Uga 牛頭天王


1. 古文献のスサノヲ
 『日本書紀』 高天原を追われたスサノヲは息子の五十猛神(イタケルノカミ)を連れて、新羅国に降り、曾尸茂梨(ソシモリ)に辿り着きました。  韓国語でソシモリは、ソは牛、モリは頭、すなわち牛頭である。牛頭天王と素戔嗚尊が同一神格であることは『日本書紀』編纂の時代には知られていた。

韓国春川牛頭山に比定される古墳


 『備後国風土記』(逸文)「釈日本紀」昔、北の海にいましし武塔(むとう)の神、南の海の神の女子をよばひに出でまししに、日暮れぬ。その所に蘇民将来二人ありき。兄の蘇民将来は甚貧窮(いとまづ)しく、弟の将来は富饒みて、屋倉一百ありき。ここに、武塔の神、宿処を借りたまふに、惜しみて貸さず兄の蘇民将来惜し奉りき。すなはち、粟柄をもちて座(みまし)となし、粟飯等をもちて饗(あ)へ奉りき。ここに畢(を)へて出でまる後に、年を経て八柱の子を率て還り来て詔りたまひしく、「我、奉りし報答(むくい)せむ。汝(いまし)が子孫(うみのこ)その家にありや」と問ひ給ひき。蘇民将来答へて申ししく、「己が女子と斯の婦と侍り」と申しき。即ち詔たまひしく、「茅の輪をもちて、腰の上に着けしめよ」とのりたまひき。詔の隨(まにま)に着けしむるに、即夜(そのよ)に蘇民の女子一人を置きて、皆悉に殺し滅ぼしてき。即ち詔りたまひしく、「吾は速須佐雄(はやすさのを)の神なり。後の世に疾気(えやみ)あらば、汝、蘇民将来の子孫と云ひて、茅の輪を以ちて腰に着けたる人は免れなむ」と詔りたまひき。

 速須佐雄の表現は『古事記』に出てくる表現であり、鎌倉末期に平野神社系の卜部氏が朝廷の奥に秘蔵されていた『古事記』を目にすることはできなかったと思われる。この逸文には偽書説があるが、やはり奈良時代の風土記の逸文と思われる。武塔神はムーダンの事で占い師とされる。次の『古事記』の中で、須佐之男は琴を持っている。これは占いの道具であり、本文の武塔神が須佐之男であることを、ここでも裏付けています。

 『古事記』大穴牟遅神の根の国訪問
 その妻、須世理毘売を負ひて、すなはちその大神(須佐之男命)の生大刀(イクタチ)と生弓矢(イクユミヤ)と、またその天の詔琴(ノリゴト)を取り持ちて逃げ出でます時、その天の詔琴(ノリゴト)樹にふれて地(ツチ)動(トヨ)み鳴りき。

『伊呂波字類抄』(12世紀 最古の日本語辞書)に、牛頭天王の別名として武塔天神の名が現れる。牛頭天王は東王父、西王母を父母とし、天竺北方の九相国に城を持ち、8万4654の眷属神を従える異国神と説明されている。


2. 牛頭天王と祇園祭 
 異神(外国の神)である牛頭天王は天竺の祇園精舎の守護神である。祇園祭は天下に疫病の流行ることを防ぐため、異神である行疫神を祭り鎮める祭礼として始まった。(祇園社本縁録)
 貞観五年(863)の春に咳逆病が流行り、百姓が多くたおれ、 5月20日、朝廷は神泉苑で初めて国家的な御霊会を行いました。早良親王、伊予親王など六柱の御霊の霊座を設け、 経典の演述や、雅楽の演奏、稚児の舞などが奉納されました。 貞観十一(869)年の御霊会に祇園社の神輿が参列、疫病神の立場を明確にした。これ以来、祇園御霊会と呼ばれるようになりました。
 室町時代(1336年 ? 1573年)の『祇園社略記』によると、祭神は神家には素戔嗚尊、仏家には牛頭天王、暦家には、天道神と称していたという。
 明治維新で、神仏分離が行われた。
1.牛頭天王と相称し候神号は相除け。
1.熊野権現は熊野大神宮と唱え替へる可
1、山王権現は仏号に付き、・・・・日吉大明神と唱え替へる可
1.八王寺権現は、八王子(寺)大明神と唱え替へる可
1.若王寺、右同断
1.蔵王権現、地名等に相改め、何大明神・何の社と唱え替へる可 などのお触れがでました。
 牛頭天王については、テンノウと言えば牛頭天王を指すのが常識の時代でしたので、これを壊してしまい、テンノウとは明治天皇の事と知らしめる大きい目的がありました。
 祇園社は八坂神社と改称した。他の牛頭天王社はスサノヲ神社、八坂神社、津島神社などの改称しました。
 牛頭天王の名は表面から消えましたが、人々の記憶には長く残り、八坂神社の近所の方は今でも祭神を牛頭天王さんと言うようです。
 南紀の熊野三山の護符は牛王宝印と言いますが、これも牛頭天王の略です。江戸時代には誓紙として約束を固く守るという目的に使われました。


