Uga 乙巳の変と有間皇子謀反事件


舒明3 631 舒明天皇、有馬温泉に86日間滞在、孝徳天皇もよく来たそうだ。有間皇子もこの地ゆかりの者に育てられた可能性がある。


舒明13年 641 舒明崩御、皇后であった皇極が即位。この時、皇位を嗣ぐ成人の皇子は山背大兄王以外にはいなかった。皇極の弟の軽皇子がいたが、埒外と見なされていた。蘇我氏は一族の法提郎媛の生んだ古人大兄皇子の即位を期待しており、山背王の即位は見送られた。先の天皇の皇后の宝皇女が即位することになった。彼女は息子の中大兄皇子(16)に位を譲るための即位である。


皇極2年 643 山背大兄皇子が殺された。
 皇極女帝としては、山背王の存在はうとましく思え、排除したかった、
 『上宮聖徳法王帝説』によれば、蘇我入鹿が 諸王子や軽皇子、巨勢コ太古臣、大臣大伴馬甘連公 中臣鹽屋枚夫等六人を味方にして行った。
巨勢コ太古臣は後に孝徳政権の左大臣に任じられる。
中臣鹽屋枚夫は孝徳天皇の皇子の有間皇子の側近となる鹽屋連魚と関連がある。


皇極4年 645 乙巳の変 蘇我入鹿・蝦夷死去 皇極退位、孝徳即位。
 『紀』中大兄皇子(19)と藤原鎌足の仕業とするが、皇極天皇退位の後を孝徳天皇(軽皇子、皇極の弟)が襲っているので、首謀者は孝徳とするのが順当。中大兄皇子は葛城皇子とも言い、蘇我氏一門で育てられており、皇極天皇の嫡男であり、皇位を狙っての入鹿殺害の理由はない。


孝徳元年 645  左大臣 阿倍内麻呂臣、右大臣 蘇我蘇我山田石川麻呂、皇后には舒明の娘(皇極の娘、中大兄の妹)の間人皇女とした。19歳の 中大兄を皇太子にはしていないと思う。まだ5歳だが孝徳には有間皇子がいる。
 古人大兄皇子(舒明と蘇我法提郎媛の皇子)反乱を企てたとして吉野で殺された


孝徳2年 646 大化の改新の詔。難波遷都。獄中の囚人(この中に塩屋魚がいる)の解放を命じている。。


孝徳9年 653 『紀』には、中大兄皇子らがそろって飛鳥に去ったように書いてあるが、実際に天皇を残して百官がその場を離れることは考えにくい。中大兄皇子を悪く書こうとする『紀』の編纂者の恣意がうかがえる。
特に間人皇后について、孝徳の和歌をのせている。
鉗(カナキ)着け 吾が飼ふ駒(コマ)は 引き出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか
(訳)鉗という逃げないように首にはめる木を付けて飼っていた馬。大事にしていたから、厩舎から引いて出しもしないとに、私が飼っている馬を、他人が見つけて奪っていった。
 間人皇后と中大兄皇子は同母兄妹である。これへの不倫が疑われている。中大兄皇子の即位(668)は間人皇女(665没)の存命中には行われていない。暗殺説があっても不思議ではない。


孝徳11年 655 孝徳天皇崩御。前皇極天皇 重祚し 斉明天皇。中大兄皇子は皇太子の扱いになった。有間皇子16歳。
 孝徳派は、斉明治世の評判の悪さをほくそえんで、斉明崩御まで有間皇子を中心に結束を固めて行こうということ。有間皇子の母方の阿倍氏には、蝦夷攻略の水軍指揮官・阿倍比羅夫がおり、いざという時には味方をしてくれるとの思いもあった。


斉明3年  657 有間皇子、狂人を装って牟婁湯(白浜)に行く。
 有間皇子は塩屋(御坊市塩屋)の豪族(塩屋連魚の実家か)と接触、万が一の際の協力を求めたものと思われる。
 熊野地方にも有間地名(花窟神社)があり、熊野水軍とも接触していたかも知れない。有間皇子は海人族との交流が考えられる。


