Uga紀ノ川

〔名前〕 大台ケ原を源流とし、真土峠(待乳峠)の南で和歌山県に入ってからはほぼ西へ直流して和歌山市で紀伊水道に入る。流長136km、このうち和歌山県内は流程55kmである。
 川の名は紀伊国第一の川の意と思われ「万葉集」巻七1209 に
 人ならば母が最愛子そあさもよし紀の川の辺の妹と背の山 作者不詳 とみえる。
 空海が自ら記したという『御手印縁起』に高野山領の四至の北限として「日本河」「吉野川」とある。

紀ノ川流域の地

〔流路〕 紀ノ川は西南日本の地質構造を南北に二分する中央構造線に沿って流れる。上流の吉野川は山の迫る峡谷である。中流部の北岸には和泉山脈の和泉砂岩断層崖下に洪積段丘の堆積があり、奈良県五條市、橋本市、粉河などは段丘上の集落で、崖端に湧泉がある。

 粉河から下流部では断層崖を流下する小支流が複合扇状地を形成し、岩出市・紀の川市打田での那賀扇状地は代表的なものである。

 さらに下流ではそうした扇状地が本流に再浸食され、山麓に段丘状に残存する。これら北側山麓からの堆積の進出で流路は南に押され、南岸の平地は狭い。

 粉河以西の谷には海進の跡がみられ、岩出市以西からは河口平野が広がる。地形の制約で右岸の支流は短く、左岸も高野山から流れる貴志川を除けば大きな支流はない。

紀ノ川河口の変遷

 和歌山市が大半を占める河口平野には紀の川が持ち込む大量の砂により流路の変更の跡があって平野の形成過程がうかがわれる。砂の吹き溜まりが弱山と呼ばれ、城山となった。若山から和歌山となる。

 平野部の和歌山市には出島・松島・中之島など島地名が現存し、またかつて海湾に面したと思われる津秦や、『日本書紀 仲哀天皇三年』条に「天皇、是に、熊襲国を討たむとす。則ら徳勒津より発ちて、浮海(みふね)よりして穴門に幸す」とある徳勒津は和歌山市の紀ノ川左岸に比定されている。

 紀ノ川が現河道にほぼ定まったのは明応年間(15世紀末)の頃で、それ以前は現和歌山市の小豆島付近で二つに分れ、一つは現和歌川がその河道で名草山の西部を、いま一つは現土入川を流れ、水軒川を南流していた。この二河流の中洲もさらに多くの分流によって分れていた。

〔水運〕  河谷は平地に乏しいが先史遺跡は多く、条里遺構の密度も高い。『和名抄』にみえる紀伊国の古代郷の半数以上も流域に比定される。紀ノ川が紀伊国の中心的地域を形成するうえで役割の大きかったことが知られ、川におおよそ並行してできた陸路も歴史的に大きな役割を果した。『古事記』『日本書紀』にみえる「男之水門」「雄水門」「紀伊水門」などは河口の港をさし、紀ノ川と外洋の交通の中継点であった。

 下って建久七年(1196)三月日付の『高野山住僧等言上書』(書簡集)によれば、各地の高野山領からの運上米は、河口の紀伊湊を経て川をさかのぼり、慈尊院(現伊都郡九度山町)にあった高野山の政所まで運ばれた。『廷喜式』に「年料別貢雑物」として「鎌垣船九隻」とみえるが、『続風土記』では鎌垣は粉河庄(紀の川市粉河)の古名で、「鎌垣船は此地運漕の船なるへし」としている。造船技術が発達していたことを示している。

 中世には、高野山参詣の盛行に伴う川舟の利用と寄港の津の発達が『御室御所高野山御参籠日記』に填崎(現和歌山市吐前)、荒川(現紀の川市桃山)、粉河、名手・麻生津(現紀の川市)、三谷(現伊都郡かつらぎ町)の名がみえることから推定される。

