なども出ていて、人間にとっては心地よい気分になったり、または閃きがあったり、天の啓示を受けたりしたのでしょう。その場所を聖地のように感じ、神の降臨の場所と見立てて籬を作る場所として大切に扱ったのでしょう。

 金剛葛城山系の東側に葛城古道が通っていますが、24号線よりやや西側となっています。ここには古紀路と呼ばれた古代道路があります。一言主、名柄、高鴨と神社が並びます。
 山辺の道も三輪の大神神社・大和神社や石上神宮などそうそうたる神社が並んでいます。

 難波では断層と神社がくっきり出ているのが熊野古道がそうなっているようです。上町台地の西側の熊野古道は丁度谷町堺筋の間にあたり、断層の真上です。谷町線の地下鉄工事で水脈が切られて井戸もかれました。岸和田の久米田断層の上も熊野古道が通っています。そうして熊野古道沿いには元々の神社も多く鎮座していますが、さらに王子社がいくつか作られました。

[9150] Re[9149]: 浪速の道の物語  佐々木高久 2008/07/08(Tue) 21:01 [Reply]
 王子社は、先週早朝朝日放送の歴史街道で拝見させていただきました。
 見事な分布でした。
 かなり以前でしたか地震学が専門の尾池和夫さんが、「閃き」について同じことを述べられていて、ノーベル賞の原点は、活断層と書かれておりました。
 さて最近は高野街道や行基道などの歩く会がありますが、これも活断層沿いにありまして、こちらは古刹や廃寺が多く、井戸は一定距離ごとにあります。
 また[9149]で上げられた神社のある活断層は、関西では超1級クラスの活断層の中でももっとも活動度の高い地区で、活断層のランク付けとの調和が大変面白く、拝見致しました。
 追記 
 街道と活断層については東方出版「街道と活断層を行く(関西地学の旅)」が出ていました。これはちょっと内容が粗いようですが。
 こんな石造鳥居被害と地震動に関する研究もありました。
 http://kei.kj.yamagata-u.ac.jp/kawabe/www/torii/

[9151] Re[9150][9149]: 浪速の道の物語  神奈備 2008/07/09(Wed) 09:25 [Reply]
> かなり以前でしたか地震学が専門の尾池和夫さんが、「閃き」について同じことを述べられていて、ノーベル賞の原点は、活断層と書かれておりました。

 神社巡りや神頼みもそれなりの根拠があると云うことですね。


 道と神社については、参詣道にも当然必然性があります。和歌山の鉄道である貴志川線は、当初は和歌山駅から日前宮・竃山神社・伊太祁曽神社の三社参りのために敷かれた鉄道とされています。

 難波では東に延長すれば十三峠越から平城京に至るみちがあります。
 大坂の玉造から八尾の神立の玉祖神社につながる道です。玉祖道で、玉造・四天王寺・神立への道です。云うまでもなく玉造の人々玉祖神社に参詣した道です。

 この道はやがて平城京に至るのですが、俊徳街道とも呼ばれたのは俊徳丸が四天王寺に通った道でその名前がついたようです。

 在原業平は龍田から十三峠を越えて枚岡神社に参詣しましたが、神立茶屋辻の娘の梅野に恋し八百夜も通い詰めた道といわれており、業平道ともいいます。

[9154] 浪速の道の物語 磯齒津路  神奈備 2008/07/10(Thu) 16:57 [Reply]
 『雄略紀 十四年』に、「爲呉客道通磯齒津路。名呉坂。」と云う記事があります。この記事は「呉国の使いと共に、呉の献じた手末の才伎、漢織・呉織と衣縫の兄媛・弟媛らを率いて、住吉の津に泊まった。」と次ぎにあり、彼らを飛鳥に導くための道路を「磯齒津路」として整備したことをしめしています。
 (注)手末の才伎 手先を使う諸種の工人

 住吉大社から東への道は、丁度長居公園の南側を通り、湯里の天神山跡の南側を通り、喜連に至ります。明治以降は八尾街道、近年は長居公園通りとして大阪国際女子マラソンのゴールへの道として知られています。平安時代にまとめられた『延喜式』に、「新羅の客が来朝したときは神酒を給す。」とあり、大和や摂河泉の神社が住道社と生田社に稲束を送り、住道社が醸した酒は難波館で給す。」とあります。

 大和に都がある頃には、住吉津に到来した新羅からの帰化人に対して、帰化の証として神酒を飲むことが要請されていたようです。「仲間に入れてもらいたいのなら俺の盃を受けろ。」「俺の酒がのめねえか」と云うことで、磯齒津路沿いに鎮座する神須牟地神社・中臣神須牟地神社(これらが住道神であり、道の神といえます。)で醸した酒を、赤留比売神社で酒宴を行い、酒を呑ましたのでした。巫女さんがお酌をしたのかも。

