Uga 春日大社の創建



1.藤原氏年表
   仲哀  『古事記』では、建内宿禰が沙庭に居て神の託宣を聞くのだが、『日本書紀』では、武内宿禰が琴をひき、中臣烏賊津使主(雷大臣)が審神者になるとしている。
応神  壹伎卜部の祖の眞根子(中臣烏賊津使主=雷大臣 の子)が、武内宿禰に酷似だったので、身代わりとなって死んだ。
      壹伎卜部の一部が、常陸国鹿島に移住した。
 欽明以前  常陸国鹿島の卜部の頭領は黒田大連であった。
   欽明  黒田の子常磐が河内に出てきた。卜部常磐は中臣の姓を賜った。
   敏達  常磐の子が鎌子(鎌足の祖父)。物部大連尾輿と中臣連鎌子は天皇が仏を礼拝することに反対した。
   崇峻  蘇我馬子に物部弓削守屋大連と中臣勝海(鎌子の子)が滅ぼされる。
 推古舒明  鎌子の子の御食子(彌氣)は前事奏官兼祭官となる。弟の国子(國爲)は大將軍となる。
   皇極  御食子の子の中臣鎌足が乙巳の変に参加し、孝徳朝で内臣となる。鎌足、鹿島誕生説あり。
659  斉明  鎌足の次男として、不比等(史)誕生、665年、藤原氏の後継者となる。不比等天智御落胤説あり。
  天智  『常陸国風土記』はじめて使人を遣わして神の宮を造らしめき。
669  天智  鎌足死去。藤原姓を賜る。
672  天武  壬申の乱。13歳の不比等、田辺史大隅の家で養われた。大隅、高齢で戦乱を避けていた。
689  持統  不比等、判事になる。31歳
698  文武  藤原姓は不比等の後裔のみが名乗る。他は中臣姓に復する。


717  元正  藤原房前(不比等次男)朝政に参議。翌年、不比等ら養老律令撰定を開始。
720  元正  日本書紀完成。不比等没。蝦夷反乱。翌年、藤原房前を内臣とする。
724  聖武  元正、首皇子に譲位。蝦夷反乱。藤原宇合を征夷太将軍とする。多賀城を造営。
707  元明  文武没。阿閇皇女即位。
727  聖武  不比等の娘光明子に皇子誕生するも、後に死去、以降皇子をえることはなかった。
729  聖武  長屋王の変。738年冤罪が判明。藤原四兄弟の陰謀。
734  聖武  藤原武智麻呂が右大臣となる。
737  聖武  藤原四兄弟(武智麻呂・房前・宇合・麻呂)天然痘で相次いで死去。
740  聖武  宇合の子の広嗣、玄ム・吉備真備の排斥を求めて九州で挙兵するも失敗。
749  孝謙  藤原仲麻呂(武智麻呂の子)紫微令とする。
  752  孝謙  東大寺山堺四至図。西に面した神域がある。
758  淳仁  藤原仲麻呂を右大臣とし、藤原恵美押勝の名を与える。760年、太政大臣とする。
763  淳仁  藤原宿奈麻呂(宇合の子良継)が押勝暗殺計画。
764  称徳  恵美押勝、孝謙・道鏡に対し、反乱を企てるも失敗、斬殺される。
765  称徳  北家房前の次男の藤原永手、春日大社造営を開始する。
766  称徳  道鏡、太政大臣禅師となる。翌年、法王となる。
768  称徳  春日大社なる。
769  称徳  道鏡事件起こる。
770  光仁  称徳天皇没。藤原永手・宿奈麻呂ら白壁王を擁立。道鏡左遷。
  777     内大臣從二位藤原朝臣良繼病。叙其氏神鹿嶋社正三位。香取神正四位上。

何となくですが、春日大社ができた後の藤原氏は、天皇家にまとわりつく藤の蔓のように、天皇家と共に、繁栄と言える状態で近世まで生きながらえて来たように思えます。



2.春日の神々について
●天の石屋戸
『記』 天手力男神が御手を取りて引き出す即ち、布刀玉命、尻くめ縄をその後ろ方へ控き度して・・
『紀』 天手力男神がお手を取って引き出し奉った。そこで中臣神や忌部神が、しめ縄をひき渡した。

