uga淡路の古代 国生み神話の地



 『古事記』 ここに天つ神、諸の命もちて、伊邪那岐命・伊邪那美命二柱の神に、「このただよへる国を修め理り固め成せ。」と詔て、天の沼矛を賜ひて、言依さしたまひき。

伊邪那岐は伊弉諾、伊射奈岐、伊邪諾、伊佐奈岐などの名で祀られている。イザナ、イサナである。イザナウは誘う、イサナは鯨と思われる。

『紀一書第二』の系図。 国常立尊ー天鏡尊ー天万尊ー沫蕩尊ー伊弉諾尊 イザナキの前はアワナギである。これから見ると、イザ+ナキ と見ることもできる。誘う蛇。



 2 かれ、二柱の神、天の浮橋に立たして、その沼矛を指し下ろして画きたまへば、塩こをろこをろに画き鳴して引き上げたまふ時、その矛の末より垂り落つる塩、累なり積もりて島と成りき。これ淤能碁呂島なり。

 『丹後国風土記』(逸文)によれば、天の橋立とはイザナキ命が天に通う梯子であったが、眠っている間に倒れてしまったものと言う。天の浮き橋だったのかも。阿波國美馬郡に天椅立神社が鎮座。

ポリネシアでは、槍で大魚をつきさして持ち上げて島とする話がある、出雲の国引き神話では、国土をモリで突き刺して、引いて来る。矛(槍)やモリは漁民の道具。

海水を濃縮して塩を結晶させる。この時、まさに凝縮寸前にはコオロコオロと音を立てるようだ。塩は器の中で一瞬、勾玉の形をなすと言う。交野の陶芸家吉向蕃斎先生の体験談を聞いたことがある。

おのごろ島を塩が固まった島とするのは、塩の浄化作用が必要で、国生みという神聖な行いの為。
自凝島神社は淡路島の榎列と淡路の南の沼島に鎮座している。沼島をオノゴロ島とする説がある。
また、榎列の神社は地域では高台に鎮座しており、周辺が水没しても陸地であったから、該当地と見られ、神社が創建されたようだ。

 松前健氏は由良の門の東側の友ヶ島をオノゴロ島としている。西側の沖の島には、おそらく修験以前から深蛇池や蛇谷と言う地名があったと推測され、これがイザナキのナギの蛇を表しているとされている。確かに、製塩土器も出土しており、今は地続きの神島に淡島神社が鎮座していたので後述の淡島の候補と言える。淡路島を生むのだから淡路島でないのが理にかなう。
修験 葛城二十八品の序品がこの島にある。



 (中略)
3 伊邪那美命先に「あなにやし、えをとこを」と言ひ、後に伊邪那岐命、「あなにやし、えをとめを」と言ひ各言ひ竟へし後、その妹に告げて、「女人先に言へるは良からず」と曰りたまひき。然れども、くみどに興して子、水蛭子を生みき。この子は葦船に入れて流し去てき。次に淡島を生みき。こも、子の例には入らず。。


女神が先に声をかけたのは、母系社会の名残とも考えられる。記紀作成の頃は儒教思想が入っていた。
ミヤオ族の神話「伏羲・女媧が大木を回って出会って結婚し、最初に生まれたのは 目も口もないノッペラボウの子で、これを切り刻むと人間になった。」。 日本神話はいつの間にか人間が現れているが、ヒルコがどこかに流れ着いて人間になったと考えられないか。
ヒルコと共にヒルメが生まれたのかもしれない。日本のアダムとイブになったのかも。



 (中略)
4 ここに伊邪那岐命、先に、「あなにやし、えをとめを」と言ひ、後に、妹伊邪那美命「あなにやし、えをとこを」と言ひき。かく言ひ竟へて、御合して生みし子は、淡路之穂之狭別島。

 淡路之穂之狭別島 の意味は不詳とされているが、稲穂の形の島がチョット分かれているようなイメージ゙が感じられる。

 現在の海水面を7m高くしてみると西の湊(松帆)と東の洲本港の間は海水と河川、溜め池を繋ぐと、東西が航海が出来る水路が見えてくる。

 西側は松帆の港から三原川が委文 榎列を通り、溜め池の多い養宜地区に流れている。
東側は、洲本川が洲本港から淡路のほぼ中央部まで流れて溜め池の多い地帯までいる。
この溜め池をつなぎ、舟を通したのではないか。標高約50mまでの登りになる。

明石と鳴門の両海峡を押さえられても、淡路の中央を抜けて航海できるのが淡路海人である。


水面を7m上げてみた淡路島の地図


水面を50m上げてみた淡路島の地図


運河沿いの地名について 式内社 淡路13座中5座。
     洲本         築狹神社
和名抄 津名郡 物部郷
津名郡 賀茂郷       賀茂神社
津名郡 広田郷
三原郡 養宜郷       笑原神社
三原郡 幡多郷                淡路屯倉
三原郡 榎列郷       大和國魂神社
三原郡 委文郷                船越地名
三原湊            湊口神社    淡路瑞井宮 反正天皇誕生 和知都美の宮



