UGA皇后 弐 妹の力



皇女は日嗣の決定に重要な役割を果たした。


1.日嗣の正当性の保証
 継体天皇は仁賢天皇の皇女の手白香皇女を娶って即位できた。
古事記 手白髪命於合わせまつりて、天の下を授け奉りき。


2.皇祖麗の付着
 天皇の即位には、皇后に相応しい女性の有無が調べられた。
姉妹的存在の近親女性がいて、「妹の力」で日嗣にかかわる皇祖霊を付着させる。
欽明天皇に対する「妹の力」は、仁賢天皇の皇女の春日山田皇女がその役割を果たした。

欽明天皇を中心とした系図



妹の力  日嗣ぎにかかわる


皇祖霊を付着する   兄弟  ← 姉妹、姨 兄の娘(姪)



妹                妹の力を貰って即位した天皇

兄嫁の安閑妃春日山田皇女     欽明
后である炊屋姫尊(推古)       敏達
皇后である穴穂部間人皇女     用明
推古の推挙?               崇峻
敏達の皇后であり、神祇を敦礼   (推古)
菟道皇女(舒明の父の妹で斎王)   舒明
本人の霊力の強さ            皇極
姉である皇極天皇            孝徳
兄嫁である倭姫王            天武



寄り道 小姉君の謎
 皇女の穴穂部間人皇女は物部・蘇我の争いをさけて、丹後の間人に遷ったと伝わっている。
これは間人皇女の生まれた場所が丹後であったことを示しているのではないか。
即ち小姉君は丹後の姫だったと思われる。海部氏・物部氏の血を受けた姫だったのだろう。
皇女の穴穂部間人皇女は石上穴穂宮で育っており、ここも物部氏縁の土地。
蘇我氏の血をひいていない小姉君の子孫は皆殺しされた。

前天皇の殯期間に日嗣決定が行われる。殯宮には女性のみが籠もっている。

皇后に相応しい女性の存在を近親女性がチェックする。皇后は日嗣ぎ継承儀礼、大王家の祭祀にかかわる。
だから、姉妹的存在の近親女性との近親婚が即位を有利に導く。豪族の娘は祭祀に関われない。
敏達の殯宮で穴穂部皇子が炊屋姫を奸そうとしたのは結婚による天皇霊憑依が目的。
『日本書紀』巻二一用明天皇元年(五八六)夏五月。穴穗部皇子欲奸炊屋姫皇后而自強入於殯宮。寵臣三輪君逆乃喚兵衛。重固宮門。拒而勿入。

欽明天皇は宣化天皇の娘を全員娶っている。宣化の息子が妹の力を介して勢力を持たない為。
欽明天皇は蘇我稲目の娘を全員娶っている。蘇我氏が娘を通じて他勢力と結びつかない為。


欽明天皇が通婚圏内の女性を独占した結果、次の世代(敏達や用明)は異母兄妹婚しかできない。
特に皇女は高貴性ゆえ相手がいなくなり、非婚で終わるか、斎王になるしかなくなった。

天皇と異母姉妹婚での所生子で即位した皇子はいない。好ましい形態とは思われていなかった。

異母兄弟同士は皇位を狙って敵対関係になる。

皇族内結婚が完成すると、結婚対象は兄弟姉妹同士となり、即位の為の奸しは要らなくなる。

皇后が大王家の祭祀を担当できるようになると、兄弟に対する姉妹の霊的優位は低下していく。
大王権力を支え制約していた姉妹は大王家の外へ出され、一部は斎王として王宮を離れて行く。

