Uga 日本書紀の神功皇后

1 外国文献と一致する記事
  神功三十九年(239 卑弥呼) 「魏志に云はく、明帝の景初の三年の六月、倭の女王、大夫難斗米等を遺して、郡に詣りて、天子に詣らむことを求めて朝献す。太守都夏、吏を遺して将て送りて、京都に詣らしむ」。

神功四十年(240 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の元年に、建忠校尉梯携等を遺して、詔書印綬を奉りて、倭国に詣らしむ」。

神功四十三年(243 卑弥呼) 「魏志に云はく、正始の四年、倭王、復使大夫伊声耆、掖耶約等八人を遺して上献す」。

神功六十四年(384) 百済貴須王尭じ、枕流王立つ。朝鮮正史の近仇首(きんきゅうしゅ)『三国史記』百済本紀・(在位:375年 − 384年)

神功六十五年(385) 百済枕流王菱じ、辰斯王立つ。(在位:384年 - 385年)

神功六十六年(266 台与) 「是年、晋の武帝の泰初の二年なり。晋の起居の注に云はく、武帝の泰初の二年の十月に、倭の女王、訳を重ねて貢献せしむといふ」。

 神功紀の年代は露骨に120年ずらされています。邪馬台国時代にあわせた年代は無視するとして、神功元年は321年、神功六十九年 皇太后崩ず 389年 となります。応神天皇は390年即位となります。

2 倭王 倭の女王
 日本書紀の編纂者は倭王・倭の女王として神功皇后を指すように細工をしているが、杜撰です。卑弥呼でありかつ台与であるような表現になっています。  
 さて、倭の女王は朝貢していたとの事実は消し去ることはできませんから、神功さんを皇后として、終身皇后としています。息子の応神さんに70近くまで譲位していないのは不思議です。じつは神功さんは譲位のできない身分だったのです。則ち天皇であったので終身努めなけれなならなかったのです。その理由を三点あげておきます。
 ひとつは、日本書紀は天皇一代ごとに区切っています。そこに神功皇后がきちっと区切られているのです。天皇であったことを編纂者は承知していましたのでしょう。  
 ふたつめは、各地の風土記に天皇とあることです。
常陸国風土記茨城の郡に 息帯足比売天皇 とあります。
播磨国風土記讃容の郡中川の里 息長帯足比売命  天皇は勅して云々。とあります。
摂津国風土記逸文 美奴売の松原 息長帯比売天皇が筑紫の国に云々。
 みっつめ 
扶桑略記(12世紀成立の歴史書)天皇別の編纂で 神功天皇 の項目。
神皇正統記 第十四代第十四世仲哀天皇、第十五代神功皇后、第十六代第十五世応神天皇、第十七代 仁徳天皇。やはり天皇の代に数えられているようです。

  大正十五年(昭和元・1926)に政府は、神功皇后を天皇とは認めない決定をくだし、現在に至っています。

3 大帯日売伝承  
 香椎廟の創建史料 『八幡宇佐宮御託宣集』には、香椎宮三所 左 八幡、中 大帯姫、右 住吉 とある。
 筑紫国糟屋郡香椎郷の地には4世紀後半の古墳や製鉄遺跡が出土しており、古代では港に面した軍事拠点であり、韓半島への出兵の拠点であった。ここが巫女女王の大帯姫の伝承地となっていた。
 大帯姫の神威は海人を通して朝鮮半島にまで及んでいたものと思われる。この大帯姫が『播磨国風土記』に見るように、息長帯姫に結びつき、神功皇后の三韓征伐の物語に発展していったものと思われる。また、大帯姫の彦神である大帯彦忍代別4(景行天皇)や日本武尊の熊襲退治の物語も姫神の神威によるものだったかも知れない。

 各地の風土記に見る大帯姫(神功皇后)伝承。
『播磨国風土記』   
 播磨国印南郡 仲哀天皇が皇后と一緒に筑紫の熊襲の国を征伐のため下っておいでになったとき御舟が印南の浦にお泊まりになった。(『紀』とは違う九州行きである。)  
 飾磨国飾磨郡 因達と称するのは、息長帯比売命が韓国を平定しようと思って御渡海なされた時、御船前の伊太代の神がこの処においでになる。だから神名によって里の名とした。(射楯の神である、五十猛神である。水軍の祀った神)  
 播磨国揖保郡 宇須伎と名付けるわけは、大帯日売命が韓の国を帰順させようとして海を渡ろうとされた時、御舟が宇頭川の泊に宿られた。
 『摂津国風土記』の逸文として残されている美奴売松原の条にみられる三韓征伐伝承も興味深い。ここでは、「息長帯比売天皇」が筑紫へ向かう途中、摂津国川辺郡の神前の松原に神々を集めて加護を願ったことが記されている。そのとき、美奴売神も加護を約束し、自分の鎮座している山から杉の木を伐りとって船を造ることを命じたので、その教えに従って船を造り、新羅を征討したとしている。
 なお、息長帯比売命の新羅平定の話は、常陸、摂津、肥前、筑紫 の各国の風土記にも記載され、広く民間伝承として語り継がれていたようだ。
 香椎宮には住吉大神も祀られており、大帯姫が神の霊威で異国を平定する伝承があり、さらに女神が海からやってきて御子を産む、母子伝承があったものと思われる。 景行天皇は大帯日子淤斯呂和氣天皇と言われている。まさに姫神に対応する彦神である。親子か孫の関係かも知れないし、香椎宮の神の熊襲退治の伝承を受けているのかもしれません。

4 香椎廟宮
 日本書紀は香椎廟宮を橿日宮と表記し、仲哀天皇の仮宮とし、また神功皇后の軍事拠点となった。現在は香椎宮として廟の字はなくなって、普通の神社になっている。ただ、宇佐神宮の第三御殿となっている大帯姫廟神社は、弘仁二(820) 香椎廟宮から大帯姫廟を勧請。後に神功皇后と見なされた。
 現在の香椎宮の主神は仲哀天皇と神功皇后、配祀神は応神天皇と住吉大神となっている。
参考文献
『神功皇后伝承の研究』塚口義信

史話

神奈備にようこそ

H20.6.7
                                    以上