Uga 鎌倉時代

奥州藤原五代

 1. 藤原経清 ?―1062

 源氏の郎党として1040年陸奥に赴任、亘理郡を拝領。1054年、奥州で勢力を伸ばしていた安倍氏の娘と結婚、後の藤原清衡が生まれている。なお、経清の先祖に藤原秀郷(俵藤太)がいる。
 安倍氏は、奥六郡(岩手県奥州市から盛岡市)で、婚姻などで勢力を拡大し、11世紀には独立国のように周りを支配した。安倍氏は、朝廷を認め、年貢を納めていたが、最も勢力を広げた安倍頼時の代に、貢租を怠るようになった。
 蝦夷と呼ばれていた安倍氏と陸奥守の源頼義その子義家の間で戦いが起こった。これを前九年の役(1051−1062)と言う。藤原経清は安倍氏側についた。源氏側は苦戦が続いたが、出羽(秋田、山形)の豪族清原武則に援護を要請、勢いを得た源氏は安倍貞任を打ち破った。藤原経清は鈍刀で斬首。未亡人は子の藤原清衡を連れて息子の清原武貞の正室となった。
 清原武則は出羽三郡に加えて奥六郡の支配者となった。7歳の清衡は忍従の20年が待っていた。


2 藤原清衡  1056−1128

 清衡は忍従の生活をおくり、これは後世の頼朝、家康も同様であり、一時代を築く人格が形成されたとみる。清原家の当主清原武貞が死ぬと、1082−87 にかけて、後三年の役が起こった。これは奥羽地方で行なわれた清原家の跡目争いである。真衡と家衡(武貞の子)と清衡の三人の間で紛争があり、真衡の病死後には家衡と清衡が争った。この頃、陸奥守として源義家が清衡の請に応じてこれをたすけた。戦いは困難を極め、義家の弟・新羅三郎義光は、兄の苦境を救うため官をなげうって義家のもとに馳せ参じたという。  
  源氏は奥州を手に入れようとしたが、朝廷からは私戦への介入とされ、義家は陸奥守解任、清衡は主のいなくなった奥六郡の司となった。姓を清原から元の藤原に戻した。
 源氏は奥州を取り損なって、その恨みは源氏の血脈に流れていった。奥州の金、馬、作刀(舞草刀 もくさ)、馬具など、鉱工業に見るべきものがある。宋との貿易、蝦夷との交易も富をもたらした。
  清衡は江刺郡豊田館(岩手県奥州市)を御館(みたち)としていたが、1094−04の頃、平泉に遷った。役の後の15年で 新しい時代の布石は打たれたということである。安倍―清原―藤原の三代で、源平に抗する第三の武士勢力の誕生であった。

  平泉藤原氏の初代藤原清衡は、陸奥の名産である金と馬を関白藤原師実に貢ぐなど、摂関家と結ぶようになり、奥州藤原氏の栄華の基礎を築きあげていった。また、中尊寺を建立し、金色堂を建て、5000巻を超える写経をし、父や兄弟、兵士らの菩提を弔いました。「東北を仏国土にする」というのが藤原清衡の願いであったといわる。
  南北二十余日にわたる王国に 奥大道 町ごとに阿弥陀笠塔を建て、中央に中尊寺を建立。金色多宝寺、釈迦多宝画像を本尊に安置。奥羽両国の一万余村に寺を建て、寺田を寄進した。
  国家構想で 100年の平和の礎。平泉は極楽の都、中尊寺は極楽の王朝。この栄華を永年に渡って見届けようと、肉体を滅ぼさず、ミイラとして安置を願った。


3 藤原基衡  1105−57

 清衡が死去。翌(1129年)、異母兄である惟常ら兄弟との争乱が記録されている。惟忠は敗北し、海へのがれ、越後へ上陸、しかしそこに基衡側の兵が待ち構えており、斬首された。彼26歳の時、戦火は広がったが、奥羽も出羽も国司が静観。手がだせない、藤原氏の軍事力はおおきくなっていた。
 基衡が御館におさまって、版図拡大に成功。多賀城よりはるか南の信夫郡 福島県衣川以南に踏み出すことは国家権力に刃向かうことになると初代清衡は慎重であったが、基衡は地方行政の弱体化を計算にいれて、大胆な行動をした。  
  1142年 藤原師綱が陸奥守として赴任すると、陸奥国は「基衡、一国を押領し国司の威無きがごとし」という状態であったので、事の子細を奏上し宣旨を得て信夫郡の公田検注を実施しようとしたところ、基衡は信夫佐藤氏の一族であり、家人でもある地頭大庄司・季春(佐藤季春)に命じてこれを妨害し、合戦に及ぶ事件が発生した。激怒した師綱は陣容を立て直して再度戦う姿勢をしめし、宣旨に背く者として基衡を糾弾する。季春は自分の首を差し出してほしいと申し出て、基衡は首を師綱に差し出した。これは主人のために自分の首を差し出す国柄、基衡の統治に恐れをなした。これ以降の公田検注は行われなかった。
 基衡はこれに懲り、翌1143年に師綱の後任の陸奥守として下向した院近臣・藤原基成と結び、その娘を嫡子・秀衡に嫁がせた。基成と結ぶことで基衡は国府にも影響を及ぼし、院へもつながりを持った。
 1150年から56年にかけて、毛越寺に大規模な伽藍を建立した。金堂円隆寺と広大な浄土庭園を中心に伽藍が次々に建立されていった。また、基衡の妻は観自在王院を建立している。毛越寺を建立するときの豪奢な贈物は都人の耳目を聳動させ、その様子は『吾妻鏡』で「霊場の荘厳はわが朝無双」と称された。