舒明天皇以降は皇族女性との所生子が即位することが通例になってくる。



現代の皇室の姿



妹の力と後家のふんばりの勝負は        持統天皇 諡名 高天原広野姫天皇



持統天皇年表


   大田皇女誕生、父は天智天皇、母は蘇我系遠智娘。
645 大化元年 鵜野讚良(後の持統天皇)誕生 父は天智天皇、母は蘇我系遠智娘。
648 大化四年 大友皇子誕生(天智天皇と伊賀釆女宅子娘の子)
   大田皇女、大海人皇子と娶る。
657 斉明三年 鵜野讚良姫(13歳)、大海人皇子と娶る。
661 斉明七年 大田皇女、大伯皇女を生む。
661 斉明七年 斉明天皇崩御。  中大兄皇子称制。
662 天智元年 鵜野讚良、草壁皇子を生む。
663 天智二年 大田皇女、大津皇子を生む。
663 天智二年 白村江の大敗北。
667 天智六年 大津宮の遷宮。大田皇女逝去。これにより、天武の后として筆頭の立場にたつ。
668 天智七年 天智天皇即位。大海人皇子が東宮となった。
671 天智十年 大友皇子を太政大臣とし、大海人皇子は政権中枢からはずされる。
671 天智十年 大海人皇子、鵜野讚良・草壁皇子らとともに大津を出て吉野に行く。
   天智天皇逝去。
672 天武元年 壬申の乱
673 天武二年 即位。鵜野讚良を立后。伊勢神宮に大伯皇女を齋王として仕えさせる。
679 天武八年 吉野の盟約。
681 天武十年 草壁皇子、立太子。
686 朱鳥元年 天武天皇体調悪く、7月15日、政治を皇后と皇太子にゆだねた。
朱鳥元年 大津皇子、伊勢へ行き、姉の大伯皇女と合う。今生の別れ。

万葉0105 我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁(あかとき)露に吾(あ)が立ち濡れし
   弟を大和に送るに際し、夜もふけ、明け方の露に濡れるまで立ち続けていた。
万葉0106 二人ゆけど行き過ぎがたき秋山をいかでか君が独り越えなむ
   二人で行っても越えるのに難儀な秋の山道を、どのようにして一人で越えているのだろうか。

朱鳥元年 9月11日、天武天皇逝去。
朱鳥元年 10月2日、大津皇子、謀反の容疑で捕らえられる。持統は王権を奪取した。
朱鳥元年 10月3日、大津皇子、処刑さる。 容止墻岸。音辭俊朗。及長辨有才學。尤愛文筆。
朱鳥元年 11月17日、大伯皇女、伊勢を退下。

万葉0163 神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君も在(ま)さなくに
   神風の吹く伊勢の国におればよかったのに、どうして都に帰ってきたのだろう。
万葉0164 見まく欲り吾(あ)がする君も在(ま)さなくに何しか来けむ馬疲るるに
   会いたいと思ったあなたもいないのに、どうして来たのだろう。馬が疲れるだけなのに。

       大津皇子、二上山上に改葬される。

万葉0165 うつそみの人なる吾(あれ)や明日よりは二上山を我が兄(せ)と吾(あ)が見む
   現し身の人である私は、明日からは二上山をわが弟と見よう。
万葉0166 磯の上に生ふる馬酔木(あしび)を手(た)折らめど見すべき君が在(ま)すと言はなくに
   岸のほとりに咲く馬酔木を手折って思わず花を見せたいと思うが、あなたはもういない。
689 持統三年 草壁皇太子、死去。
690 持統四年 持統天皇即位。忌部が神爾の剣・鏡を奉り、公卿百官はミコドオガミの拍手を拍った。
697 持統11年 軽皇子(文武天皇)に譲位。持統は「天つ神の御子」として、「天に坐す神の依しを受けて天下を統治し、その統治者の任(天津日嗣高御座の業)を孫の文武に授けた。
702 大宝二年 逝去。火葬。



日本書紀は草壁皇子につながる元明天皇・元正天皇の時代に編纂された。それにもかかわらず、
草壁皇子の能力等については何も語らない。一方、大津皇子については、「威儀備わり、言語明
朗、有能才学に富み、文筆を愛し、詩賦の興隆は大津皇子に始まるといわれる。」と絶賛する。

持統天皇の前に、大伯皇女・大津皇子の姉弟はもろくも倒された。しかし、持統の皇子の草壁皇
子(28)を早世させ、孫の文武天皇(25)もまた早世させている。

桓武天皇の父親である光仁天皇は天智天皇の皇子の志貴皇子の子である。また光仁天皇の皇
后であった井上皇后は聖武天皇の皇女であったが、呪詛の疑いで、皇子もろとも獄死した。娘の
酒人皇女は桓武天皇の妃になり、朝原皇女を生んだ。平城天皇の妃となったが、子を生まなかっ
た。持統天皇の血は皇室には残らなかったのである。これぞ、妹の力での復讐だった。

持統天皇は高天原広野姫天皇と称し、天照大神に相当する地位を与えられている。天照大神が子
の忍穂耳尊ではなく、孫の瓊々杵尊を降臨させているのは、持統天皇が草壁皇子ではなく、その皇
子の文武天皇に皇位を譲っているのに似ている。


持統天皇は天照大神の天壌無窮の立場とは大きく違っている。詛われた天皇であった。




古代の婚姻儀礼

伉儷ひ 求愛  名を呼びかけ合意すれば寝る。求婚にいたるかどうかは事情による。
ツマドヒ 求婚   求婚のしるしの授受が行われ、女性の親の承認が得られた段階を言う。