 5 『仁徳記』 ここに天皇、その黒日売に恋ひたまひて、大后を欺きて曰りたまはく、「淡道島を見むと欲ふ」とのりたまひて幸行しし時、淡道島に坐して遥に望けて歌曰ひたまはく
おしてるや 難波の崎よ 出で立ちて わが国見れば 淡島 淤能碁呂島 檳榔の島も見ゆ さけつ島見ゆ   とうたひたまひき。

 この歌に登場する島々を一度に見るように解すると、都合のいい場所は諭鶴羽山や分水嶺の養宣上だろう。
仁徳天皇は洲本港付近から東を見ると、友ケ島が見える。淡島と淤能碁呂島が見える。
運河を通り抜けて松帆湊に出ると、まず眼前に小豆島が見える。現在はオリーブの産地だが、オリーブが育つ場所には檳榔(ビンロウ)が育つと言う。さけつ島とは三つに分かれている家島群島と見ていいのだろう。

 嫉妬深い大后石之比売は仁徳が明石海峡か鳴門海峡を通って吉備に行くのではないかと家人を差し向けて舟を見晴らせたが、仁徳は洲本港に入ったのを見届け、きちっと淡路島に上陸し、海峡を通り抜けていないと報告を受けた。仁徳はまんまと大后を騙したのである。



 6 『記 国作り』大穴牟遅と少名毘古那と二柱の神相並ばして、この国を作り堅めたまひき
国土を創世した神話としては、民間に流布していたのは、オオナムチ・スクナヒコナのコンビの活躍だったと思われる。この創世神話では、皇室がこの国を統治する正当性が見あたらない。大国主に国譲りを強制する根拠がなくなってしまう。
 淡路の海人が伝えていたイザナキ・イザナミの島生み、神生みの神話を、天武帝は取り入れたのである。
 東南アジアの兄妹始祖型洪水神話が海人によって伝えられたのであろう。死んだ妻を黄泉の国に迎えに行く神話も世界中に分布している。

黄泉の国  イザナキ神話とギリシャ神話の比較
イザナキ・イザナミ神話

妻イザナミ火の神を生んで死ぬ。
夫イザナキ、地に伏し取りすがって泣く。
妻を取り戻すため一人で冥界に行く。
イザナキ、ともに帰ろうと呼びかける。
妻ヨモツヘグヒをしてまったと残念がる。
黄泉の神ヨモツカミと相談すると言う。
その間、死んだ妻の姿を見ることが禁止される。
連れ戻しがうまくいくように見える。
待つ間が長いので、禁を破り、火を灯して見る。
連れて帰ることに失敗する。
イザナキは一人で地上に帰る。
ギリシャ オルペウス・エウリュディケー神話

妻エウリュディケー、毒蛇に咬まれて死ぬ。
夫オルペウス、取りすがって泣く。
妻を取り戻すため一人で冥界に行く。
オルペウス、妻を恋い慕って歌を唄う。
冥界の女王が、死者の食物ザクロを食べたため帰れないと話す。
冥界の王ハーディースは聞き届ける。
妻を連れだすとき、振り返って見てはならぬと禁止される。
連れ戻しがうまくいくように見える。
背後に妻の気配がないので、禁を破り、振り返って見る。
連れて帰ることに失敗する。
オルペウスは一人で地上に帰る。

この二つの神話は偶然に似ている訳ではない。ギリシャから何らかの形で日本にまで伝わって来たのであろう。
 大陸の南朝の梁の『述異記』に「昔、盤古氏の死するや、頭は四岳となり、目は日月となり、脂膏は江海となり、毛髪は草木となる。」とあり、目から月日が生じる神話も伝来していた。皇祖神が日神である天照大神であり、イザナキの後継者であることが、皇室に次ごうが良い神話であった。
 日本神話の中には、他にも天照大神の岩戸隠れや天孫降臨神話に大陸によく似た伝承がある。

 おそらくは、多くの神話が語られ、また語り部によって中身が少しづつ異なっており、記紀編纂局は取捨選択におおわらわだったのかも。創作でっち上げの暇はあったのか。



 7 『三代実録』貞観元年(859) 無品勲八等伊邪那岐命一品。

奈良時代には伊邪那岐命は国生みの神で天照大神の親神であったにもかかわらず、淡路伊弉諾神宮は無冠のままである。平安中期の延喜式の宮中の神 三六座にもはいらない。
 皇祖神を天照大神とし、イザナキ。イザナミによる国生み神話などは、『紀』に急遽採用されたもので、多くの貴族や豪族への浸透がなかなか進まなかったのだろう。



 8 第三代安寧天皇の皇子の和知都美命は、淡道の御井宮に坐しき。この王の女に意富夜麻登久邇阿札比売ありき。孝霊天皇が娶して、夜麻登登母母曽毘売命を生みき。

邪馬台国の女王卑弥呼の生みの親を、ヤマト国を出現させた比売と称号を捧げたのではないか。
 淡路島は、日本の最初の土地であったとの根強い想いが国民の間に残っていたのだろう。

以上


参考 『古事記神話の謎を解く』西條勉 『歪められた日本神話』萩野貞樹 『神話の系譜』大林太良


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