 近世には橋本町(現橋本市)が開かれて船継場として栄え、『紀州名所図会』は、「川上船、橋本町より出す」「和州より若山に船積の荷物すべてここにて積替へ、また旅人等当所より船にて府に下る」などと記している(現橋本市橋本)。川上船の上限は大和の五条で、上り三〇石、下り五〇石積であったという(『和歌山県誌』)。また上流吉野川流域の美林による木材や樽丸は筏流しで搬出され、河口には多くの材木置場が出来た。

 紀ノ川には明治までほとんど架橋が行われず、要所に渡場が発達した。おもなものは下流から北島渡・田井ノ瀬渡(現和歌山市)、岩出渡(現岩出市)、麻生津渡、竹房渡(現紀の川市打田)、慈尊院渡・九度山渡(現伊都郡九度山町)、橋本渡(現橋本市)などである。渡場は上下船の船津を兼ねるところが多かった。

〔用水と水害〕  紀ノ川流域は、和歌山市で年降雨量平均1400mm前後と比較的少なく、潅漑用溜池が多い。紀ノ川から取水する用水は、元禄十三年(1700)に造られた藤崎井用水、宝永年間(1704〜11)に造られた小田井用水が、学文路村(現橋本市)の庄屋大畑才蔵の築造で知られる。また、古代にさかのぼる宮井用水など現在も利用されている。

 川の流量は最大と最小の差がきわめて大きく、日本の主要河川中最も安定性のない川といえる(『理科年表』。このため暴風雨・洪水は宝永四年から安政四年(1857)までの150年間に23回を記録し(『紀州災異誌』)、ほとんどが和歌山城下の被災である。
 古くは元弘(1322〜34)頃 「和田千軒」といわれたという和田浦の集落が消失したと伝えるが、確たる記録はない。
 『続風土記』は吐前の地名につき「古紀ノ川の衝に当りて塙を築きて水衝を防きし地なるを以て名つくるならむ」、橋本町につき「応其上人紀川に百三十間の橋を架す、(中略)此橋三年許を経て大水のた為に流没せり」、慈尊院につき「堂金旧は紀ノ川の側にあり、天文九年夏四月九日洪水出て堂字悉涛失すといへり」などと記している。
 このほか紀ノ川沿いの諸村には、洪水・水害の記事が散見される。

〔旧石器・縄文〕 旧石器時代(〜BC 12,000)、縄文時代(BC 12,000〜BC 1,000)
和歌山市山東大池遺跡
旧石器、ナイフ形石器、石匙、石鏃、石核、サヌカイト片 が出土。サヌカイトは大和の二上山産出。
紀の川市貴志川町平池遺跡
旧石器、ナイフ形石器、石鏃、サヌカイト。サヌカイトは石川の谷筋を通り、和泉山脈の鍋谷峠を越え、紀の川を渡り、平池なで運ばれたと思われる。

縄文前期 和歌山市鳴神貝塚
 縄文時代前期(約6500年前)から晩期(約3000年前)、さらに弥生時代まで。ここ花山の麓は海岸線であったことが推定される。貝塚の傍には集落があり、墓地からは抜歯した若い女性の人骨も発見された。シャーマンと思われる。

縄文前期 和歌山市禰宜貝塚(和歌山市禰宜字三田)
 縄文土器、石器(匙、錐、鏃、錘、斧)骨角器(骨針、牙製ナイフ)、ハイガイ、ヤマトシジ ハマグリ マガキ。出土土器の90%を前期の土器。石器としては、石匙・石錐・石鏃・石斧が出土し、特に有茎の水晶製石鏃は注目される。

〔弥生時代〕
 秋月遺跡は、紀伊一ノ宮である日前宮を中心とした遺跡で、弥生時代前期の土坑、古墳時代前期の竪穴建物、古墳時代前期〜後期の古墳群が出土している。
音浦遺跡で弥生時代末の大規模な用水路(現在の宮井用水の前身)が発見されている。