4 藤原秀衡 1122−1187

 平泉藤原氏の最盛期を迎えた。1157年、父・基衡の死去を受けて家督を相続する。奥六郡の主となり、出羽国・陸奥国の押領使となる。両国の一円に及ぶ軍事・警察の権限を司る官職であり、諸郡の郡司らを主体とする武士団17万騎を統率するものであった。
 1170年、従五位下・鎮守府将軍に叙任される。右大臣・九条兼実は『玉葉』の中で、秀衡を「奥州の夷狄」と呼び、その就任を「乱世の基」と嘆いている。都の貴族達は奥州藤原氏の計り知れない財力を認識し、その武力が天下の形勢に関わることを恐れながらも、得体の知れない蛮族と蔑む傾向があった。この「奥州の夷狄」や「蝦夷」という蔑称を秀衡は意識していたと考えられており、源平の合戦の際に一つの勢力に加担しなかったのも、普段は蔑称を用いて蔑む傾向があるのに自分達に都合のいい時に奥州藤原氏を頼ろうとする姿勢に不満を抱いていたことも中立の立場を堅持した理由ともされる。
 この時代、都では保元の乱・平治の乱の動乱を経て平家全盛期を迎えるが、秀衡は遠く奥州にあって独自の勢力を保っていた。奥州藤原氏が館をおいた平泉は平安京に次ぐ人口を誇り、仏教文化を成す大都市であった。秀衡の財力は奥州名産の馬と金と交易に支えられ、豊富な財力を以て度々中央政界への貢金、貢馬、寺社への寄進などを行って評価を高めた。また陸奥守として下向した院近臣・藤原基成の娘と婚姻し、中央政界とも繋がりを持った。
 源義経は、秀衡の庇護を求めたのは、母常盤御前の夫である長成の支援によるものである。秀衡の舅である藤原基成や藤原長成は母方の従兄弟にあたる藤原忠隆の子であり、親戚関係にあった。昔は、この程度の関係で親戚付き合いが出来たようである。義経は、安倍氏得意ののゲリラ戦法や待ち伏せ、奇襲戦法を習った。
 1180年、伊豆の頼朝が挙兵、義経は合流を望んだが、秀衡は引き留めたのは、源平の争いに巻き込まれたくはなかったということ。それでも義経が出発すると数人の家来をつけてやった。親心であろう。
 義経は木曽義仲と平家の討伐に目覚ましい活躍を見せたが、権力者となった兄頼朝と対立することになり、義経追討の令旨が出てしまった。
 1187年、義経は平泉に逃げ込み、秀衡に匿われた。秀衡は、やがて鎌倉の源頼朝が奥州に攻め込んでくることを予想しており、約百年の仏教浄土王国をの歴史思うと、源氏の攻撃には勝てないだろうとみていた。そのうえ、息子の泰衡や国衡の器量では到底頼朝と戦えないことを見て取り、義経を盟主に仰ぎ、頼朝と戦うように遺言した。

  藤原秀郷の末裔であった北面の武士佐藤義清(1118−91)は、1140年、出家して西行となり、歌人としても著名である。西行は20代に平泉訪れている。同じ祖先をもつ藤原氏で、基衡の時代だが、同年代の秀衡と交流があったとしても不思議ではない。
 1186年、西行は東大寺の再建の資金を集める役割を重源に依頼され、鎌倉と平泉を訪れている。この時、秀衡に鎌倉の意向、義経への対応等で助言をしている。義経を北方にやり、出奔したと鎌倉に報告するとの内容であったという。

  1188年に、秀衡は息子国衡・泰衡兄弟の融和を説き、国衡に自分の正室を娶らせ、各々異心無きよう、国衡・泰衡・義経の三人に起請文を書かせた。義経を主君として、三人一体の結束をもって、頼朝の攻撃に備えよ、と遺言したという。


5 藤原泰衡  1155?―1189

1187年、父秀衡の死去を受けて泰衡が家督を相続する。鎌倉からは執拗に義経追討の圧力がかかってくる。頼朝としては、奥州を源氏のものにしたいとの頼義・義家以来の宿願を果たすとともに、鎌倉幕府として北方の脅威を除くことが目的であり、義経を方便に使ったに過ぎない。
 1189年、圧力に屈した泰衡は閏4月30日、従兵数百騎で義経の起居していた衣川館を襲撃し、義経と妻子、彼の主従を自害へと追いやった。泰衡は義経の首を酒に浸して鎌倉へ送り恭順の意を示したが、匿ったということで、泰衡追討の宣旨を求め、全国に動員令を発した。
 頼朝は自ら平泉への攻撃に参加、3日で陥落、泰衡は平泉に火をかけて逃亡、奥州藤原氏の栄華はあっけなく幕を閉じた。これで頼朝はようやく幕府を開けたのである。
 泰衡は部下の手で殺され、首は鎌倉に送られた。頭に八寸釘を打たれて送り返された。首は秀衡の棺に入れられた


  以上
参考 『炎の生涯』php出版  『奥州藤原四代』高橋富雄 吉川弘文館    

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