Uga 奈良時代の藤原氏

1 不比等
   中臣鎌足の歌が万葉集にある。第2巻95番歌 我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり 天智天皇から妃の一人をもらい受けた。評判の美人だったのでしょう。鎌足の喜ぶさまは、「安見児得たり」を繰り返していることでも分かる。天智が鎌足に安見児を与える時には懐妊していたようで、生まれるの女児ならば返せ、男児ならばお前が育てろと言ったという。生まれたのは不比等である。
 鎌足には長男の定恵がいた。11才で遣唐使として留学している。生きて帰れるか不明の遣唐使にしている。長男への態度とは思いにくい。帰国後、すぐになくなっている。鎌足の子は娘ばかりであり、中大兄皇子が手を指し伸ばしたのかもしてない。
 今東光『毒舌日本史』によれば、不比等が天智天皇の子であることは、皇室でも伝承されていたようで、春日大社の水谷川元宮司が語っている。それゆえ、天智天皇を祀る近江神宮の創建を昭和天皇は藤原氏に命じたのである。後世の文献だが、さらに、『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』でもご落胤としている。
 藤原氏には天智天皇の血を受けているとの自負があったのであろう。これが中臣氏とことなる不比等の子孫の藤原姓の独占となる。


2 不比等から四兄弟へ
 元明天皇4年(和銅3 710)、遷都が行われた。不比等は右大臣として、最高権力者として辣腕をふるっていたのであろう。720 不比等死去。長屋王が最高権力者となった。
不比等には4人の男子がいた。
藤原武智麻呂 藤原南家の祖  豊成、仲麻呂
藤原房前  藤原北家の祖
藤原宇合 藤原式家の祖    広嗣、良継、百川
藤原麻呂 藤原京家の祖
光明子 聖武天皇の后
 光明子を聖武天皇の皇后にしようとしたが長屋王の反対にあった。皇族の女でなければならないとの立場である。仁徳天皇の皇后は磐之媛であり、皇族ではないとの論戦があった。長屋王は頑として譲らず、藤原四兄弟は長屋王に謀反の意図ありという密告をきっかけに729年、妻子とともに自殺に追い込んだ。(長屋王の変)。翌日、光明子は皇后になった。この密告も四兄弟のでっち上げであったことが後に明らかになった。
 四子政権時代には律令財政が確立された。 四兄弟は737年の天然痘の流行(天平の疫病大流行)により相次いで病死し、藤原四子政権は終焉を迎えた。その後、四兄弟の子が若かったため、政権は光明皇后(不比等の娘)の異父兄弟で臣籍降下した橘諸兄(葛城王)が右大臣として担うことになった。藤原豊成は参議として政権に参加している。


3 藤原広嗣の乱 739
 式家宇合の次男である。聖武天皇の広嗣評 広嗣は生来狂暴で長ずるに、ずる賢くなった。宇合は排除しようとしていたが。私(聖武)が取りなして、しばらく大宰府で落ち着かせようとしたが、残念なことになったと語ったとされる。
 740年、広嗣の上表文が聖武天皇に届く。災害が続くのは、政治が悪い。僧正玄ム・吉備真備の重用が原因だとし、二人の排斥を要求する内容であった。聖武天皇はこれを直ちに 反乱(国家転覆の実行)と認めた。大野東人を大将軍として17000人の兵士を招集した。広嗣の兵の主体は隼人であり、これの懐柔に畿内にいる隼人を派遣した。広嗣は親子二代で九州で仕事をしており、兵士を招集でき、12000の軍で応戦、朝廷側は迅速な動きで圧倒している。五島列島まで逃げたが、捉えられて処刑された。他の藤原氏が味方した話はない。後に、藤原式家の良継・百川は光仁天皇の擁立に力した。


