Uga 魔界と異界 坂将軍と悪路王





東国蝦夷征服の歴史年表

蝦夷とは、現在の東北地方の住人の先祖であり、倭人とアイヌ人が混在していた。

地続きにまつらわぬ者がいることの不愉快さ。金の産出地であることは王権には魅力的。

良馬、獣皮、鷹や鷲とその羽の産地であった。



年表

   景行25 武内宿禰を遣わして、北陸と東方の諸国の地形・人民の有り様を視察させた。

   
景行27 武内宿禰が東国から帰っての報告。「東国の田舎の中に日高見国があり、人は髪を椎の形に結い、体に入れ墨、勇敢。蝦夷と言う。土地が肥えていて広大。攻略すると良い。」

   
景行40 日本武尊を征夷将軍として派遣、蝦夷を平らげ、日高見国から常陸を経て尾張に帰った。

『陸奥国風土記』巻向の日代の宮に天の下を治めになった天皇の時、日本武尊が東の夷を征伐、八発の矢は八人の土蜘蛛を射抜き、許された子孫はそこに住んでいる。綾部と言う。

『常陸国風土記』 信太郡を置いた。此の地は本、日高見の国なり。



日高見国 大祓祝詞 大倭日高見国を安国と定め奉りて・・ヤマト国と陸奥を言うか。

ヒナ説 辺鄙な所 鄙(ヒナ) 東(あづま)の奥 ひな→ひなかみ。また 日高見→信太。

日下説 日の地名の東への移動。草香(日下) 草川(桜井市) 檜原神社(原はモト)→・・→日立(常陸)、日上 日高見。

最終的に、日高見は北上川流域の地。陸奥国桃生郡に延喜式内社、日高見神社が鎮座。



4世紀後半 会津大塚山古墳 90m前方後円墳 三角縁神獣鏡、鉄剣、勾玉、管玉 などが出土。 三輪王権との関連がありそう。


   
応神3 東の蝦夷がみな朝貢してきた。その蝦夷を使って厩坂道を造らした。

   
仁徳55 蝦夷が叛き、田道を遣わしたが、討ち死にした。墓を暴くと大蛇が出て蝦夷を殺した。



540 欽明元 蝦夷、隼人が仲間を伴って帰順して来た。(記事になるほどの珍しい事。)

591 敏達10 蝦夷数千が辺境を犯し荒らした。その首領の綾粕らを召して叱りつけた。綾粕らは怖れかしこみ、泊瀬川の水をを歃って、三輪山に向かい、天地の諸神と天皇霊に誓いをたてた。



綾粕は『陸奥国風土記逸文』にある綾部の末裔であろう。

三輪山に向かって誓ったのは故郷の神々に誓ったと言うこと。三輪山に天皇霊はない。



627 推古35 陸奥国に狢(うじな:ムシナ)有りて、人になりて歌を歌う。異界との認識。



647 大化3 越の蝦夷に備えて浮足柵を設け,柵戸を置く。越後国沼垂郡。新潟市沼垂。

648 大化4 越の蝦夷に備えて磐舟柵を設け,柵戸を置く。超後国岩船郡。新潟県村上市と岩船郡。

柵とは屯倉+軍事基地。周辺の土地に人を置く。



658 斉明4 阿倍比羅夫,船師180艘で蝦夷を攻め,鰐田(秋田)・渟代(能代)の蝦夷を服属させる.



鰐田の蝦夷の恩荷(おんが)が降伏、刃向かわないことを鰐田浦神に誓った。鰐田の神は蝦夷の信仰する神で、新潟以北に分布する古四王神とされる。新潟10社、山形61社、秋

田40社。高志王や越王にも通ずる。殆どが北向きに鎮座する。秋田四天王寺とも結ぶ。



689 持統3 陸奥国の蝦夷2人 出家を請い許される。越の蝦夷僧道信に仏像・仏具などを賜う。



708 和銅元 越後国に新たに出羽郡を建てる。

709 和銅2 陸奥・越後の蝦夷を攻撃するため,巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯を征越後蝦夷