 磯齒津路は龍田越か亀の瀬越をして大和に入ったのでしょう。

[9155] Re[9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  佐々木高久 2008/07/10(Thu) 21:08 [Reply]
 『雄略紀 十四年』のルートには湯里があります。かつて湯里には温泉が自噴していたのですが、呉の人たちも湯里の温泉に浸かって、ご酒を煽っていたのでしょうか。そのような景色が見えてきます。赤留比売神社の名称がたいへん興味深く思います。  
 [9149]で書かれていた、γ線の強度と神社を少し調べると、東大阪市の弥刀神社が大阪府内の平野では一番に高く、次は八尾市矢作神社でした。長瀬川の東側が高いようです。矢作神社で、乳の出がよくなるのはこの関係かもしれません。また大阪市内は坐摩神社でした。但しγ線の高いところを好んでいくと血流量が増すのか、私も含めてある年齢以上は心筋梗塞になりやすいようです。
 
 

[9156] Re[9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  神奈備 2008/07/11(Fri) 09:08 [Reply]
佐々木さん、情報ありがとうございます。

> 湯里には温泉が自噴していたのです

 ここの天神山が四極山すなわち磯齒津山のネーミングの元ですから、象徴的な温泉だったのでしょう。


> γ線の強度と神社を少し調べると、東大阪市の弥刀神社が大阪府内の平野では一番に高く、次は八尾市矢作神社でした。長瀬川の東側が高いようです。矢作神社で、乳の出がよくなるのはこの関係かもしれません。また大阪市内は坐摩神社でした。但しγ線の高いところを好んでいくと血流量が増すのか、私も含めてある年齢以上は心筋梗塞になりやすいようです。


 γ線の強度、調査結果ありがとうございます。

 坐摩神社は現在地ですね。ご近所です。元々陶器神社がありました。ここへ遷ってきたのもむべなるかなですね。
 
 心筋梗塞、そうしますとポックリ寺なんかもγ線が強いのかも。

 大阪ではありませんが、
奈良県北葛城郡香芝町 阿日寺
奈良県北葛城郡香芝町 石光寺
奈良県北葛城郡当麻町 吉田寺

 などがポックリ寺として著名、二上山の東側に集中しているのも面白い。

[9157] Re[9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  大三元 2008/07/11(Fri) 11:29 [Reply]
> > 湯里には温泉が自噴していたのです
>  ここの天神山が四極山すなわち磯齒津山のネーミングの元ですから、象徴的な温泉だったのでしょう。

こうなってくると次のアイヌ語がオモシロイことになってきます:
si 本当の・大きい・主な
pa 湯気(など多義あり)
at (湯気などが)立つ

流石に(?)「弓削」(八尾飛行場の東)は無関係?

[9158] Re[9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  佐々木高久 2008/07/11(Fri) 11:42 [Reply]
神奈備さん

> 坐摩神社は現在地ですね。ご近所です。元々陶器神社がありました。ここへ遷ってきたのもむべなるかなですね。
心筋梗塞、そうしますとポックリ寺なんかもγ線が強いのかも。
大阪ではありませんが、
奈良県北葛城郡香芝町 阿日寺
奈良県北葛城郡香芝町 石光寺
奈良県北葛城郡当麻町 吉田寺

 坐摩神社は御旅所も高く、あとは阪和線沿いに集中しています。
 ポックリ寺もγ線強度非常に高いです。見事な発想です。
 香芝から入乃波温泉さらに尾鷲への北西南東方向の軸が高い傾向が出ている様子です。
 
 大三元さん はじめまして。著書先般拝見しました。
 温泉は湯里から南の河内松原あたりまで自噴していそうな地域らしいので、弓削もその可能性を否定できません。


[9159] Re[9158][9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  神奈備 2008/07/11(Fri) 17:21 [Reply]
大三元さん、佐々木さん ありがとうございます。

 万葉集の四極山の歌は以下の二首

0272 四極(しはつ)山打ち越え見れば笠縫(かさぬひ)の島榜ぎ隠る棚無小舟(たななしをぶね)

 この歌の四極山は、愛知県幡豆郡幡豆町や吉良町に比定されます。温泉地として名高いようです。
 また、志葉都神社が鎮座、式外ですが、古社のようです。祭神は津比良彦命、港に関係するようにも思えます。