銅鐸出土地
紀ノ川に架かる田井の瀬橋下流約400mの中州。1m以上もの大型の銅鐸であった。
有本銅鐸 高さ44.6cmで、身には水が流れるような文様(流水文)が描かれている。
太田・黒田遺跡は県内屈指の弥生時代の遺跡で、銅鐸は、高さ約30cmの弥生時代中期の外縁付鈕1式の4区袈裟襷文銅鐸。島根県加茂岩倉遺跡出土銅鐸のうちの4口と同笵。
遺跡は東西300m、南北460m、直径6〜9mの円形竪穴式住居は名草平野の首長クラスか。土器は九州の遠賀川式系統 畿内型や瀬戸内型の接点になっている。各地との交流が豊富だった。ことを思わせる。3世紀末に太田・黒田遺跡から住民が消えた。
紀の川域では銅鐸が七個発見され、全て聞く銅鐸である。(南紀は大型銅鐸)。高地性集落も多く、製塩土器も多く出ている。

〔古墳時代〕
紀ノ川河口に住居跡は多いが前期古墳少ない。
紀伊の古墳は一世紀遅れの変化をしている。
 早期古墳 4世紀 秋月一号墳。4c末 岩橋千塚古墳群内花山古墳から三角縁神獣鏡が出土。
 初期古墳 5世紀 背見山山稜の晒山1号墳(勾玉・管玉・臼玉)、花山8号墳は尾根上に設置
 盛期古墳 6・7世紀  大谷古墳(馬冑) 車駕之古址古墳は県内最大の前方後円墳で金製空勾玉(新羅の黄金文化)が出土 岩橋千塚古墳は紀伊独特で高句麗の影響 井辺八幡山古墳(入れ墨をした力士像出土)
 末期古墳 7世紀末 岩橋千塚古墳が続く。

5世紀の紀ノ川下流域は、国際色豊かな渡来文化の窓口であった。鳴滝遺跡周辺は、渡来系の遺物が出土する。
鳴滝遺跡では7棟の巨大倉庫群と廃棄された陶質土器が出土した。紀の川は大和から瀬戸内への交通路であり。紀氏の水運と朝鮮出兵が行われた。
西庄遺跡から製塩のための土器や鹿角で作った釣り針などが出土する。
宮井用水は名草平野に豊かな農耕をもたらした。ここに紀氏の守護神の日前宮が鎮座、最澄の『長講金光明経会式』には、名草上下溝口神とされ、宮井用水の頭首工にあたる音浦樋を司る神とされる。

和歌山県では紀の川の上流になる橋本市の隅田八幡神社が所有していた人物画像鏡の48字の金石文は、百済の武寧王から継体天皇へ渡されたものとの説がある。東漢氏の流れをくむ坂上氏(田村麻呂が有名)の祖先が居住していた。

〔南海道〕
道としての南海道は、都から紀伊、淡路島を経て四国へ通じていた古代の幹線道路。
大和から巨勢路を通り、紀ノ川北岸を西進して名草駅に至り、さらに西進し賀田駅(和歌山市加太)に至り、淡路島へ向かう。
 紀伊と大和をつなぐ道で、まさに歴史の宝庫と呼ぶにふさわしい。歴代の天皇たちの御幸のルートであった。行き交ったたくさんの旅人が詠んだ万葉歌が、船岡山、妻の杜、背の山、飛越石などに今も残されており、歌碑などもあちこちに建っている。
長岡京遷都以降は、大阪湾に沿って進み、和泉国から雄の山峠(和歌山市滝畑)を越えて紀伊に入り、紀伊国府を経て賀太駅に至るルートに変更された。
紀の川南岸を通る古道があった。高野山や吉野への道であり、庶民信仰の参詣道であった。

