三丹の古代

1.丹後国風土記逸文から

丹後半島

峰山町に比治山がある。磯砂山と云う。
(砂鉄の多い山である。)

その頂上の井戸に天女が下りてきて水浴びをしていた。井戸を真奈井と云う。

和奈佐老夫が羽衣を隠した。天女は天に帰れなくなった。天女は和奈佐夫婦の養女になって養われた。

天女は酒造りがうまく、醸した酒は評判が良く、夫婦は金持ちになった。

金持ちになった夫婦は天女を邪険に扱うようになり、ついには追い出した。
(天女が醸す酒だからこそ値打ちがあるにもかかわらずに?)
(天女の業は酒造ではなく、製鉄ではなかったろうか)

天女は泣く泣く家を出てさまよい、夫婦の仕打ちを思うと、自分の心は荒塩のようだと嘆いた。
その地を荒塩の村と名づけた。(現在は荒山)

しばらく行くと槻の木に寄りすがって、さめざめと泣きます。そこを哭木の村と云う。(現在は内記)

哭木の村からしばらく歩くと、気持ちが治まってきて、「我が心なぐしくなりぬ」と云い、奈具の村と名づけられた。(奈具)

天女は比治山から流れ出る竹野川にそって下流へと彷徨っていった。神社と遺跡が残された。


丹波郡 比沼麻奈為神社「豐受大神 瓊瓊杵尊 天兒屋根命 天太玉命」 荒山(荒塩)に鎮座、比治麻奈為とする説があり、有力。伊勢外宮の本地とされる。

丹波郡 名木神社「豐宇賀乃当ス」 哭木(内記)に鎮座。

加佐郡 奈具神社「豐宇賀能賣神」 弥栄町船木奈具に鎮座。


赤坂今井墳丘墓 弥生時代後期末(三世紀前半)の大型方形墳丘墓では国内最大級の王墓
長さ7m、幅2mという弥生時代では比類のない規模の舟底状木棺の痕跡
ガラスや碧玉(へきぎょく)製の玉類計211個を使った豪華な「頭飾り」
棺の中からは鉄剣とヤリガンナも各1点出土した

遠所(處)遺跡 我が国最古の、砂鉄を原料とした「たたら式」の製鉄炉跡が発見された。
製鉄炉は8基見つかり、うち2基は6世紀後半のものだった。
一大製鉄コンビナート跡

扇谷遺跡 弥生前期末から中期始め(1世紀末〜2世紀初め)にかけての高地性大環濠集落
大量の土器、石器、陶けん(土笛)、鉄斧などの鉄製品やガラス玉などが出土した。
鋳造の板状鉄製品(インゴット)、鍛(たん)造の鉄も見つかっている。
低温の鉄製品生産の可能性もある。

大田南5号墳 青龍三年(235年)の年号を持つ国内最古の紀年銘鏡、方格規矩四神鏡出土。


丹後 峰山町大字大路(おおじ)字尾細(おぼそ)に安達家があり、和奈佐夫婦の子孫と云う。

阿波 海部郡 和奈佐意富曾神社(式内)が鎮座。意富曾と尾細。阿波海人が丹後へ移動か。
阿波と丹後  天橋立 阿波国美馬郡式内 天椅立神社
海部氏系譜に彦火明命の孫に天村雲命 阿波に天村雲神伊自波夜比賣神社

阿波と丹後・出雲 出雲国大原郡船岡山 阿波枳閇委奈佐比古命の曳き来て居ゑましい船、則ち此の山是なり。阿波の国の和那散から来た彦神ということ。丹後経由かも。
みなぎ しじみ
播磨 播磨国風土記美袋郡志深の里 伊射報和気命がこの里の井で食事をされ た時、信深(しじみ)の貝がご飯を入れた筥のふちに上がって来た。その時、「この貝は阿波の国の和那佐に行った時に食べた貝ではないか」と云った。
和奈佐夫婦の伝説は、産鉄長者伝説との説(吉野祐氏)。和奈佐=イサナは鋳土沙?