将軍に任命し,諸国の兵士を徴発。



蝦夷の武器は弓・蕨手刀、これを馬に乗って操るので、一騎当千の強さを発揮。

都の皇族・貴族の遣いが蝦夷から馬を買い取ることがあり、禁止令が何度も出された。



720 養老4 藤原不比等逝去。隼人が反乱し大隅国守を殺す。陸奥蝦夷反乱し,按察使を殺害。

724 神亀元 陸奥国の海道蝦夷反乱し,大掾操佐伯児屋麻呂を殺害。

多賀城を設置



多賀城の東側柵外に阿良波々岐(あらはばき)明神が鎮座している。蝦夷の信奉する異族の神であるとされる。武蔵国多摩郡の小野神社、越後国蒲原郡の彌彦神社、出雲国秋鹿

郡の佐太神社にはアラハバキ門があった。門を守る、即ち邪霊を防ぐ神であった。これが陸奥進出の出城に置かれたのは蝦夷の侵入を防ぐ目的があった。蝦夷の神を以て蝦夷を

防ぐのである。後世、アラハバキの神が祭られている上に倭人の祭る神がかぶさって、元の 主祭神は客神として母屋を取られた。門客人社として武蔵などでは多く祭られている。



749 天平勝宝元 百済王敬福(きょうふく)黄金を発見。陸奥国、黄金を献上。

752 天平勝宝4 孝謙天皇「陸奥国多賀以北は金を諭さしむ。正丁四人に一両。」の命令。

759 天平宝字3 桃生城・雄勝城が完成する。



769 神護景雲3 陸奥国桃生・伊治の二城に移住する百姓を坂東8国から募る。光仁天皇。



陸奥国牡鹿郡の俘囚である大伴部押人が申し出ていうのには、自分たちは紀伊国名草郡片岡の里の出身である。昔自分たちの先祖の大伴部直が蝦夷を征討するために小田郡の

島田村に居をかまえていた。そののち、子孫が蝦夷のために捕虜にされてずっと俘囚になっていた。そこで俘囚の名をとりのぞき、調庸の民に戻してほしいと願ったので承知した。

和歌山市片岡町に大伴氏の祖神を祭る式内社ののの刺田比古神社が鎮座している。

           ウカメノキミウクハウ

770 宝亀元 蝦夷宇漢迷公宇屈波宇が,一族を率いて「賊地」へ逃げ帰る.道嶋嶋足を現地に派遣。

772 宝亀3 大伴駿河麻呂を陸奥按察使(あぜち)に任ずる。



黄金発見以来、大和政権の東北侵攻がエスカレート、桃生城・雄勝城・伊治城の造営と入植は現地の蝦夷との軋轢を拡大した。

栗原・桃生以北は古墳分布が少なく、アイヌ語地名の分布が多く、南と差が目立つ。

出羽は雄勝以北が蝦夷的。部族単位の行動、組織化は少ないが、大同団結に進む。

38年戦争の開始。811年終結が宣言されるも以降数拾年続く。



774 宝亀5 蝦夷・俘囚(蝦夷で服従した者)の入朝を停止。

陸奥按察使兼鎮守将軍大伴駿河麻呂らに,蝦夷征討を命じる.(38年戦争の開始)

海道蝦夷が蜂起して桃生城を攻撃。



桃生城炎上、再建はされず。



坂東8国に対して,陸奥国が緊急事態の際,相当数の援兵を徴発することを命じる。

大伴駿河麻呂、陸奥国遠山村(現在の登米町)の蝦夷を制圧する。

多賀城に漏刻を置き太宰府と同様に飛駅の奏に時刻を記す。



776 宝亀7 出羽国が志波村の蝦夷に苦戦、下総・下野・常陸国の騎兵を派遣する。

陸奥国の軍土3000人に胆沢の蝦夷を攻撃させる。



780 宝亀11 陸奥国に覚べつ(9c46 べつ)城を造ることを命じる。 コレハリノアザマロ

陸奥国上治郡大領伊治公砦麻呂(蝦夷)が覚べつで反乱を起こし、按察使紀広純を殺害。

多賀城炎上。 朝廷にとって大変な衝撃、権威の失墜。



『続日本紀』伊治公砦麻呂は本これ夷俘の種なり。初め事に縁りて嫌ふことあれども、砦麻 砦麻呂怨みを匿くして陽(いつわ)りてこれに媚び事(つか)ふ。広純甚だ信用して、殊に意

