西暦 出来事 Uga Net 藤原氏と海 平22.4.25  神奈備

 始祖、鎌足 舟鎌:舟に絡まった藻をとる。不思議なことに鎌足には兄弟がいない。養子か?

春日大社で最も重要な神は鹿島神(武甕槌命)である。始祖鎌足の氏神。


常陸国風土記

筑波 紀の国。釆女臣と同族の筑箪命を国造とした。国の名を筑波と。釆女臣は物部。


信太 孝徳天皇の時、物部が信太郡を置く。普都大神が葦原中津国を平定、天に帰った。 普都大神は『古事記』に建御雷之男髪の亦の名、『紀』では経津主。


茨城 多臣の同族の黒坂命らが国巣の住処に茨薔(うばら)を仕掛けて殺した。


行方 建借間命が部下に杵島ぶりの歌曲を歌わして国栖の賊党をおびき出し殺した。


『肥前国風土記逸文』杵島で歌垣が行われる。軍神は五十猛命か。  
霰降る杵島。


香島 孝徳期、中臣氏が神郡として郡を置いた。神社の周囲に卜部。  霰降る香島。


香島の天の大神は荒ぶる神達の平定のため、降臨。崇神に我を祀れば、統治できる。


久慈 鎌足の封戸があった。静織(倭文)の里がある。また太田の里に長幡部の社がある。


風土記 古老の口からは武甕槌神の名は出ない。中臣氏が物部から盗み持ち込んだ神か。


養子 鎌足の子の貞慧は11歳で遣唐使、帰国後すぐ死ぬ。もらい受けた孝徳の寵妃の阿倍の子か。


不比等は天智天皇の御落胤(春日大社水谷川宮司談) 故に近江神宮建設は藤原氏に託す。


万葉95 吾(あ)はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり。  翌年不比等誕生。


不比等は養子とは便利なものと知った。情無用。だから直系子孫だけを「藤原」としたか。


 摂河泉の中臣氏 中央の政治とはほど遠い存在で、小地域を司る連姓豪族だった。


継体天皇の育った越前、妃の多い近江坂田、濃密に中臣氏が分布。欽明朝で中臣連となる。


推古・舒明朝には中臣御食子、弟の国子が大夫(まえつきみ)になる。


摂津 津島朝臣(豊中) 椋垣(能勢) 荒城(伊丹) 中臣東連(住吉) 神奴(西宮)
中臣藍連・中臣大田(茨木) 生田連(神戸)   継体の古墳がある。


河内 菅生朝臣(堺) 中臣連・平岡連(枚岡神社) 中臣酒屋連(松原) 村山連(狭山) 
中臣高良比連 川跨連(東大阪)


和泉 宮処朝臣(日根野) 狭山連(狭山) 和太連(堺市鴨谷台) 志斐連 蜂田連(堺市八田寺町)
殿来連(高石) 大鳥連(大鳥大社) 中臣部 民直 畝尾連


大和 大家臣 添県主 中臣 は 二氏


中臣氏 物部の恩地神社の祭礼に中臣の枚岡神社神主が留守を勤める。中臣氏は物部の配下。
沢山の中臣氏がいる。卜部氏、多氏、那珂津臣、安曇氏、物部氏などの系統があるのでは。
恩智神社の古伝。鹿島神は常陸から恩智に、その後枚岡に、次ぎに春日大社に祀られる。

 聖武天皇の母である藤原宮子と道成寺

伝承
神功皇后が九人の海士を御坊市八幡山麓に残した。かれらが観音像を海中から得た。
宮子は九人兄弟の末妹の海人で、髪が長かった。雀が髪を加えて皇居に巣を作った。
その者を探せと云うことになり、九海士の里で娘を発見、京へ召した。
皇后になってから雨が降ると宮子は涙を流す。理由は海から得た観音像が濡れていると。
その観音像を祀るべく、紀道成に命じて七堂伽藍を建設。材木運搬中に道成おぼれ死ぬ。


紀伊国 日高郡 紀道神社 楠木を道成寺建築材にしようと運ぶ途中、岩に当たり薨去。
道成寺 文武天皇の勅願により、義淵僧正を開山として、紀道成が建立したという。



679 白鳳 8 宮子誕生 父を早鷹、母を渚とし、漁師であった。
一説には貴人荒海氏重勝が流浪、この地の海人の娘を娶り、その子とする。


697 持統11 宮子、藤原不比等、賀茂比売の養女となる。賀茂一族の処遇に変化はない。


文武 1 持統退位、文武即位。
紀竈門の娘、妃となる。宮子、夫人となる。不比等の娘が格下の夫人とは!