 豊後国の日出(ひじ)に真那井がある。『豊後国風土記(逸文)』に、餅の的のお話がある。「裕福な農家の人が弓を射ようとして、的がなかったので、餅を的にして射た。餅は白い鳥になって飛び去った。
家はたちまち貧しくなった。」。よく似た話は、『山城国風土記(逸文)』にもあって、餅を射た人の子孫が先祖のあやまちを悔いて、祈り祭ったと言う。稲荷の神になったと言う。

稲荷の神を豊受大神と見ても良いとすれば、羽衣伝説と白鳥伝説がここに合流する。
白鳥を追いかけた天湯河棚命(鳥取氏の祖)は製鉄氏族、白鳥を見た譽津別命も金属にかかわる。

さて、豊受大神を穀物神以外に金属神とすれば、伊勢内宮の天照大神は金属を食べる神といえる。

蚩尤


上は兵主神の姿である。漢の高祖が「蚩尤:シユウ」を祀って勝利を祈った事に由来する。
主な兵主神社と主祭神
丹波国氷上郡 兵主神社「大己貴命」
但馬国朝来郡 兵主神社「大己貴命」
但馬国養夫郡 兵主神社「大己貴命」
播磨国飾磨郡 射楯兵主神社「射楯大神、兵主大神」
近江国野洲郡 兵主神社「八千矛神」
大和国城上郡 穴師坐兵主神社「兵主神」
和泉国和泉郡 兵主神社「天照大神」 応永二年(1413)の由緒
因幡国巨濃郡 佐彌乃兵主神社[さみのひょうす]「天照大神」 

参考文献
風と火との古代史 柴田弘武
磯砂山の昔ばなし 松本寅太郎
谷川健一全集 15


2.三丹出土の鏡から

魏年号 鏡名 古墳名称・出土地
倭国乱れ、相攻伐すること歴年、及ち共に一女子を立てて王となす。 卑弥呼の登場。

青龍三年235年
青龍三年 銘方格規矩四神鏡 大田南五号墳 京都府峰山・弥栄町
青龍三年 銘方格規矩四神鏡 安満宮古墳 大阪府高槻市

景初三年239年 卑弥呼、難升米と都市牛利を遣わす。親魏倭王に任じられる。

景初三年 銘平縁神獣鏡 和泉黄金塚古墳 大阪府和泉市
景初三年 銘三角縁神獣鏡 神原神社古墳 島根県加茂町

景初四年 銘斜縁盤竜鏡 広峯一五墳 京都府福知山市
景初四年 銘斜縁盤竜鏡 伝持田古墳群 宮崎県西都市

正始元年240年 魏使が倭国に来て、卑弥呼に親魏倭王印や鏡などを与える。

正始元年 鏡の破片 桜井茶臼山古墳 奈良県桜井市
正始元年 銘三角縁神獣鏡 柴崎蟹沢古墳 群馬県高崎市
正始元年 銘三角縁神獣鏡 森尾古墳 兵庫県豊岡市
正始元年 銘三角縁神獣鏡 竹島御家老屋敷古墳 山口県新南陽市

卑弥呼の貰った鏡は魏の年号が刻まれていたのではないか。

魏の帝が倭国の王に「汝の好物」として与えた鏡には、製造の時、製造者、要旨、効用などめでたいい文は欠かせないもの。

 景初三年鏡の銘文は「景初三年陳是作鏡自有経述本是京師杜地命出吏人銘之位至三公母人銘之保子宜孫寿如金石兮」である。
 意味は、「景初三年、陳が自ら経述した鏡を作る。もとは京師(杜)の出、銘は位至三公の吏人、銘は母人、保子の孫、金印をもって祝う。」。保子の孫とは卑弥呼のこと。金印は親魏倭王印。

 魏の年号が刻まれた紀年銘鏡は現在10枚見つかっており、卑弥呼は景初三年の難升米と都市牛利の派遣の際、銅鏡百枚を貰っている。うち景初三年・景初四年・正始元年の4枚が見つかっている。

 卑弥呼が使者を派遣した記事の初出は3世紀の景初三年だが、2世紀後半には卑弥呼の倭女王就任はそれ以前に魏に通知されている。魏志に記載はないが、青龍三年鏡があるということは、この年にも使者の往復や鏡の下賜があったのだろう。