斉明4年 658  有間皇子、塩屋連魚らと王権転覆の相談をする。転覆の案が良く出来ているが、皇子年若く徳を積んでいないと時機尚早の意見もでた。  
 有間皇子の存在については、中大兄皇子は自分のライバルではなく、生まれた大友皇子(8歳年下)の即位の妨げになると考えはあったかも知れない。
 有間皇子が牟婁湯を褒めたのを斉明天尾が聞き、斉明や中大兄皇太子ら王権一行が牟婁の湯に行幸した。飛鳥の留守役は蘇我赤兄である。赤兄が有間皇子に、斉明天皇の治世について、三つの失政をあげて批判した。後日、有馬皇子は赤兄を訪れ、王権打倒の構想を述べた。『紀』によれば、飛鳥の大宮(板蓋宮)を焼、500人の兵士を牟婁津にむかえ討ち、急ぎ舟軍で淡路国を遮れば、斉明天皇らを牢にいれたようになり、計画は成功するだろうと言ったとある。その夜、赤兄の指示で、物部朴井連の軍が有間皇子の家を囲み、一同は牟婁に護送された。
 
 さて、斉明天皇らが信頼して都の留守役においた蘇我赤兄が斉明政治を批判したのを聞いて、有間側は謀反の意向を漏らしたとすれば、まったくお粗末な話で、歴史上に有間皇子の悲劇として伝承されるだろうか、これは単なる阿呆の行動で、喜劇にもならない。
 留守役としては、かねてからの有間皇子の行動を探り、使用人の中にスパイを送り込む等で、謀反の相談をしていることを把握しての逮捕だったのだろう。


斉明4年 658 有間皇子処刑(絞殺)される。
 11月5日夜 逮捕
 11月9日  牟婁に到着。取り調べは拷問がつきもの。この頃の法制度は古代慣習法と律令思想とが混ざった状態であった。拷問もルールもあった。長さ3尺5寸 太さ3分2厘  結構太い棒で、背・腿・臀 を順に撃つ。何回か撃てば休憩を与える。皇子にも行われたかもしれない。連行された中に舎人新田部米麻呂がおり、相当厳しい拷問による訊問が行われたのではないか。裁判にかけるためにはしっかりした証拠が必要であり、拷問での調書は十分な証拠とされた。白浜温泉湯崎に御幸芝(みゆきのしば)と呼ばれる見晴らしのいい場所があり、地元では斉明天皇の行宮の場所と信じられている。
処罰は皇族には「自殺」の強要が基本 『獄官令』によれば、刑が確定した者には、囚人は刑執行の当日、手枷、首枷をかけられて刑場に引き出される。11月11日の朝、囚人となった皇子らは岩代付近まで行った所で、午後3時になり、岩代の市で、刑の執行が行われたと考えられる。皇族には「自殺」の強要が基本だが、絞首刑に処せられている。JR白浜―岩代 24km
江戸時代に書かれた『熊野参詣記』には、有間皇子を祀る小祠が北側の切目にあったとの記録がある。
海南市の藤白坂には距離的に無理。JR白浜―海南 95km
 塩屋連魚が斬刑される前に「願わくば右手で国の宝物を作らせてくれ。」という言葉を残している。これは、左大臣として有間天皇を補佐したいと言う意味かと思うがいかがでしょうか。塩屋連魚は切られたが、恐らくは御坊市塩屋の人々が皇子の遺体とともに引き取り、埋葬したものと思われる。御坊市塩屋の北側の御坊市岩内に岩内古墳群があり、恐らくは塩屋連の代々の墓だろうと、森浩一が書いている。岩内一号墳は紀伊では唯一に近い終末期古墳で、巨石で横穴式石室を持ち、紀伊唯一の漆塗りの木棺を納めている。銅製の太刀も被葬者が皇族であることを示しており、おそらくは有間皇子の墓との思いに駆られたと森浩一は書いている。


参考書
『敗者の古代史』森浩一 中経の文庫
『有間皇子の研究』三間重敏 和泉書院
『偽りの大化の改新』中村修也 講談社現代新書

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