天照大神について その1



1.『日本書紀』での日神の言葉一覧

 
アマテラス 
 武烈天皇以前の神話伝承時代には、天照大神は多く登場している。後世に登場した神であることを自ずから示している。
 継体〜天智の期間にはアマテラスはゼロだが、伊勢には皇室に関連する何らかの神が祀られていそうだと言える。
 天武時代に天照大神が現れた。本格的登場と見ていい。



2.何故、伊勢か?
 雄略紀 皇女の稚足姫皇女を伊勢神宮の齊宮とした。上田正昭氏は雄略以降は信用できるとする。

 齊宮であった栲幡皇女が五十鈴川のほとりで死んだ。天皇は闇夜に探した。天皇はどこにいたのだろう。齊宮はどこだろう。

12年 伊勢の釆女が木匠の闘鶏の御田の働きを見て倒れた。
14年 漢織・呉織は飛鳥衣縫部・伊勢衣縫部の祖先となった。
17年 土師連に命じて朝夕の膳部に用いる器が、摂津・山城・伊勢から進上された。
18年 物部の兵士を遣わして伊勢の朝日郎を討った。
埼玉県稲荷山鉄剣 東国で獲加多支歯大王に仕えた被葬者がいる。
 
 雄略の時代、東国への王権の影響力が確立している。
 東国への窓口である伊勢の地は重要性を増してきた。
 雄略以降、齊宮はほぼ連続して伊勢に派遣されている。伊勢には何があったのか。

 単に 日神 であれば、日祀部にまかせればいい。皇祖神であるから齊宮を派遣したのだろう。
 雄略期に皇祖神は高皇産日神であり、平安時代でも宮中に祀られている八神の中には、高御産日神の名があるが、天照大神の名はない。
 天照大神を祭神とする延喜式内社で伊勢神宮関係と紀伊の日前国懸神宮には神階がない。ともに持統天皇が行幸している。



3.高皇産日神について
 『日本書紀』巻十五顕宗天皇三年
 春二月 月の神が人に憑いて、「わが祖高皇産霊は、天地を熔造った功がある。田地をわが月の神に奉れ。」と云われた。壱岐の県主の先祖がお祠りして仕えた。
 夏四月、日の神が人に憑いて、「倭の磐余の田を、わが祖高皇産霊に奉れ」と云われた。対馬の下県主直が、お祠りして仕えた。

 これから見ると、天地を熔造(鍛冶の神のイメージ)し、月の神・日の神の祖神でもある。また、天孫降臨の司令神でもある。

 『山城国風土記』には、天照高彌牟須比命と記されている。天照御魂神(みむすひ)とよく似た神である。



4.天武以降の伊勢
 『日本書紀』 での天武・持統期の記述量(
表の右側)は他の天皇達よりは多い目であるが、この二代で「伊勢」の文字が30個もでてくるのはいかにも目立つ。壬申の乱での伊勢の通過や持統天皇の二度の伊勢行幸があるが故であろう。