0999 茅渟廻(ちぬみ)より雨そ降り来る四極(しはつ)の海人綱手干したり濡れあへむかも

 こちらは、難波のようです。こちらの四極は四八津と云う表記です。四八に住吉の意味? スー ヤ → スミヤシ ? ・・ ? 。

> si 本当の・大きい・主な
> pa 湯気(など多義あり)
> at (湯気などが)立つ

 実に興味深い御指摘です。
 まさに、この二つの「しはつ」に共通するのは、温泉と港のようです。

[9161] Re[9158][9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  大三元 2008/07/11(Fri) 23:52 [Reply]
佐々木さん、初めまして。

>  大三元さん はじめまして。著書先般拝見しました。

有り難うございます。

>  温泉は湯里から南の河内松原あたりまで自噴していそうな地域らしいので、弓削もその可能性を否定できません。

はい、「否定出来ない」仮説が生身のメモリに入り切らなくなってきて困ってます。

よろしく。

[9162] Re[9159][9158][9156][9155][9154]: 浪速の道の物語 磯齒津路  大三元 2008/07/11(Fri) 23:54 [Reply]
神奈備さん

「幡豆」ならこれまた、pa-at でピッタシ。。。

>  この歌の四極山は、愛知県幡豆郡幡豆町や吉良町に比定されます。温泉地として名高いようです。

[9169] 浪速の道の物語 荒坂峠  神奈備 2008/07/14(Mon) 15:35 [Reply]
 崇神天皇の時、四道将軍を各地に派遣します。北陸、東海、西海、丹波です。丁度大彦が北陸に出発しようとした際、武埴安彦が謀反を企て、山背から攻め入って来ます。また武埴安彦の妻の吾田媛が大坂から攻め入って来ます。四道将軍達が京にいなくなってから攻め込んだ方が将軍達の留守を狙えて成功する確率が高いと思われますが、何故か出発と同時に攻め込んで来ます。四道将軍達は行き掛けの駄賃に武埴安彦と吾田媛を討伐していこうとの情報でも入っていたのかも。

 武埴安彦は孝元天皇の皇子であり、崇神天皇の叔父にあたります。孝元天皇が河内の青玉繋の娘の埴安媛に生ませたのが武埴安彦です。彼は山背に拠点を持っていたようです。
 大坂から攻め込んだのは穴虫峠を越えて当麻道からやって来たのでしょう。西海に派遣予定の五十狭芹彦命の軍がこれをうち破ります。

 武埴安彦の軍は山背から木津川に来ます。和珥臣の遠祖の彦国葺も対岸に到着、武埴安彦は胸に矢があたり死にます。部下の軍勢はおびえて逃げますが、羽振苑(今の祝園)で殺されます。残兵は恐怖の余り屎を袴漏らしながら逃げて楠葉に至ります。屎褌が訛ったと云います。

 祝園から楠葉に至るには、古山陰道を北上し、これはJR学研都市線を北に行き、松井山手駅からさらに西に行き、枚方市長尾駅の手前(東)から北西に進んで楠葉にたどり着いたことになりそうです。

 古代より、荒坂峠と称する峠が山背と河内の境界の最北部にあり、古山陰道から西に分岐していました。京田辺市松井からこの峠を越え、枚方市長尾の荒坂の池の傍を通り、枚方市田口に至る道を荒坂峠といいました。枚方市田口から北上すればやはり楠葉。

 なお、河内の青玉繋の娘の埴安媛の住所については不明ですが、東大阪市加納の宇波神社の祭神は埴安比売命ですが、これはおそらくはイザナミ尊の屎に生成される神と思われます。『記紀』の説話の武埴安彦・埴安媛の名前は楠葉から逆に付けられた名かも知れません。反乱者への侮蔑を込めて。

 また、武埴安彦ですが、河内の豪族の娘を娶ったこともあり、本来は河内彦であり、これは狗奴国の狗古智卑狗のこと、そうすると山背の宇治を許乃国と云ったことから、狗奴国に当てはめると云うロマン解説もネット上で見受けられます。