に介さず。また牡鹿郡大領道嶋本楯、毎に砦麻呂を凌侮して、夷俘を以て遇す。砦麻呂深くこれを銜(ふく)む。



780 宝亀11 藤原継縄を征東大使(赴任せず)、大伴益立(節刀授与)・紀古佐美を副使に任命。

軍士、軍粮、武具、いずれも不足で動けず。



781 天応元 桓武天皇即位(生母の高野新笠は百済系渡来氏族「和(ヤマト)氏」の出で百済王氏より古く渡来した氏族であった。和気清麻呂が『和氏譜』を作製し、武寧王の子孫とした。



桓武朝の征夷は国家意志による軍事侵攻。ミニ中華思想。陸奥を夷、出羽を狄と呼ぶ。

財政負担は、征夷は東国、都の造営は西国に課した。

786 延暦5 蝦夷征討のため,東海・東山道に使者を派遣し,軍土と武具を検閲させる。

788 延暦7 来年の蝦夷征討のため軍粮・糒・塩を多賀城に運ばせる。

東海・東山の坂東諸国の歩兵・騎兵5万2800余人を翌年3月までに多貨城に集結させる。

紀古佐美を征東大使とする。

紀古佐美が辞見し,節刀を賜る。桓武天皇「板東の安危、この一挙に在り。」の名セリフ。



節刀 軍事指揮権を天皇から一時的に委ねられる証として刀を授けた。将軍の命令に従わない場合、将軍は副将軍の身柄の拘束、軍監以下は死刑の執行ができた。



789 延暦8 諸国の軍が多賀城に会集し,蝦夷征討を開始。阿弖流為が迎え撃つ。



 賊徒は北上川の東岸に陣取っていた。賊帥阿弖流為の居所に至る頃、賊徒三百人ばかりが官軍を迎え撃ち合戦となった。初めは官軍の勢いが強く、賊衆は退却した。官軍は賊衆と

戦いながら、村々を焼き払いつつ進軍し、巣伏村に至った時、全軍と合流しようとしました。

 (中略)山中から賊徒が現れ、官軍は河に飛び込んで逃げたが、多くは戦死したり溺れ死 んだ。賊軍の作戦にはまった失敗と戦意のない官軍の将たちだった。



789 延暦8 紀古佐美,胆沢の戦いで阿弖流為に大敗したことを報告。陸奥国から帰り,節刀を返上。

阿弖流為、40歳の頃かと思われる。陸奥の蝦夷をまとめるカリスマの登場である。



征討軍には富裕層子弟は徴兵を免れ、貧民の体格の貧弱な兵士しか参戦していなかった。



790 延暦9 蝦夷征討に備え,諸国に革甲2000領を3年以内に作らせる。

蝦夷征討のため,軍粮の糒を14万斛(こく)備えさせる。石神山精神社を官社とする。

宮城県黒川郡

791 延暦10 蝦夷征討のため,東海・東山道に使を派遣し,軍士・武具を検閲させる。

大伴弟麻呂を征東大使、坂上田村麻呂ら4人を副使とする。



田村麻呂、赤面黄髭にして、勇力人に過ぐ。将師の量あり。帝これを壮とす。

頻りに辺兵を将ゐて、出づる毎に功あり。寛容にして士を待ち、能く死力を得たり。



794 延暦13 10月22日 平安遷都

大伴弟麻呂の征討開始。『日本後紀』欠失で戦いの詳細は不明。

弟麻呂,征夷軍の戦果を報告.首457級を斬り、虜150人、馬85疋を獲、落75処を焼く。

796 延暦15 相模・武蔵・上総・常陸・上野・下野・出羽・越後の民9000人を陸奥国伊治城に遷し置く。



797 延暦16 坂上田村麻呂を征夷大将軍とする。坂上氏は東漢出。渡来系。夷を以て夷を征す。

801 延暦20 征夷大将軍坂上田村麻呂に節刀を賜う。

坂上田村麻呂 蝦夷征討を言上。帰京し節刀を返上。

802 延暦21 坂上田村麻呂に陸奥国胆沢城を築造させ,のち多賀城から鎮守府を移す。

駿河など東国10国の浪人4000人を胆沢城に移配する。

越後国の米1万600斛,佐渡国の塩120斛を毎年出羽国雄勝城に運ばせ鎮兵の粮とする。



 延暦八年の戦勝以来、征夷で多数の死傷者を出し、村落や耕地は破壊され、国家側にに投降した俘囚の諸国移配は蝦夷集団の勢力を分断し、もはや抵抗できる兵が集まらない。筋金入りの阿弖流為ら齢50を越し、次の世代の厭戦気分を感じていたのではないか。