〔海外遠征〕
 応神三年 紀角宿禰等を百済に派遣し、百済王を阿花に替えて帰国した。
 仁徳四一年 紀角宿禰を百済にやり、国境の分け方、郷土の産物を記録させた。
 五世紀にはいると、紀の川河口、特に北岸に多くの古墳が築かれた。後に中央豪族となる紀臣の拠点である。
雄略九年 紀小弓宿禰が新羅討伐の大将軍として海を渡り、新羅軍を打ち破った。この戦で、大伴談連と紀崗前来目連が戦死、紀小弓宿禰は病没した。子の紀大磐宿禰は父の死を聞いて新羅に赴いた。
この頃、鳴滝倉庫が建てられた。半島遠征のための兵站であった。
五世紀後半、南岸の岩橋千塚古墳が築かれ始める、源流は高句麗。後に国造となる紀直の拠点近くである。
顕宗三年 紀生磐宿禰が高句麗と通じ、三韓の王となろうとし、自らを神と称した。
欽明二三年 新羅が任那諸国を滅ぼした。紀男麻呂宿禰が大将軍として派遣された。

紀氏の半島での活躍は、紀の川の存在を抜きに語れない。
 まず、造船であるが、材木は吉野をふくむ紀の川上流から運ばれたのであろう。後世に粉河荘で鎌垣船が造られたように紀州には造船技術の蓄積があった。このための材木は吉野をふくむ紀の川上流から運ばれたのであろう。水夫は海岸の海部の民であり、戦士は紀氏、大伴氏、崗前氏など名草平野の民人が徴用されたと思われる。紀臣紀直が未分化の原紀氏が主体として活躍している。

〔万葉集〕
298 亦打山 暮越行而 廬前乃 角太川原尓 獨可毛将宿
真土山夕越え行きて廬前(いほさき)の角太川原(すみだがはら)に独りかも寝む

1680 朝裳吉 木方徃君我 信土山 越濫今日曽 雨莫零根
麻裳あさもよし紀へ行く君が真土山越ゆらむ今日そ雨な降りそね

1195 麻衣 著者夏樫 木國之 妹背之山二 麻蒔吾妹
麻衣(あさころも)着ければなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹わぎも

1210 吾妹子尓 吾戀行者 乏雲 並居鴨 妹与勢能山
我妹子(わぎもこ)に吾恋ひゆけば羨(とも)しくも並びをるかも妹と背の山

 919 若浦尓 塩満来者 滷乎無美 葦邊乎指天 多頭鳴渡
若の浦に潮満ち来れば潟を無み葦辺(あしへ)をさして鶴たづ鳴き渡る

神亀元年甲子の冬十月五日 紀伊国に幸す時に山部宿禰赤人の作る歌一首 并せて短歌

 917 やすみしし わご大君の 常宮と 仕へ奉れる 雑賀野ゆ そがひに見ゆる 沖つ島 清き渚に 風吹けば 白波騒ぎ 潮干れば 玉藻刈りつつ 神代より しかぞ貴き 玉津島山

反歌二首
 918 沖つ島 荒磯の玉藻 潮干満ち い隠り行かば 思ほえむかも
 919若の浦に 潮満ち来れば 潟を無み 葦辺をさして 鶴鳴き渡る


聖武天皇 故に弱浜の名を改めて明光浦とす。守戸を置きて荒磯せしむことなかるべし。春秋二時に、官人を差し遣わして、玉津島の神、明光浦の霊を奠祭せしめよ。『続日本紀』神亀元年十月

 1222 玉津島見れども飽かずいかにして包み持ちゆかむ見ぬ人の為

3168 衣手の真若の浦の真砂地(まなごつち)間なく時なし吾あが恋ふらくは

参考文献

『定本紀ノ川・吉野川 -母なる川--その悠久の歴史と文化-』
『地形からみた歴史』日下雅義
『和歌山県史』
『和歌山市史』

神奈備にようこそ