701 大宝 1 宮子、首(おびと)皇子(後の聖武天皇)を産む。宮子、憂愁を患う。37年間。
   文武天皇、紀伊国へ行幸。勅願にて道成寺を建立。


1988 道成寺発掘 奈良時代の建立 回廊が二重、朝廷と関連の深い寺院 文武勅願寺の伝承。 出土した瓦の年代から8世紀初頭には寺院が存在した。千手観音像も奈良時代。


737 天平 9 玄ム、宮子の憂愁を治す。宮子(59歳)と聖武天皇(37歳)、誕生後初めての母子の対面。

 藤原氏の戦略 外戚の立場を築き、守る。律令による官僚の貴族化。国史で中臣氏を称える。


皇后

697 持統11 不比等に適当な娘がいない。宮子を養女にし、文武の夫人とする。不比等右大臣に。
707 慶雲 4 文武死去。文武、不比等に幼い首皇子の行く末。文武の母の元明元正のリリーフ。


国史

714 和銅 7 紀清人らに国史撰集を命じる。618修史事業を開始。


外戚

716 霊亀 2 光明子、首皇子の妃となる。


律令

718 養老 2 不比等ら、養老律令選定を開始。
720 養老 4 不比等死す。四兄弟。武智麻呂(南)、房前(北家)、宇合(式家)、麻呂(京家)
7
21 養老 5 長屋王右大臣(壬申の乱の将軍の高市皇子の皇子)に。藤原房前内臣に。
724 神亀 1 首皇子即位し聖武天皇。長屋王は左大臣に。


占占

727 神亀 4 聖武と光明子との間の皇子誕生 33日目に皇太子に 一年で夭折 落落
728 神亀 5 安積親王(聖武と県犬養広刀自)誕生 藤原のピンチ。


皇后

729 天平 1 光明子の皇后就任に長屋王が立ちはだかる。皇族ではない。仁徳の磐之媛。


謀略

長屋王の陰謀事件、王、妃、皇子ら、自殺。光明子、皇后になる。IK南西に祠。
大伴子虫と中臣宮処東人が碁を打っていた。雑談中に東人が
長屋王を誣告したと言った。子虫は長屋王に仕えていて恩義が
あった。子虫は東人を斬り殺した。


藤原四子政権の発足。


737 天平 9 天然痘流行、四兄弟死す。光明皇后が実質日本の指導者としてがんばった。


露骨

738 天平10 聖武・光明子の皇女である阿倍内親王の立太子。安積親王をはずす。


叛乱

740 天平12 宇合の子の広嗣、太宰府から聖武へ上表文、吉備真備・玄ムの排斥を求めて決起。
広嗣1万騎、朝廷六千騎が板櫃川を挟んで対峙。広嗣に従う隼人
に逆賊広嗣に従うと家族にも罪が及ぶと呼びかけると矢を射なくなった。
広嗣は済州島に逃れようとすたが逆風に押し戻され、値嘉島で処刑。


暗殺

744 天平16 安積親王(聖武と県犬養広刀自)死去。
747 天平19 南家の武智麻呂の子の仲麻呂、参議になる。
749 勝宝 1 仲麻呂、光明皇后の後ろ盾で大納言になる。孝謙天皇の即位。


密告

757 宝字 1 橘諸兄の子の橘奈良麻呂(母は不比等の娘)仲麻呂打倒のクーデター発覚。
奈良麻呂は仲麻呂を倒そうと皇子達もさそってクーデターを企てた。
元の皇太子である道祖王らは獄で杖で撲殺された。杖の刑は
律令では60回から100回打つとされていたが、守られていない。


758 宝字 2 仲麻呂政権確立。淳仁天皇即位。仲麻呂は藤原恵美朝臣押勝の名を貰う。
760 宝字 4 光明皇太后没。仲麻呂、後ろ盾を失う。孝謙上皇、重しがとれる。
761 宝字 5 弓削道鏡が看病禅師となり、孝謙上皇に寵愛される。


密告

763 宝字 7 藤原宿奈麻呂ら藤原恵美押勝の暗殺を企てるも密告でばれる。


陰謀

764 宝字 8 恵美押勝、孝謙上皇・道鏡の失脚を狙うが、企ては孝謙側に洩れている。油断


暴発

鈴印(駅鈴、内印・外印)の争奪戦が起こり、押勝側が負ける。押勝謀反となる。
琵琶湖西岸の三尾岬で、藤原蔵下麻呂(宇合の子)の軍により殺される。
押勝の兄、藤原豊成が右大臣として復帰。


祭祀

768 慶雲 2 春日大社社殿建立 以前は東向きの祭祀、西の枚岡神を勧請し、南向きに。
836 承和 3 『続日本後紀』常陸国鹿島郡建御賀豆智命正二位    祭神名初出!
室町写本 『八幡大菩薩御縁起』磯良と申すは常陸国では鹿嶋大明神、大和では春日大明神

神奈備にようこそ