[9170] Re[9169]: 浪速の道の物語 荒坂峠  佐々木高久 2008/07/14(Mon) 17:26 [Reply]
 面白いお話でした。
 本件は、日本書紀のくずはの「くそばかま」のくだりだったように思います。くそを漏らしたのは久須波の渡であったと記憶しています。その前に綴喜郡甲作郷で、甲冑を脱ぎ捨てるようなくだりがあったと思います。
 甲作郷は、八幡市八幡神原あたりを中心としたところだそうです。
 先般も八幡市教育委員会で松花堂の東隣で8世紀の豪族屋敷跡(女郎花遺跡)が発掘されました。ここは丁度山陰道から分岐した古山陽道の沿い(足利健亮氏)にあたります。
 ゆえに古山陽道を綴喜郡大住郷まで戻って荒坂峠を経由したかどうか少し疑問があるところであります。もちろん荒坂峠は江戸時代にはすでに荒坂街道があったことは絵図でも確認できます。
 ではどこを通過して行ったかでありますが、埴安が気になる名称でありますが、埴土で祭器を作り、国を支配すること(安国)を「埴安」と仮定すれば、現在の「楠葉の御牧の土器作り」で有名な南楠葉船橋、長尾、招堤養父など地区(交野郡葛葉郷園田郷)あたりと置くこともできます。 
 小字地名では楠葉に土部(はにべ?)、船橋にはに穴(安?)があります。近くには壬生寺の「ほうらく」の生産地で有名な招堤四人山(よったりやま)もあります。
 さらに幣羅坂という文字も出てくると記憶しております、これは奈良坂と普通考えますが、八幡市にも奈良郷(久世郡那羅郷)がありまして、山城河内の境に幣原(しではら)坂という場所(水月庵付近)もあります。
 そこで幣原から葛葉へ出る道を古い地図で確認すると、足利方式で見ると古代の道路跡と思しきものが途中南海道と当時栄えていた招堤寺内町や日置里で交わり、久須波の渡まで続いているのが読めました。
江戸時代には幣原道と言って、招堤養父船橋南楠葉地区の人たちの甲作郷への買い物街道でした。また正平の役の男山の戦いで負けて、後村上天皇が三種の神器を甲作郷の岡の稲荷社(松花堂の南側)に埋めて、河内へ落ち延びたときの街道でもあります。

[9174] Re[9170][9169]: 浪速の道の物語 荒坂峠  神奈備 2008/07/15(Tue) 20:15 [Reply]
佐々木さん、ご指摘ありがとうございます。

> 甲作郷は、八幡市八幡神原あたりを中心としたところだそうです。

 八幡神原まで行けば、西に抜ければ楠葉ですが、「伽和羅」を京田辺市河原に比定すれば、大住から荒坂峠のコースも矛盾はなさそうです。

 
> 楠葉に土部(はにべ?)

 これは候補地に相応しい地名です。


> 幣羅坂
 『古事記』では、少女が歌っている場所は山代の幣羅坂となっており、『日本書紀』では和珥の坂です。怪異が起こる場所は坂であり境であるということ。


[9175] Re[9174][9170][9169]: 浪速の道の物語 荒坂峠  佐々木高久 2008/07/15(Tue) 21:09 [Reply]
補足まで
> > 甲作郷は、八幡市八幡神原あたりを中心としたところだそうです。
>八幡神原まで行けば、西に抜ければ楠葉ですが、「伽和羅」を京田辺市河原に比定すれば、大住から荒坂峠のコースも矛盾はなさそうです。

 確かにそうだったのですが、数年前文書(八幡の正法寺文書)が出てきまして、「伽和羅」の場所は、八幡神原から志水あたりとのありました(現地の伝承とも一致)、京田辺市郷土史会が看板を作った京田辺市河原でないことがわかりました。
 たしか京田辺市河原は志磨郷(要確認)でした。
 
> > 幣羅坂
>『古事記』では、少女が歌っている場所は山代の幣羅坂となっており、『日本書紀』では和珥の坂です。怪異が起こる場所は坂であり境であるということ。
 山代の幣羅坂は歌姫街道の「市坂」の方でしょうね。八幡はちょっと変?ですね。

 神奈備さんならご記憶の片隅にあろうかと、例のアテルイモレを切ったところも埴山(ほかに椙山)がありました。

[9176] 浪速の道の物語 普賢寺越え  神奈備 2008/07/16(Wed) 08:38 [Reply]
 佐々木さん、八幡市志水は石清水に遠慮した表記だそうですね。河原崎なる地名も見えますね。


 荒坂越えより若干南側の道が普賢寺越え。

 [8949] で、佐々木さんから、京田辺市の三山木に越前と云う地名が残っていることを教えて頂きましたが、丁度和銅四年に設置された山本駅付近のようです。

 ここから西に向かうと多々羅(新宮社が鎮座)、そこから西に大御堂観音寺(式内地祇神社が地主神)が鎮座。山号を息長山と称しています。息長氏が南山城に進出していた根拠とされています。尤も、感心山と云う山号もあったようです。山号以外に息長氏がいた証拠はあるのでしょうか。

 継体天皇が筒城宮を置いたのが多々羅付近とされ、従って息長氏が支援した大王とされています。大王の后の何人かは近江の坂田郡の人で、ここも息長氏の拠点。継体さんがやって来たから息長氏の拠点であったとするのは論理がギャグになるのでは。

