1.小舟の漂着譚 『今昔物語集』(平安末期)182「越後国にうち寄せられし小船の話」 今は昔、源行任(ゆきたふ)の朝臣と云ふ人の、越後守にてその国にありける時に、ある浜に、小船うち寄せられたりけり。広さ二尺五寸(約60cm)、深さ二寸(6cm)、長さ一丈(1.8m)ばかりなり。人これを見て、これはいかなりける物ぞ、たはぶれに人などの造りて海に投げ入れたるかと思ひて、よく見れば、その船のはた(横側)一尺ばかりを間(あひだ)にて楫(かじ)の跡あり。その跡、馴れくひたること限りなし。然れば見る人、現に人の乗りたりける船なりけりと見て、いかなりける少人の乗りたりける船にかあらむと思ひ て、あさましがる(びっくりする)事限りなし。 2.小人の発掘情報 藤塚貝塚 佐渡市真野町の南西のはずれにある。この貝塚は縄文中期末頃、4500年前位のものだと言われています。また出土する人骨からは 身長が低い短頭型の佐渡人の祖先も想像できます。 3.アイヌの伝承と呼称 千島アイヌは「クシ」、樺太アイヌは「クイ」「クエ」と呼ばれていた。越の国の「コシ」もその変化の一つであろう。 4.侏儒の文献伝承 『日本書紀』神武天皇即位前紀(前六六二)二月辛亥 高尾張邑有土蜘蛛。其爲人也身短而手足長。與侏儒相類。(高尾張邑に土蜘蛛がいて、其人の身丈は短く、手足が長かった。侏儒と似ていた。 『日本書紀』巻十六武烈天皇八年(丙戌五〇六)三月 大いに侏儒や俳優を集め、みだらな音楽を奏し、奇怪な遊び事をさせた。 『日本書紀』巻二九天武天皇四年(六七五)二月癸未 「管内の人民で歌の上手な男女、侏儒、伎人(俳優)を選んで奉れ。」と言われた。 『日本書紀』巻二九天武天皇十三年(六八四)正月丙午 丙午。天皇は東庭におでましになり、群卿もこれに侍した。そしてよく弓を射る者、および侏儒・左右の舍人たちを召して、射を行わせられた。 『続日本紀』巻一文武二年(六九八)四月壬辰 近江と紀伊の二國に疫病が流行った。醫藥を与えて治療した。侏儒である備前國の人の秦大兄が香登臣の姓(かばね)を賜った。 古代の日本には侏儒(小人)がおり、普通の存在だったようだ。また、東方には小人の国があると思われていた。そこから舟が流れ着いたこともあったようだ。 5.神話の中の小人 少彦名神 『古事記』神産巣日神の子となっている。大国主神が出雲の御大(ミホ)の御前にいる時、天の羅摩船(カガミブネ)に乗ってやってきた。大国主神と国造りに勤めた。 『日本書紀』出雲の熊野の岬、または粟島に行って、常世国に去った。『伯耆国風土記』少日子命が粟を蒔いてよく実った時、そこで粟に載って常世国に弾かれて渡った。『古事記』常世国に渡ったとのみ記述。 『日本書紀』神功皇后十三年、品太太子を敦賀にやって帰ってきた際の宴会での歌。 6.少彦名神とは 少彦名神は船に乗って、鵝(がちょう:大きすぎるので蛾(が)の間違いか:岩波文庫古事記注)の皮(記)ミソサザイ(紀)を衣料として、やって来た。鳥の羽を着て船に乗っている姿は、死者の霊魂を運ぶ船<天鳥舟>を連想させる。この観念は築後国浮羽郡の珍敷塚古墳の壁画や東南アジアの銅鼓に描かれている。小人の発掘事例は南九州や離島にもあり、一概には北方アイヌ系とは決めつけることはできない。 『記・紀』ともに出雲漂着となっている。南方から対馬海流にのってきた。カガミ舟は光っている舟。即ち、コクタンなどで出来た舟。羅摩はラマで古代ポリネシア語ではコクタン系の堅く光沢のある木の意。 参考 |