●国譲り
『記』 天迦久神(鹿神)が建御雷神を呼び出し、天鳥船神を副えて遣わした。
『紀』 経津主神を遣わすところに、武甕槌神が名乗り出て、副えて遣わされた。

●高倉下に剱を渡す。
『記』 建御雷神は降らずとも、専らその国を平けし横刀あれば、この刀を降すべしとまをしき。この刀(佐士布都神、甕布都神、布都御魂と言う。)いま、石上神宮坐にす。
『紀』 武甕雷神は答えて、国を平げた剱を差し向けましょう。武甕雷神は高倉下に、「私の剣の名は韴の御魂と言う。」と教えた。

『常陸国風土記』 天地の権輿(つくりはじめ)、草木がものをよく言うことができた時、天より降ってきた神、お名前を普都大神と申す神が、葦原仲津之国を巡り歩いて、山や河の荒ぶる邪魔ものを平らげた。

●神護景雲二年(768) 鹿島の神が御蓋山麓に鎮座。この時の祭神はすでに武甕槌神となっていたのだろう。鎌足の時代に神の宮造営記事があり、帝紀旧辞の類は流布していたと思われる。
 『風土記』によれば、普都大神(経津主神、布都御魂)でいいのだが、この神(剱)をあやつった武甕槌神が藤原氏としては相応しいと考えたのだろうか。物部を操った中臣ということになる。

●第二殿は香取の神である。『紀』では、天津甕星(天香香背男)を征する斎主(いわい)をする主を斎の大人といった。この神は東国の楫取の地にに坐すとある。香取神宮の祭神は伊波比主神であり、春日大社の第二殿も本来は伊波比主神である。
所が、現在は香取神宮の祭神は物部系の神となっているのは、鎮座の地域が物部氏の支配する香取郡であったからである。中臣氏とも関係があり、饒速日神ではなく経津主神としたのだろう。神社本庁では、伊波比主と経津主を同一と見なしているが、不審である。
    注:『紀本文』天津甕星を退治した神を、建葉槌神としている。倭文神である。天津甕星は武力で退治できない神、即ち文化神のような神であったと思われる。

●第三殿、四殿は枚岡神社から、藤原・中臣氏の祖先−神の天兒屋根神と比売神を勧請した。

   ●平安時代の記録
『古語拾遺』 武甕槌神、今常陸国の鹿嶋神是なり。
『旧事本紀』 建甕槌之男神(建布都神、豊布都神)は常陸国鹿島に坐す大神、即ち石上布都大神。
『続日本後紀』 承和三年(836)下総國香取郡從三位伊波比主命正二位。常陸國鹿嶋郡從二位。勳一等建御賀豆智命正二位。河内國河内郡從三位勳三等天兒屋根命正三位。從四位下比賣神從四位上。

3.創建の理由。


●長屋王の祟りとも言われたが、天然痘がはやって、不比等の子で要職にあった四兄弟が次々と死去し、藤原氏の勢力は風前の灯火となった。光明皇后の皇子も逝去、それでも皇后一人が頑張っている状況であった。さらに、藤原氏内部の争いが絶えず、一族の将来に暗雲が漂っていた。


●藤原氏のルーツは常陸国鹿島にあり、氏神は鹿島神宮であった。祖先神は河内国の枚岡神社である。枚岡神社にすら、藤原氏の大物は詣でていないと言う。ましてや鹿島は要職にある彼らには遠すぎる。


●氏神を近くに勧請してもっと祭祀を行おう。権謀術数に頼るだけでは、災いを防ぐどころか、藤原氏千年の繁栄など夢のまた夢になる。春日大社の建立は、遙拝所を設置する方針であった。
また、東国の蝦夷を征服するためにこに武神を祀ることは王権にからみつく藤原氏にはうってつけ。
『延喜式神名帳』でも、「春日祭神四座」と書かれている。延喜の時代(10世紀初め)まで遙宮の古式をとどめていた。
    注;宮中の祭神も、座摩巫祭神五座、生嶋巫祭神二座のように遙拝のスタイルがある。