 交野樟葉宮、山代弟国宮付近にも息長氏がいたのかどうか。

 その話より、普賢寺越えのお話に戻りますが、この道を河内に入ればやはり楠葉に行くとこが出来ます。木津川の水運と陸運とで二つの宮はつながっています。また木津川・宇治川・桂川の三川を越えれば、弟国宮です。北陸、琵琶湖と水運の中で育った継体さんらしい宮の分布とも言えます。大和へ入るのをグズグズしていたのは、内陸の盆地などは夏は暑いし、いやだったのかも。

 ついでに、多々羅は百済の奴理能美の住居があって、仁徳皇后の石日売がやってきています。また普賢寺道を枚方に行きますと百済王の本貫地、また継体さんは百済の武寧王から鏡を貰っており、これは和歌山の隅田八幡宮に伝承されていましたが、息長、百済、継体が混沌としている普賢寺越えでのようです。

[9177] Re[9176]: 浪速の道の物語 普賢寺越え  佐々木高久 2008/07/16(Wed) 10:16 [Reply]
神奈備さん
> 荒坂越えより若干南側の道が普賢寺越え。
 
 徳川家康・穴山梅雪で少し有名ですね。荒坂、幣原よりはかなり険しいですね。田原道ですね

> 山号以外に息長氏がいた証拠はあるのでしょうか。
 
 現状なかったと思います。私が調べている限りでは、継体の葛葉、弟国、筒城の3宮は古墳時代以降白鳳期までの集落遺跡等の分布密度が高い地区となっていること程度。だれなのかはわからない。遺物に渡来人の雰囲気は感じないと文化財関係者はいうのですが。

> ここも息長氏の拠点。継体さんがやって来たから息長氏の拠点であったとするのは論理がギャグになるのでは。
 すでに根付いていたと考えるべきでしょうが。
 坂田郡山東町に埋葬者は息長氏と伝承される古墳が多いですね。野洲の三上神社にも伝承があるそうですが、ここまで南下しますと宇治田原、井手、京田辺まで進出している可能性はありますが。

> その話より、普賢寺越えのお話に戻りますが、この道を河内に入ればやはり楠葉に行くとこが出来ます。木津川の水運と陸運とで二つの宮はつながっています。また木津川・宇治川・桂川の三川を越えれば、弟国宮です。北陸、琵琶湖と水運の中で育った継体さんらしい宮の分布とも言えます。大和へ入るのをグズグズしていたのは、内陸の盆地などは夏は暑いし、いやだったのかも。
 
 昨年末と今春に、枚方で継体の関するシンポがあったようですが、千田稔さんは継体さんは大和に入りたがらなかったと発言されていました。また経済的に豊かな南山城河内に居る方が合理的であったか。
 
 蛇足ながら木津川(泉川)は当時近鉄線あたりを流れていたそうです。京田辺の飯岡は木津川の右岸だったそうです。
 筒木宮の前の江津あたりから舟にのって、下流の水主神社付近から仁徳さんの「栗隈大溝」を抜ければ、巨椋池の市田に出るので、この三宮は陸、水の便ではすぐれた立地といえましょう。今ならば神戸大阪京都のような感じですか。
 ただ筒木宮と大和は、気候的にはよく似ていると思いますが、筒木は極端に年間降雨量が少ない。養蚕にはよかったのか?弟国宮も伝承のところは大和以上に暑いところですが、もう少しの南の大山崎なら。
 さらに蛇足ですが、樟葉付近は「越の国」と呼ばれ、隣接する八幡市南部には大字美濃山があります。
 伊太祈曽さんに、NHK和歌山の湧き水取材で訪問されたと大分前に伺いましたが、何か放送でもあったのでしょうか。

[9182] 浪速の道の物語 岩船越  神奈備 2008/07/16(Wed) 20:48 [Reply]
 磐船街道のことで、京阪交野線終点の交野市私市から南へ天野川の渓谷沿いの道です。ほしだ園地に哮が峯とされる山もあり、また神功皇后が食べた梅干しの種から生えたとされる梅の木の跡などを経由、別れて磐船神社の巨石の前への道があり、また車の多い国道168号線の街道に戻ります。

 磐船神社の前にも饒速日尊降臨の石とされる巨石があり、先に書いたように哮が峯も別にあり、にぎやかな饒速日尊伝承地。

 天野川は生駒市の南田原のお松の宮付近を分水嶺として南へは富雄川が流れ、大和川へ入ります。饒速日尊が十種の神宝を持って降臨し、神宝は磐船神社に置かれたのですが、久しく祀る人もいなくなり、神宝も分散、従って磐船神社の松の枝を持ち帰り、南田原の神社に植樹、松の木鬱蒼と生えしげっていたと言う伝承があります。岩船社は摂社になり、住吉神社が覆い被さったようです。