これ以上の戦いは村落破壊と民人の死傷が増えるのみの状況になっていた。



802 延暦21 4.15 蝦夷阿弖流為・母礼ら,同族500余人を率い投降す。

坂上田村麻呂 阿弖流為・母礼を従え入京。阿弖流為・母礼を斬る。



枚方市の片埜神社の隣の公園にある伝阿弖流為の墓



『日本紀略』将軍田村麻呂は二人を帰国させ、賊たちを帰順させるようにしたいと申し出た が、公郷たちは、野性獣心のやからは必ずまた敵対するとして、虎を野に放つことだと執拗に主張し、二人を河内国植山で斬った。



803 延暦22 坂上田村麻呂 造志波城使となり辞見。

804 延暦23 蝦夷征討のため,武蔵など七国から糒・米を陸奥国小田郡中山柵に運ばせる。

坂上田村麻呂を再び征夷大将軍とする。

805 延暦24 藤原緒嗣と菅野真道に天下の徳政を相論させ,緒嗣の意見により征夷と造都を停止する。

806 延暦25 桓武逝去。皇太子安殿、平城天皇就任。



811 弘仁2 陸奥国に和我・稗縫・斯波3郡を置く。文室綿麻呂を征夷将軍とする。

坂上田村麻呂逝去。 文室綿麻呂、戦功を奏上し,捕虜の移配を請う。

文室綿麻呂,志波城移転を奏上.三十八年戦争の終結を宣言。以降数拾年争いが続く。



878 元慶2 凶作が続いた上に苛政・馬の収奪があり、蝦夷と公民が計画的反乱を起こし、独立を宣言。



蝦夷 「えみし」と訓でいるが、「えびす」とするべきとの意見がある。(東北大学 高橋富雄氏)

これについては、日下のニギハヤヒ山に続いてエビス山があり、蝦夷の墓との伝承がある。神武東征で、長髄彦の一族(安日彦等)や物部の一部が東に移動。外物部と言われた。

物部守屋が滅んだ際、やはり東国に逃れている。



荒吐神 アラハバキの神。多賀城の東側に荒脛神社が鎮座している。

陸奥 20社。出羽 4社。常陸 3社。武蔵 32社。などに鎮座。出雲も多い。

蝦夷神 男鹿半島 赤神神社・五社堂は漢の武帝を祭神とする。蕃神であり、蝦夷の奉じた神である。蝦夷が祭ったであろう自然神で式内社。亘理郡:安福麻河伯神社(阿武隈川の神)、

アイヌ 栗原郡;和我神社(アイヌ語水のワッカ)、胆沢郡:和我叡登挙神社(エトコは源)など。

栗原郡:遠流志別石神社、胆沢郡:於呂閇志神社、気仙郡:理訓許段神社、牡鹿郡:計仙麻神社。オヤシ:精霊。ベ:物。リク:上方。コタン:村。ケセ:下・終。マ:半島・小島。



戦神 鹿島・香取の御子神。五十猛神。大国主神。



鴨 鴨の大神の阿遲志貴高日子根神を祀る神社が多い。鴨族も陸奥へ攻めたか逃れたか。

鴨族が東国へ行ったとすれば、河内王朝成立前後の時期だろう。





鬼とされた悪路王アテルイの像








城柵と支配ラインの北上









アテルイの本拠 達谷窟の西光寺毘沙門堂





坂上田村麻呂の建立との説があるが、蝦夷征伐と清水寺建立に附会したもの。

弘法大師の甥の円珍が大同二年(807)に開山といわれる。『吾妻鏡』によると、この窟は

遙か津軽まで続いているといわれる。当地は奥州各地に通じる間道があったようだ。異界への入り口である。

東国の豪族はより北にある蝦夷の征服にかり出された。武装する習慣が強く、後世に東国武士の礎となった。

以上