 青龍三年鏡は高槻市(摂津)の安満宮山古墳から出土している。また、景初三年鏡は出雲の神原神社古墳、和泉の黄金塚古墳から、日本海側と大阪との関連がかいま見える。

 景初四年・正始元年の鏡が山口県・宮崎県と関東の群馬県から出土している。前二県は倭国は日向王朝の流れを汲んでいることと矛盾しない。関東は、東海の狗奴国への牽制と理解。

日矛の足跡と三丹

丹後の竹野川西岸の京都府峰山・弥栄町の大田南5号墳から出土している。

福知山市の広峰15号墳から「景初四年鏡」が出土。

豊岡市の森尾古墳からは、「正始元年鏡」が出土。

れらの墳墓の場所を結ぶと、三角形になり、古丹波王国の主な領域だったと見なされている。墳墓は境に築かれるるとすれば、三角形を含む円が浮かぶ。

魏志倭人伝のあげている国の名の中に、田庭・丹波を思わせる地名は投馬が近い。

参考文献
記紀の考古学 森浩一
魏志倭人伝の考古学 佐原真





3.巻一第七段一書第二


 日神が天岩戸をあけたので、鏡をさし入れた。戸に触れて小さな傷がついた。伊勢にお祀りしている大神である。

巻五崇神天皇六〇年
 武日照命が天から持ってきた神宝を、出雲大神の宮に納めているのを、見たいとのことで、献上させた。
 その後、丹波の氷香戸辺が、子供の歌う歌を活目尊に伝えた。水草の中に沈んでいる玉のような石、見事な鏡 等々云々。
河内 美具久留御魂神社に祀られた。

巻六垂仁天皇三年
 新羅王子の天日槍が持ってきた神宝。羽太玉一箇。足高玉一箇。鵜鹿鹿赤石玉一箇。出石小刀一口。出石桙一枝。日鏡一面。熊神籬一具。あわせて七種。
一説には
葉細珠。足高珠。鵜鹿鹿赤石珠。出石刀子。出石槍。日鏡。熊神籬。膽狹淺大刀。并八物。

古事記 珠二貫。浪振る領巾。浪切る領巾。風振る領巾。奥津鏡。辺津鏡。あわせて八種。
但馬 出石神社に祀られた。


 但馬の国王 天日矛。五世孫の田道間守は垂仁の時代、日矛は孝霊の時代。神ではない。

三国史記 脱解王は多婆那国王と女国との間に生まれた。多婆那国は倭国の東北一千里にある。当時の倭国は孝霊の時代だから吉備であった。その東北50kmは但馬であり、多婆那国である。脱解王は新羅の第四代の国王、日矛の子孫が就任するのは不自然ではない。
日矛は、倭国の王権には関心を示していない。秦氏が勤勉な納税の民を率いたことにつながる。

瀬戸の切戸

瀬戸の切戸の浚渫
 西刀神社の由緒 
  仁徳天皇の御代(四五八年)円山川流域は黄沼前海と呼ばれ、沼地のような一大入江 であった。この時、海部直命(但馬五社絹巻神社の祭神)は、御子・西刀宿禰に命じ て瀬戸の水門を浚渫し、河水を海に流し、円山川の流域は蒼生安住の地になったと伝 えられております。

 地元では、日矛が行ったものとして語られている。

円山川沿いの兵主神社
 兵主神社[ひょうず]「速須佐之男命」兵庫県豊岡市赤石 河口 6km 標高52m
 兵主神社「速須佐男神」兵庫県豊岡市山本       河口12km 標高62m
 大生部兵主神社[おおうべ]「大己貴命」有力な論社。兵庫県豊岡市奥野 河口10km 標高51m
 久刀寸兵主神社[くとす]「素盞嗚尊、大己貴命」兵庫県豊岡市日高町  河口20km 標高54m
 最も低地の式内社 伊久刀神社[いくと]「瀬織津姫神、大直毘神」兵庫県豊岡市日高町赤崎 河口25km 標高28m

 円山川の瀬戸の浚渫以前の水位は、20m程度はあったものと推測できる。
 なお、円山川の勾配はゼロに近く、現在でも20km遡っても2m程度、ゆるい流れである。
 円山川の瀬戸の浚渫以前の水位は、20m程度はあったものと推測できる。

参考文献
『神功皇后と天日矛の伝承』宝賀寿男
『帰化人と古代国家』平野邦雄 以上

神奈備にようこそ