 分水嶺を過ぎて富雄川沿いに南下していきますと、今度は式内の登弥神社が出てきます。

 この岩船越の大和国部分は古くは鳥見と云われ、神武伝承に登場する英雄である長髄彦の地盤だったようです。

 この岩船越は渓谷沿いの厳しい道だったとは思われますが、大和にも河内にも両サイドが物部氏の拠点のようであり、往古は頻繁に通われていた道だったと思われます。

[9191] 浪速の道の物語 清滝越  神奈備 2008/07/18(Fri) 20:21 [Reply]
 東大寺へ宇佐八幡を勧請した時、平群郡で奉迎したと言う『続日本紀』巻十七の記事のある八幡宮を無足人で知られる高山八幡宮に比定されていますが、この付近には西からの交通路があったようです。このから西へ向かうとすれば、国道163号沿いに北田原に出て飯盛山を目指すことになります。清滝峠を越えて逢坂に出て、四条畷市の式内の国中神社に出て、東高野街道に突き当たります。

 この東高野街道は高野の名前は別として生駒山西側を南北に貫通する古道であったと思われます。二上山のサヌカイトが生駒山麓から北摂にまで点在し、縄文時代の遺跡もこの街道沿いにあり、弥生・古墳時代の遺跡も街道沿いに分布しており、現在まで生き続けた古道の遺跡と言えるでしょう。

 『行基年譜』には、「直道一所 在自高瀬生駒大山登道」とあります。清滝越の道はより西で高瀬の渡しに繋がります。式内高瀬神社も鎮座しています。また、『播磨国風土記』に大帯日子命(景行天皇)が川渡りの際、紀伊国人小玉が「あなたの家来ではない。」と主張し、渡し賃を取った説話がでています。紀の国の人が淀川水系の水運を握っていたことが偲ばれます。

 平城京から長岡京へ行くのに高瀬から淀川の北側の三島路を通ったと云います。

[9198] 浪速の道の物語 中垣内越・生駒越・辻子谷越え  神奈備 2008/07/20(Sun) 08:15 [Reply]
 平城京から西へ行く道で、添御縣坐神社の鎮座する三碓(みつがらす)を通り、生駒市俵口から龍間から中垣内西に行く道。阪奈道路のコースで善根寺に出ることになります。

 善根寺は草香山の裾になり、草香山の末端にあたる宮山に春日神社が鎮座しています。磐座なのか古墳の石なのか、が置かれている神社です。扁額には「日本最初春日大社」と記されています。

 この神社の前を北西に行き、阪奈道路の下をくぐって進むと、八幡山への目印が出てきます。八幡地蔵尊や磐座祭祀の八幡神社が見えてきます。八幡神社は和気清麿が祀ったと由緒板にあったように記憶しています。

 谷川健一氏『白鳥伝説』には、「勝井純『神武天皇御東遷聖跡考』に、この道を日下の直越としている。」と述べています。どんどん行きますと最終的には生駒の燈篭ゲートに出るのですが、その途中に饒速日山があり、また草香山と呼ばれています。この山を水源とする川を「日の川」と称し、饒速日山と太陽信仰との関連が偲ばれます。

 近鉄石切駅を降りて石切神社上宮方面に歩いて行きますと、そのまま生駒山に登っていく道があります。辻子谷越えと呼ばれます。小生は足慣らしに時々この道を通り、山頂を目指します。直線的に登り、直線的に降りる、まさに直越えの道とする説があります。

五年癸酉(みづのととり)、草香山を超ゆる時、神社忌寸老麿(かみこそのいみきおゆまろ)がよめる歌二首
0976 難波潟潮干の名残よく見てむ家なる妹が待ち問はむため
0977 直越(ただこえ)のこの道にして押し照るや難波の海と名付けけらしも
0977 一直線に山を越えてくるこの道でこそ、海面全体が輝いている難波の海と名付けたらしい

[9203] 浪速の道の物語 暗嶺越 十三峠越   神奈備 2008/07/21(Mon) 13:19 [Reply]
 生駒市西畑から暗峠を越え、大津神社のある水走、高井田・足代に至る道。国道308号線。 生駒山側では、枚岡神社の北側に出る。暗峠と云うのは小椋山を越えていくからとの説がありますが、小椋山は龍田越えの山とする万葉歌(巻九−一七四七)があり、定かではありません。