5.天武。持統朝の年表
671 大海人皇子(天武天皇)が鬢髪を削り、沙弥となった。僧形。
672 天武元年6月 天武は「高市皇子・大津皇子と伊勢で落ち合えるようにせよ。」と命令した。
*A  天武元年6月 朝、朝明郡の迹太川のほとりで、天照大神を望拝した。望に月、遠くを拝む。
      17日 夜雷雨になったので、「天地の神々に私を助けるのであれば雷雨をやめたまえ」と祈ったら、雷雨はやんだ。
  天武元年7月  大和で、高市県主許梅に、事代主神と生霊神が寄りついて「神武天皇の山稜に、馬や種々の武器を奉るのがよい」と託宣した。
  村屋神が、天武軍に味方をして敵の動きを教えた。
  天武元年7月 大津京陥落。大友皇子自死。
  天武元年9月 天皇は伊勢を経由して大和へ凱旋した。
673 天武2年2月 天武天皇即位。皇后には菟野皇女(ひめみこ)を立てた。草壁皇子の母である。
     夏4月 大来皇女を天照太神宮に遣わすべく、まず泊瀬の齊宮に住んだ。
    冬10月 大来皇女は泊瀬の齊宮から伊勢神宮に遷られた。 注:舒明〜天智の時代は齊王はなし。仏教受容の影響か。
  天武4年2月 十市皇女、阿閉皇女は伊勢神宮に詣でられた。
     19日 涅槃経にあるように、群臣・百寮および天下の人民は諸悪をしてはならぬ。
    冬10月 使いを各地に遣わして一切経を求めさせた。 お経を歴史的に分類したもの。
  天武5年4・7月 竜田の風神、広瀬の大忌神を祭った。
  天武5年10月 諸国に使いを遣わして、金光明経、仁王経を説かされた。仏教での国王のありかた。
  天武6年7月 竜田の風神、広瀬の大忌神を祭った。 毎年のことで以降は省略。
  天武6年8月 飛鳥寺で盛大な齊会をもうけ、一切経を読ませられた。   
  天武8年5月 吉野の会盟
  天武8年9月 この日、はじめて金光明経を宮中と諸寺で説かせはじめられた。
  天武10年2月 草壁皇子を皇太子とした。
      3月 帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大海氏(安曇系)の持つ神話伝承を多いに語って聞かせたのであろう。古事記の海人的神話に反映している。
   5月 皇祖の御魂を祭った。 歴代天皇の御魂。
  天武15年 朱鳥元年
   1月14日 難波の大蔵省から出火、宮室がことごとく焼けた。
   夏4月 多紀皇女、山背姫王、石川夫人を伊勢神宮へ遣わされた。
    7月 幣を紀伊国の国懸神、飛鳥の四社、住吉大社にたてまつられた。百人の僧を招いて、金光明経を宮中で読誦させた。
686  9月 天武崩御。
*B  大海宿禰菖蒲が壬生のことを誄したてまつった。幼年期のこと。
   10月 持統、大津皇子を殺す。
   11月 伊勢神宮の齊宮であった皇女大来皇女(大津皇子の姉)は任を解かれた。
持統3年1月 吉野宮に行幸。
持統4年4月 草壁皇子死去。孫の文武に天皇位を継がす決意をする。
    秋8月 百官が神祇官に集合し、天神地祇のことについて意見を述べあった。
持統5年8月 十八の氏に墓記を上進させた。
*C 持統6年2月 伊勢行幸を発表。三輪朝臣高市麻呂が諫めた。
   3月 三輪朝臣高市麻呂が再度諫めたが、強行した。
   5月 藤原京造営を、伊勢・大倭・住吉・紀伊の四ヵ所の大神に報告。
  閏5月 京師や機内で、金光明経を購説させられた。
伊勢神宮の神官が天皇に奏上し、「度会郡・多気郡の赤引糸の納付は来年減ら
したいと思います。」と言った。
  12月 新羅の調を、伊勢・住吉・紀伊・大倭・菟名足にたてまつった。
      この年、伊勢神宮の造営が完了。
   持統8年5月 金光明経百部を諸国に送り届け、毎月読誦するようにさせた。
694 持統8年12月 藤原宮に遷都。
   持統10年12月 勅して、金光明経を読ませるため、毎年浄行者十任を得度させる。
697 持統11年 二月軽王立太子。8月文武天皇に譲位。
   文武2年9月 當耆皇女(天武の皇女)を齊宮として伊勢神宮に仕えさせた。
*D 文武2年12月 多気大神宮を度会郡に遷した。
702 持統太上天皇死去。諡名は大倭根子天之広野日女尊であった。
729 日本書紀では、高天原広野姫天皇と改訂。