3.牛頭天王を祭神とした京都祇園社 
  『備後国風土記』が武塔の神を祭神とした疫隈国社は須佐能袁能神社として式内社であり、社伝では天武天皇の時代の創祀とされる古社である。

広島県徳山市新市町 素盞嗚神社


 延喜年間(927年)に完成した神名帳記載の3132社の中には須佐之男命を祭神とする神社は多いが、牛頭天王社という名の神社は一社もない。また牛頭天王の総社とされる八坂神社は延喜の頃には祇園感心院という寺院であり、神社ではなかった。  祇園感心院の創建については、その鎮座地を八坂郷と言い、6世紀半ばには、稲作の神として祀られていたという。斉明二年(656)、韓国の伊利之使主が再来した時、新羅の牛頭山の素戔嗚尊を祀った伝えている。このあたりの伝承は牛頭天王を祀る本家争いから創作されたものかも知れない。  
 八坂神社の社伝では、貞観十八年(876)南都の僧円如が建立、堂に薬師千手等の像を奉安、その年6月14日に天神(祇園神)が東山の麓、祇園林に垂跡したことに始まるともいう。
 この薬師堂を本堂とする観慶寺の一角に天神堂(八坂神社の元社)があり、全体が疾疫防除の神として信仰があった。全体が祇園社となっていったようである。  
京都市東山四条の八坂神社の楼門

なお、永保元年(1081年)の『二十二社式註式』では、元興年間(877−885)明石浦にあった牛頭天王が広峰へ遷り、そこから東光寺、それから祇園感神院へ遷ったとある。

 広峰は姫路市の北側の広峰山に鎮座する広峯神社のことである。伝承として、吉備真備  が広峯に泊また際の出来事である。ここに貴人出現し、私は古丹の家を追い出され、蘇民によって助けられた。浪人になってこの方、住むところを定めることができない。あなたと唐で約束したように追いかけてきた。そこで当山に祀ってほしい。これが、広峰社の牛頭天王の来歴である。(『峰相記』「みねあいき」とも読む。1巻。正平3=貞和4 (1348) 年頃成立。)
 広峯神社は八坂神社の分社だった時代がある。八坂から広峯へか、広峯から八坂へか、未だに結論は出ていないが、以下に挙げるように途中の神社の伝承は、全て広峯本家説である。
姫路市 広峯神社


 摂津国八部郡(神戸市兵庫区上祇園町)の祇園神社の由緒。『牛頭天王由来記』によれば、貞観十一年(869)播州広峰神社から京都八坂神社へ「牛頭天王」(素盞嗚尊)の分霊をうつす途中、その神輿がここに一泊したといわれている。
 摂津国西生郡 難波八坂神社では、「姫路の広峯神社より京都の八坂神社へ勧請する際、神々がこの地に到着されたのでお祀りをしていると。」との口伝が残っています。
 寝屋川市八坂町に鎮座の八坂神社には、「広峰神社の分霊を播州より勧請した。
 元祇園梛神社が京都市中京区壬生梛ノ宮町に鎮座。貞観十一年(876)京都に疫病が流行したとき、牛頭天王(素盞嗚尊)の神霊を播磨国広峰から勧請して鎮疫祭を行ったが、この時その御輿を梛の林中に置いて、祀ったことがこの神社の始まりであるという。
 京都市左京区岡崎東天王町に岡崎神社が鎮座、これは『二十二社註式』の北白川の東光寺の後裔社で、山城八坂に鎮座する前にも、都の中でウロウロしていたようです。

 広峯神社の方が本家と思われる。                     
                               以上
 参考文献
 『八坂神社』八坂神社編
 『荒ぶるスサノヲ七変化』斎藤英喜
 『中世京都と祇園祭』脇田晴子

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