 この道の途中の足代はアジロと読むようです。猪飼野の古書店主さんに足代さんがいて、地域の有名な郷土史家ですが、彼が足代について調べていたおり、四天王寺の塔を建設の際の足場を足代と言ったと言うことを突き止めておられました。他には網代からの変化などもあったようです。

 難波宮と平城京の最短コースとされています。官道です。当麻の加守神社の蟹守宮司さん曰く「官道とはお上が造った道と言う意味ではなく、役人のみが通ることが出来、一般庶民は通行禁止の道のこと。」との説がありました。竹内街道もそうだったと云います。

 
十三峠越 

 法隆寺の近くの平群郡竜田から北西方向に行き、福貴畑から十三峠を越え、八尾市神立に降りてきます。難波の三種の神器の一つである玉祖神社が鎮座、(後は劔の石切神社、鏡の若江鏡神社、これらが正三角形をなす。)、難波の宮の南東すぐに玉造の集落があり、ここから南下して難波大道を行き四天王寺から東に曲り、玉祖神社に参詣した道です。俊徳丸と在原業平のことは[9151] で触れました。

[9204] 浪速の道の物語 立野越・亀ノ瀬越  神奈備 2008/07/21(Mon) 13:59 [Reply]
 官道であった。竜田大社から雁多尾畑に上がって行きますと、法隆寺龍田神社の本宮跡があり、また更に登りますと龍田大社の神が降臨された御座峰があります。毎年元旦に神主さんがお参りに来られるとか。この登り道は古くからの道だったのでしょう。雁多尾畑を西に下っていきますと、金山姫神社・金山彦神社が鎮座しています。この道は古くから人々が行き来していたようです。

 また、龍田大社門前から大和川沿いに南に行くと磐瀬杜碑が立っています。
万葉集に歌われた石瀬の杜です。巻八 鏡女王(かがみのおほきみ)の歌一首
1419 神奈備(かんなび)の石瀬(いはせ)の杜の呼子鳥いたくな鳴きそ吾(あ)が恋まさる

 後にはこの杜を通り、大和川の北側を亀ノ瀬に行き、ここから雁多尾畑に上がり、青谷に下り、大和川を渡り、国分に至った道を立野越と言うようです。近世は奈良街道、古代は長尾街道とか大津道と呼ばれていました。
 亀ノ瀬から雁多尾畑に登っていくのは大変でありますが、亀ノ瀬から西は地滑り地帯で、危険この上もない道だったのです。現在も地滑り防止の工事を行っています。電信柱のような物を何万本も地中に打ち込み続けています。ここが地滑りで蓋をされますと、大和国中が水没し、大和湖が出現してしまうのです。

 『日本書紀』では、神武天皇の軍は竜田に向かいましたが、その道は狭く険しくて人が並んで歩けなかったとして引き返しています。

 『履中前紀』では、どうやら高津宮(多分難波宮とほぼ同じ場所)で住吉仲皇子の陰謀によってあやうく殺されそうになる際、近くの臣に助けられて大和へ逃げるのですが、竹内峠を越えようとしていたようですが、少女が兵士が山中に多くいるので、別の道をと言い、竜田山越の道を通ったとあります。
 狭い道だったので攻められやすいと言うことで、ここは軍としてはあまり通らない道だったので待ち伏せされなかったのかも知れません。なお、『古事記』では当麻道を通ったとしています。

 壬申の乱では近江方が大和に攻め込む様子を感じて、天武側は竜田、大坂(当麻)、石手(竹内)を守らせます。こういうこともあってでしょうが、天武八年に竜田山・大坂山に関所を設けています。

 亀ノ瀬は葛城二十八品の経塚を埋納した二十八番目の場所とされています。第一番は加太の友が島の序品窟です。亀ノ瀬に当たる場所は大和川内の亀岩と呼ばれている岩。

 柏原市国分や安堂は遺跡の多い場所で古代からの交通の要衝だったのでしょう。ここから磯齒津路や大津道に渡るためには大和川か石川を渡る必要があります。多くの人々が渡っていったことでしょう。対岸の藤井寺市にはまた多くの遺跡が集中している地帯です。ここに船橋と言う地名が残っており、かっては船橋が架けられたのでしょう。

 万葉集 巻九 一七四二
河内(かふち)の大橋を独りゆく娘子を見てよめる歌一首、また短歌
1742 しな照(で)る 片足羽川(かたしはがは)の さ丹(に)塗りの 大橋の上(へ)よ 紅の 赤裳裾引き 山藍(やまゐ)もち 摺(す)れる衣(きぬ)着て ただ独り い渡らす子は 若草の 夫(つま)かあるらむ 橿(かし)の実の 独りか寝(ぬ)らむ 問はまくの 欲しき我妹が 家の知らなく