伉儷ひ(ヨバヒ) 男が女の名を呼びかけること。

万葉3102 たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰と知りてか
   私の名を告げようもしますが、行きずりのあなたはどんな人でしょうか。
万葉0001 菜摘ます子 家告(の)らせ 名のらさね
    雄略 吾(あ)をこそ 夫(せ)とは告らめ 家をも名をも
   菜つむ娘よ、あなたはどこの家の娘か。雄略 私こそ明かそう、家も名も。
万葉2594 行かぬ吾(あ)を来むとか夜も門閉(さ)さずあはれ我妹子待ちつつあらむ
   訪れない私を、来るだろうかと夜も門を閉めずに待ち続けているのだろうか。
万葉2617 あしひきの山桜戸を開き置きて吾(あ)が待つ君を誰か留むる
   山桜の板戸を開けたまま待っているあなたを、誰が引き留めているのだろうか。

ヨバヒの主体は男 訪問の前に家も名も知っている。使いに立つ者もいた。間使い。

合図 戸をガタガタさせて合図を送る
声色をつかって女を呼ぶ。女を外へ呼び出す場合もあれば、家の中へ入る場合もある。

万葉2527 誰(たれ)そこの我が屋戸に来呼ぶたらちねの母に嘖(ころ)ばえ物思(も)ふ吾(あれ)を
   男のことで母に詰問され、叱られた直後にその男が来て女の名を呼んでいる。
   一体誰です。今頃のこのこと来て・・・


万葉3467 奥山の真木の板戸(いたと)をとどとして我が開かむに入り来て寝(な)さね
   真木づくりの板戸をどんどんと押して、あたしが開けますから、入ってきて寝て下さい。
万葉3310 隠国(こもりく)の 泊瀬の国に さよばひに 吾(あ)が来れば (略)
この夜は明けぬ 入りて吾(あ)が寝む この戸開かせ
   泊瀬の国に、妻を求めてやって来ると  もう夜は明けた ちょっと嶽でも入って寝たい 戸を開けてちょ
   

男は神 男は面隠しした。顔を見られない為ではなく、神として女のもとに行く。女は神妻・巫女。
百襲姫は大物主の顔を見ていない。婚姻は男も女も人とする。神妻は人妻となる。

万葉2916 玉かつま逢はむと言ふは誰(たれ)なるか逢へる時さへ面隠しする
   会おうと言ったのはあなたよ。それでも会っている時に顔を隠すの。おかしいよ。
万葉3460 誰そこの屋の戸押そぶる新嘗(にふなみ)に我が夫(せ)を遣りて斎(いは)ふこの戸を
   誰ですか、家の戸を押して揺さぶるのは。新嘗で夫を遠ざけて潔斎しているこの家の戸を。
万葉1739 金門(かなど)にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
   金門に人がやって来て立つと、わが身をかえりみずに出ていって逢ったことだ。


   
ツマドヒ 求婚   求婚のしるしの授受が行われ、女性の親の承認が得られた段階を言う。
娉妻(しるし) 妻とするために贈った聘財。
結婚に伴い妻屋を建てて一方が通ってくる。
女家の親の許諾が必要なこと。
婚姻儀礼があること。
妻屋 立派な建物 スサノヲ 遺児を育てる 柿本人麻呂
粗末な建物 イスケヨリヒメ
妻屋建築には人々の協力 宴会 婚姻は社会的に公然化させる。なしくずしはない。

万葉2351 新室(にひむろ)の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ処女は君がまにまに
   新居の壁草を刈りにいらっしゃい。草のように寄り添う娘は、あなたのお気持ちのまま。


ツマドヒノタカラ 送り主の魂が付着している。簡単な授受はできない。
白い犬。
景行が印南の別嬢を見つける。『播磨国風土記』別嬢は島に逃げたが、別嬢の飼い犬が島に向かって吠えたので逃げた先が判り、別嬢と結ばれた。白い犬だった。
近江国風土記 天女の羽衣を白犬に盗ませる
狩り場明神の白い犬はどうだ。
雄略記 日下の直越の道から河内に入った時、志幾の大縣主の家に堅魚を上げているのを見て怒り、燃やそうと遣いを出した。大縣主は畏こんで白犬に布をかけ、鈴をつけて、献上した。それで許した。
 次ぎに若日下部王に行き、白い犬を賜いて、「妻問いいの物」と言われた。
 雄略13年 白い犬は自分の身代わりでもある。

宇賀網史話

神奈備にようこそ