4.春日の地と水と日

●鹿島神は沼尾神・坂戸神と一体で崇敬されていた。『常陸国風土記』沼尾には、「天より流れ来る水沼」と記されている。鹿島の本源ともされる。武甕槌神の親神の伊都之尾羽張神は高天原の天安河の水を逆に塞きあげていた。水神である。春日の第一殿の東側に浮雲井があると言う。
枚岡神社は出雲井に鎮座している。言うまでもなく密接に水とつながっている。


●平城京は結局の所、水不足で、長岡京に遷都することになる。平城京の水源の一つは佐保川である。若草山(三笠山)や春日山(御蓋山)、春日奥山が水源地にあたる。摂社になっている式内社の鳴雷神社は天水分神を祀り、高山龍王社と呼ばれていた。また、境内に二座の水谷神社が鎮座している。
藤原氏の氏寺は月輪山興福寺の寺号であった。月輪は水を呼ぶ。


●何故、春日大社は御蓋山の麓であったか。

鹿島神宮は常陸国に鎮座、ここは日高見国と呼ばれていた。常陸は冬至の頃に本土では日の出の時刻が最も早く、太陽と縁の深い土地柄といえる。
日高見の起点は難波の日下である。難波の日の出の地である。この地名がが大和に移った。中臣の大祓詞に、大倭日高見国として日本国を表すことになる。更に日高見地名は常陸へ移り、さらに陸奥国の桃生郡(仙台市の北:式内日高見神社が鎮座)や北上川流域に移動していった。


●枚岡神社の立地は、広い意味で日下に属するといえよう。比売神は日の巫女であろうか。


●藤原氏が勧請するべき神々は全て「太陽の昇る地」に鎮座している。三輪山にはならない。

平城京で「太陽の昇る地」、「水源地となる地」は、春日野がうってつけと言える。

5.日下の春日神社の伝承 東大阪市善根寺字宮山

枚岡明神を分霊して大和の春日に遷座した際、その奉仕者供奉して大和へ移ったが後に故あって二十五名が河内に帰り、山中の一小寺である善根寺の傍らに住んだ。扁額は「日本最初春日大社と記されている。神楽歌に「宮戸田おがめば西は海、東はお日の御前なる。」とある。
 日下の真ん中に春日があるべきとの強い思いを感じる伝承である。
6.藤原氏の方法論

藤原・中臣氏は、皇室を補弼するスタイルとして武内宿禰や蘇我氏のやり方を参考にしていた。
一つは外戚戦術であり、次々と子女を皇室にいれている。文武天皇の夫人の宮子には養女説がある。道成寺創建の謎に関わる。
   注   不比等の天智御落胤説は、かっての春日大社の水谷川忠麿宮司が今東光和尚に言った話として、宮中第一の美女であった釆女に鎌足が横恋慕しており、天智がそれを察して、下げ渡した。実は妊娠している。生まれてくるのが女ならばよこせ、男ならお前の子として育てよ。生まれたのが不比等であった。持統天皇は皇族を重用したが、不比等も起用されている。
万葉95 吾(あ)はもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり。

 氏族代表一名だけが、大臣になるようなことはさけて、氏族を分けて複数の藤原氏を大臣位に送り込む。また祭祀専門氏族として中臣氏を復活されて、祭祀も司った。
藤原氏の遠い祖先の壹伎卜部の祖の眞根子(雷大臣の子)が宿禰の身代わりとなって死んだことを誇りとしていた。
面白いのは、『景行紀』 武内宿禰が東国を巡って日高見国を見つけ、蝦夷が住み、豊な土地と報告している。
 『紀』では、武内宿禰と蘇我氏との関係は触れられていない。

7.春日と霞と幽 万葉集から。

0407 春霞(はるかすみ)春日の里の殖小水葱(うゑこなぎ)苗なりと言ひし枝(え)はさしにけむ
1437 霞立つ春日の里の梅の花あらしの風に散りこすなゆめ
1844 冬過ぎて春来たるらし朝日さす春日の山に霞たなびく

春日とは カスカ であり、春日野には霞がたなびいていた。みるもの全て幽かである。

以上

神奈備にようこそ