Uga『日本書紀』に見る 冊封(皇帝の、臣となり方物を献上し、元号と暦を使う) 朝貢(皇帝に拝謁し、献上品を奉る) 進調(献上品を奉る) の 歴史

                          
1.『日本書紀』には、任那、三韓、西蕃、呉國、海表諸蕃、蝦夷、加羅、耽羅 からの貢物が届けられています。

2.一方、倭国、日本国が貢物を差し出した記事は書かれていません。引用文で次の二つがあります。
『紀』神功皇后摂政四三年(243)『魏志倭人伝』正始四年、倭王はまた使者の大夫伊聲者掖耶約ら八人を遣わし、献上品を届けた。
 『宋書』倭の5王が冊封を求めて遣いを出しているが、『紀』には触れられていない。

3.600年に遣隋使が出ていますが、『紀』には記載がありません。この時は、倭王は、姓は阿毎、字は多利思北孤、阿輩?弥(おおきみ)と号していると報告しています。この時から朝貢を続けていたのでしょう。しかし、この名乗りからは冊封は受けていないと推定できます。

4.第二回遣隋使は、607年、「日出処天子致処日没処天子無恙云々」随の煬帝と倭国の大王は対等であるとの思いの宣言と思われる。冊封は受けないという事である。なお、友好関係の為の相当な手土産を差し出したのを、随側は朝貢と受け取ったのだろう。

5.『紀』推古天皇十六年(608)唐の客を朝廷に召して使いの旨を奏させた。大唐の国の信物を庭に置いた。時に使いの裴世清、自ら書を持って使いの旨を言上した。「倭皇は深き心は至れる誠ありて、遠く朝貢することを脩つということを知りぬ。丹款なる美を、朕、嘉することあり。」 随の煬帝が、朝貢を絶やさなかったこと、喜んでいると言っています。

斉明天皇七年(661) 斉明天皇崩御。

天智天皇二年(663)白村江の大敗。新羅と唐との同盟は破綻した。

唐の要人の来朝記録。
天智天皇三年(664)夏五月戊申朔甲子。百濟にいた鎭將の劉仁願が朝散大夫郭務?らを遣わして表函と献物をたてまつった。*2には、対馬に止め置かれたとされる。
天智天皇三年(664)十月戊寅 郭務?らを送り出す勅をお出しになった。鎌足は郭務?に品物を贈られた。四日、郭務?らを饗応された。
天智天皇三年(664)十二月乙酉 郭務?らは帰途についた。
郭務?は5月から12月と8ヶ月も滞在している。倭国を間接統治するためである。唐の冊封に組み入れる目的があった。唐としては、統治しやすいことも考えて、間人皇太后を擁立した可能性がある。敵対した天智・天武と言うことにはならない。

6.天智天皇四年(665)九月 唐が朝散大夫沂州司馬馬上柱國劉徳高らを遣わして来た。百濟將軍朝散大夫上柱國郭務?も来た。全部で二百五十四人であった。表函をたてまつった。
10月、饗応をされた。12月、帰路についた。

666年 唐の高宗は泰山封禅の儀式を行った。ペルシャを含め大国くにが参列したが、この中に白村江で大敗北の輪国の使者も混ざっていたとされる。

7.天智天皇七年(668)正月戊子 皇太子即天皇位。
天智が即位せず、所謂称制していたとされる。
天智は何故、すぐに即位しなかったのか。
 白村江大敗北の責任があるとはいえ、弟の大海人皇子を即位させる気はなかった。ここは、実妹の間人皇后(孝徳天皇の后)をとりあえず即位させておくのが妥当との判断。斉明重祚と同じ理由と思われる。

野中寺 弥勒像台座 の 刻文 666年 中宮天皇の病気平癒を祈願している同時代史料である。『紀』では、前年の665年に間人大后薨の記事がある。私は同時代史料を採用したい。
丙寅年四月大朔八日癸卯開記栢寺智識之等詣中宮天皇大御身労坐之時誓願之奉弥勒御像也友等人数一百十八是依六道四生人等此教可相之也


『紀』は、中宮天皇の在位に触れていないのか、天智称制で胡麻化したのか、これには倭国の歴史から抹殺したい不都合な真実を隠すためである。則ち、倭国は唐の冊封下に組み入れられたという事実に触れないためである。
冊封を受諾させられた天皇は中宮天皇(間人天皇)であり、そのような天皇はいなかったことにしようとしたのである。萬世一系の恥であるから。
 
天智天皇六年(667)二月 合葬天豐財重日足姫天皇與間人皇女。天皇であった間人皇太后の埋葬記事があるが、この頃、亡くなったのだろう。冊封を受け入れた天皇として、晋でいただいたのかも。
倭国の冊封からの離脱について、唐は半島情勢が忙しく、倭国にかまっている余裕がなかったのだろう。

8.天智天皇六年(六六七)三月 遷都于近江。
天智天皇七年(六六八)正月 皇太子即天皇位。
天智天皇八年 大唐遣郭務?ら二千餘人。下の記事と重複か?
天智天皇一〇年(六七一)正月 百濟鎭將劉仁願遣李守眞ら上表。
天智天皇一〇年(六七一)七月 唐人李守眞ら。百濟使人ら並罷歸。
 唐は李守真を派遣して倭が百済への出兵を要請して来た。七ヶ月も粘った。恐らくそれを拒絶したのであろう。だから下記の渡来があったのだろう。
天智天皇一〇年(六七一)十一月 唐國使人郭務?ら六百人。送使沙宅孫登ら一千四百人。合二千人。乘船册七隻。
天智天皇一〇年(六七一)十二月 天皇崩于近江宮。
 天武は唐からの冊封からの離脱と朝貢を行わない独立国 日本 を目指して、歴史書、日本紀の作成を命じた。 
 『扶桑略記』では、天智天皇が馬に乗って山科の里まで遠出したまま帰ってこず、後日履いていた沓だけが見つかった。 

9.天武の時代になると、唐からの使者は途絶える。遣唐使の記録もない。冊封態勢から脱却したものと思われる。飛鳥池遺跡出土の天武六年(678)銘の木簡から、「天皇」号が既に使用されている。国号も日本としていたようだ。天武は天文観測も行わして独自の暦を作ろうとしていた。681 帝紀および上古の諸事を記し校訂と律令の編纂を命じた。

                             以上
*1 『日本国の誕生』小松洋二 不知火書房
*2 『古代日中関係史』河上麻由子 中公新書

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