注釈 *A 伊勢の迹太川の辺から太海人皇子は天照大神を望拝。太陽そのものか伊勢大神とされる滝宮であろう。天武の心中には、親しんできた海部氏の祭る日神である天照御魂神や、歴史的に皇室が祭ってきた祖先神であり日神である、高皇産霊神と夜明けの太陽そのものが融合し、新しい皇祖神としての、「天照大神」なる神観念が芽生えたのであろう。
青年期からふれてきた金光明経が説く、「如来の光明と三千大世界を照らす」如来と太陽とが重なって見えたのではあるまいいか。そこに道教の西王母のイメージがはいり、天照大神の誕生であり、大日如来の出現である。

金光明経
国王が国王としての使命を受けるのは天の加護による。 父王の妃の胎内に入るのも神の加護である。国王の尊貴身分は神と異ならない。王権神授説。
王権は神から与えられるもので、それは万世一系に受け継がれていくものである。

*B 天武が幼年期を過ごした大海氏は安曇系の海人族であった。現在は住吉大社の摂社に大海神社が鎮座しているように、海人族との深い関係を保っていた。海人族の祀る神は天照御魂神であり、天武もが幼年期から天照御魂神を祈っていたのであろう。天照神であり、ムスヒの神である。
すなわち、天照高彌牟須比命(『山城国風土記』逸文)と異名同神と思われる。皇祖神である。
この神を祭ったのが日女であり、齊宮であり、天照大神の原形であったと思われる。
 
*C 三輪山の神よりも伊勢の神を優先する持統への抵抗を試みたが、無視されてしまった。
三輪山の天皇霊や日神のよりしろの神鏡などを伊勢に持ち出した可能性もある。

*D 天照大神を祭神とした神宮の創祀である。
多気大神宮を伊勢祠や伊勢大神とする解釈は、筑紫申真氏『アマテラスの誕生』に述べられている。立地は宮川の上流で、大和から伊勢への道筋にあり、また紀伊熊野への分岐点でもある。


6.持統天皇
 この天皇の時代には齊宮が置かれていない。天照大神は大和にいるとの認識だったのだろう。自分自身か。
 この時代、アマテラスのイメージが形成されつつあり、これに持統のイメージが被さった。
 持統ー草壁ー文武(孫)     元明ー元正ー聖武(孫)
    ↓     ↓
天照大神ー天忍穂耳ー瓊々杵
天孫降臨神話に、天照大神ー天忍穂耳を割り込ませた。


 文武天皇の宣命(抄)
   高天原にはじまり、遠い先祖の天皇の御暦代から中頃・近年に至るまで、天皇の皇子がお生うまれになるままに、相次いで大八嶋国をお治めになる順序ということで、天つ神の御子として、天においでになる神のお授けになるとおりに、執り行ってきたこの手つ日嗣・高御座の業であると、現つ御神として大八嶋国をお治めになる倭根子天皇が、朕にお授けになり、・・・

倭根子天皇とは持統天皇のこと、天照大神から委任された王権を、文武天皇にゆだねるのは、天照大神として行っているように見える。まさに、高天原広野姫天皇であり、天照大神である。



7.余談
万葉集
藤原の宮に天の下しろしめしし天皇の代 ー持統天皇ー
天皇のみよみませる御製歌(おほみうた)
0028 春過ぎて夏来るらし白布(しろたへ)の衣乾したり天の香具山

高天原にある山として唯一でてくるのは天の香具山である。持統はこの山を愛したのであろう。
面白いのは、天の香具山の真東に伊勢内宮が鎮座していること。





滝原宮

主な神社の神域 万平方米
春日大社 250
伊勢内宮 93
  外宮 89
滝原宮 44
鹿島神宮 74

参考文献
『アマテラス』斉藤英喜
『伊勢神宮と天皇の謎』武澤秀一
『伊勢神宮』千田稔
『アマテラスの誕生』溝口睦子
『伊勢神宮の成立』田村園澄
『アマテラスの誕生』筑紫申真

神奈備にようこそ