 吉田東悟『地名辞書』によれば、「片足羽川」は大和川の別名であり、大県郡の旧名の堅鹽からの名としています。カタシハと訓。

 この橋の架かっている西側の地名は船橋です。船橋とは船を並べてその上に板を置き、歩いて通れるようにした橋のことです。『日本書紀』仁徳一四年、「猪甘津に橋為す。即ち其の処を号けて小橋という。」とあります。これが最古の記録。ここにも舟橋なる地名があります。初期の橋は舟橋だったのでしょう。

 万葉集で歌われている橋が船橋だったかどうかですが、その昔にはやはり船橋が架かっていたのでしょう。


[9205] 浪速の道の物語 終わり  神奈備 2008/07/22(Tue) 08:43 [Reply]
関屋越・田尻越

 ざっくり言えば、近鉄大阪線のコース。


穴虫越

 近鉄南大阪線のコース。葛下郡高田から穴虫峠を越えて安宿郡飛鳥・古市に至る道。この道も天武八年に竜田山と並び大坂山に関所が設けられた。安宿郡飛鳥には飛鳥戸神社が鎮座していますが、大和から見て飛鳥の入口の場所と言えそうです。

 『大和の原像』で小川光三氏は、太陽の道として、東は伊勢斎宮跡から檜原神社・箸墓、さらに真西へ行くと穴虫峠に至り、大阪では堺市日置荘の萩原天神社。大鳥大社を経由して淡路島の伊勢森に至る道です。


竹内嶺
 当麻町長尾に長尾神社が鎮座しています。この神社は吉野から堺に行く長尾街道と竹ノ内街道との交点に鎮座しており、祭神にも吉野との関連の見られる神社です。
 当地に伝わる伝説では、長尾神社は東面し、大和高田の竜王社(石園座多久虫玉神社)は西面し、長尾神社は竜の尾をあらわし、竜王社は竜の頭を現すとあります。また、長尾神社は大蛇、つまり巳さんの尾で、三輪明神さんは巳さんの頭、竜王社は腹(子宮)であるとも伝えられています。

 長尾神社以西は竹ノ内街道と呼ばれた官道でした。河内の丹比道に繋がり、堺の開口神社に至ったようです。千田稔氏は、『探訪古代の道巻2』の中で、開口神社の場所こそ古代の大伴御津と呼ばれた港ではなかったかとされています。同感です。
 立野越えの道は河内では大津道につながりますが、これもまっすぐ西で開口神社に至ります。


水越嶺
 葛城の一言主神社や長柄神社から葛城山と金剛山の間になる水越峠を越える道です。途中に葛城水分神社も鎮座しています。河内側には建水分神社が鎮座。
 御所市には葛城襲津彦が半島から連れてきた渡来人を多く住まわせてハイテク団地を形成したのですが、また河内側(河南町付近)にも多くの渡来人が住んでいたと思われ、この峠こしに技術交流がなされていたのでしょう。

[9205] 浪速の道の物語 追加  神奈備 2008/07/22(Tue) 18:00 [Reply]
立野越・亀ノ瀬越 山本博『竜田越』昭和46年から

  竜田越三路があった。稜線道とは現在のバス道

1.竜田大社北→西へ、今井→稜線道 途中まで信貴山参詣道

2.竜田大社前→南へ、高山→三室山→稜線道

3.a 竜田大社前→南へ、大和川右岸→峠八幡  この道は地滑りで消滅

3.b 竜田大社前→南へ、高山→峠八幡

         c 峠八幡→雁多尾畑へ
         d 峠八幡→亀ノ瀬へ→青谷道(大和川沿い)


山の恐怖 荒ブル神と地滑り(亀ノ瀬の東西800m、北700m)

竜田越の異名
畏(かしこ)の坂、懼坂、恐の坂、賢の坂道

巻八
1022 父君に 吾(あれ)は愛子(まなご)ぞ 母刀自(おもとじ)に 吾(あれ)は愛子ぞ 参上(まゐのぼ)り 八十氏人(やそうぢひと)の 手向する 畏(かしこ)の坂に 幣(ぬさ)奉(まつ)り 吾(あれ)はぞ退(まか)る 遠き土佐道を

竜田山に住む無頼の徒=荒ブル神
 都に税を支払いに来たが帰る旅費を貰うも米などは買えず、多くは帰路で飢え死に。
それがいやで竜田山で踏鞴製鉄に従事する者多く、彼らが荒ブル神となった。




神奈備にようこそ