4 藤原仲麻呂(恵美押勝)の乱 764
 758年、聖武天皇と光明皇后の皇女である孝謙天皇が退位、上皇になる。天武天皇の皇子の舎人親王の皇子の淳仁天皇が即位した。藤原仲麻呂の掌中の天皇である。仲麻呂は叔母の光明皇太后に気に入られ、政界での大きな後ろ盾となっていた。また孝謙天皇とも親密だった。
淳仁天皇のもと、仲麻呂は独自の政治を行う範囲を広げた。特筆すべきものとしては官名を唐風に変更させるといった「唐風政策」を推進し、自らも藤原恵美押勝(ふじわらえみのおしかつ)と名乗った。雑徭(労働の形態の租税)の削減や、庶民の苦しみを問うとして「問民苦使」を派遣するなど、比較的寛大な政策を行った。国家財政が厳しくなり、他の藤原氏や貴族の支持を失った。
 760年、光明皇太后が逝去した。孝謙上皇にとっては重しが取れたことになる。仲麻呂は後ろ盾を失い、権力に陰りが見え始めた。
 天皇の大権を象徴する鈴印(現代の御名御璽に相当)は光明皇太后から淳仁天皇に渡った。孝謙天皇・上皇には渡されたことがなかった。孝謙上皇には鈴印への思い入れが強く、自分が大事を司り、淳仁天皇には小事をと宣言までしているので、鈴印は是非持ちたいものである。
 孝謙の体調が思わしくなく、看病禅師の道鏡が看病に当たり、孝謙と道鏡は深い関係となった。これを淳仁天皇が再三注意した。仲麻呂の差し金と思われる。ここに孝謙・道鏡と淳仁・仲麻呂の間は険悪となってきた。
 764 畿内で、灌漑用の池を掘る作業のため、動員された民衆が 仲麻呂の追討に参加することになる。
 仲麻呂は国ごとに20人の兵を5日おきに訓練、仲麻呂の護衛兵となった。仲麻呂は20人を勝手に書き換えて増やした。
 仲麻呂は淳仁の兄の船親王と図って、孝謙の咎を書面で告発し、失脚の画策にはいったが、この動きは3か所から孝謙側に伝えられた。  先に仕掛けたのは孝謙側。9月11日、山村王を派遣、淳仁のもとにある鈴印の奪取を企てた。これに気づいた仲麻呂は子の訓儒麻呂に鈴印を奪いにやった。結果、鈴印を返却させた。これを知った孝謙は坂上苅田麻呂らを急行させた。鈴印をめぐる戦闘が始まったのである。坂上苅田麻呂は訓儒麻呂を射殺、鈴印は孝謙のもとに届けられた。
 鈴印は孝謙の手にはいった。勝てば官軍、仲麻呂の行為は謀反のレッテルを貼られることになった、態勢の立て直そうと子が国守を努める越前に向かったが、愛発関(あらちのせき)に先回りした孝謙側に行く手を阻まれ、追い詰められた仲麻呂は近江の高島で打ち取られた。孝謙側の作戦は吉備真備が当たった。


5 桓武擁立 藤原百川
 孝謙が重祚し称徳天皇となった。道鏡による皇位簒奪事件をおさえ、天智天皇の孫である光仁天皇を擁立した。光仁天皇は、聖武天皇の皇女である井上内親王を皇后に、他戸(おさべ)親王を皇太子に立てた。他戸親王は天智系の男子であるが、母方は天武系であり、もった純粋な天智系の皇統にしたいので、井上皇后と他戸皇太子を陰謀で葬って、卑母の皇子だが優秀な桓武天皇(山部王)を擁立することにした。
 不比等の孫の世代の反乱は、一つは抑え役であるべき叔父の四兄弟が死んでしまったこと、藤原氏は乙巳の変の成功でのし上がってきており、柳の下の二匹目の泥鰌を求めたのであろう。
                                        以上


参考 『平城京と木簡の世紀』渡辺晃弘  講談社  毒舌日本史 今東光 文春文庫


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