UGA古事記1300年


一.天地開闢三神話


1. 天之御中主神話
天地(アメツチ)初めて発(ヒラ)けし時、高天原(タカマノハラ)に成りし神の名は、天之御中主神(アメノミナカヌシノカミ)、次に高御産巣日神(タカミムスヒノカミ)、次に神産巣日紳(カムムスヒノカミ。)
この三柱の神は、みな独神(ヒトリガミ)と成りまして、身を隠したまひき。

この神話は開闢三神話(天之御中主神、宇摩志阿斯訶備比古遅神、国之常立神)では最も新しく入ってきた神話。


天之御中主神話の特長
天神であり従属神を持つことから、アルタイ系遊牧民の天神、テングリによく似ている。
ニュージーランドのイオ神(髄・核・神・真実)に似ている。顔を隠したもの、隠身である。
タンガンダワ神(インドネシア・セレベス)は、大気の中央を意味する。まさに天御中主である。
皇祖であり、皇室と同じ種族・文化に属していた。祭祀グループの秘神・至高神である。
伊勢神宮の祭司はアメノミナカヌシを信じていたのは上記による。
皇室の祖先はアルタイ語系の征服者。トルコ・モンゴル・ツングース語系である。天御中主を至高とする。
『続日本紀』天応元年七月(781) 中臣氏の遠い祖先の天御中主命とある。
中国「宋史」 アメノミナカヌシからヒコナギサに至る二十三世は筑紫の日向の宮にいた。
『住吉大社神代記』は、始源神としてアメノミナカヌシを挙げる。トリオの神は海人の伝統。


高皇産霊神
『古語拾遺』 高皇産霊神は忌部氏の祖。神産霊神は中臣氏の祖。忌部氏を中臣氏と同等以上としたい。
北方民族の特徴である父系・父権的な社会を体現する祖神。


2.宇摩志阿斯訶備比古遅神話
次に国稚(ワカ)く浮ける脂(アブラ)の如くして、海月(クラゲ)なす漂へる時、葦牙(アシカビ)の如く萌え騰(アガ)る物によりて成りし神の名は、宇摩志阿斯訶備比古遅神(ウマシアシカビヒコヂノカミ)、次に天之常立神(アメノトコタチノカミ)。この二柱の神もみな独神と成りまして、身を隠したまひき。

開闢三神話では最も古く入ってきた神話。
稚い国土の中から葦が生えてきた。
世界樹。世界を現す巨大な木にも例えられる。
台湾のアミ族は、国土の稚い頃、岩と竹からそれぞれ一人の男の独神が生まれた。この二神の膝から男・女が生まれ、人類の先祖となった。
人類の祖先が木・竹・果物から生まれたと云う神話の分布:東南アジア・アッサム・ラオス・タイ・印度の栽培民・農耕民文化の世界観。低湿地の農耕は弥生文化の水稲栽培民。豊葦原の瑞穂国の表現。


3.国之常立・原始混沌神話
次に成りし神の名は、国之常立神(クニノトコタチノカミ)、次に豊雲野榊(トヨクモノノカミ)。この二柱の神も独神と成りまして、身を隠したまひき。次に成りし神の名は、宇比地邇神(ウヒヂニノカミ)、次に妹(イモ)須比智邇神(スヒヂニノカミ)。次に角杙神(ツノグヒノカミ)、次に妹(イモ)活杙榊(イクグヒノカミ)。二柱。次に意富斗能地紳(オホトノヂノカミ)、次に妹(イモ)大斗乃弁神(オホトノベノカミ)、次に於母陀流神(オモダルノカミ)、次に妹(イモ)阿夜訶志古泥神(アヤカシコネノカミ)。
次に伊邪那岐神(イザナキノカミ)、次に妹(イモ)伊邪那美神(イザナミノカミ)。

天地の間は混沌としており、空虚。
開闢三神話では二番目に古く入ってきた神話。
国之常立神に続く神々は宇宙進化の段階を示している。
内陸アジアから中国南部を経てポリネシアに及ぶ広大な分布。日本にもよく似た考えがあった。
揚子江以南 老子「物有り混成し、天地に先んじて生ず」 鶏の卵のような中から盤古が生まれた。
海人。沿岸漁労民。水稲栽培民との接触が想定される。


二、働きが記されていない神


1.日月の誕生神話


「三の貴き子を得たり」とのりたまひて、天照大御神には高天原(タカマノハラ)を知らせ、月読命(ツクヨヨミノミコト)には夜(ヨル)の食国(ヲスクニ)を知らせ、建速須佐之男命(タケハヤスサノヲノミコト)には、海原(ウナハラ)を知らせ、と事(コト)依(ヨ)さしき。

トリオの神は海人族の伝統。ミクロネシア・ポリネシアの神話。トンガ。


上記の神々の統治分担は、応神天皇が、三人の子に天下の政を分け与えようとした分担と似通う。


2、品陀和気命の皇子
ここに品陀天皇詔(ノ)りたまはく、「大山守命(オホヤマモリノミコト)は山(ヤマ)海(ウミ)の政(マツリゴト)せよ。大雀命(オホサザキノミコト)は食国(ヲスクニ)の政を執りて白(マヲ)したまへ。宇遅能和紀郎子(ウヂノワキイラツコ)は、天津日継(アマツヒツギ)を知らしめせ」とのりたまひき。


3、邇邇芸能命(ニニギノミコト)、の御子。
木花之佐久夜毘売は、火を戸無き八尋殿(ヤヒロドノ)につけて産(ウ)みき。故(カレ)、その火の盛りに焼(モ)ゆる時に生みし子の名は、海幸彦・火照命(ホデリノミコト)、こは隼人(ハヤト)阿多君(アタノキミ)の祖(オヤ)なり。次に生みし子の名は、火須勢理命(ホスセリノミコト)。次に生みし子の名は、山幸彦・火遠理命(ホヲリノミコト)、亦の名は天津日高(アマツヒコ)日子穂穂手見命(ヒコホホデミノミコト)。三柱。


4、神武の三皇子
神倭伊波礼毘古命と伊須気余理比売命の御子の名は、日子八井命(ヒコヤヰノミコト)、次に神八井耳命(カムヤヰミミノミコト)、次に神沼河耳命(カムヌナカハミミノミコト)、三柱なり。
ここにその弟(イロド)神沼河耳命、その兄(イロエ)の持てる兵(ツハモノ)を乞ひ取りて、入(イ)りて当芸志美美を殺したまひき。故(カレ)、またその御名(ミナ)を称(タタ)へて、建沼河耳命(タケヌナカハミミノミコト)と謂(イ)ふ。ここに神八井耳命、弟(イロド)建沼河耳命に譲りて曰(マヲ)さく、「吾は仇(アタ)を殺すこと能(アタ)はず。汝(イマシ)命(ミコト)はすでに仇をえ殺したまひき。
故(カレ)、吾(ア)は兄(アニ)なれども上(カミ)となるべからず。ここをもちて汝(イマシ)命(ミコト)上(カミ)となりて、天の下治(シ)らしめせ


5、仁徳の子の三天皇
伊耶本和気命(イザホワケノミコト)は天(アメ)の下(シタ)治(シ)らしめしき。次に蝮之水歯別命(タヂヒノミヅハワケノミコト)もまた天の下治(シ)らしめしき。次に男浅津間若子宿禰命(ヲアサツマワクゴノスクネノミコト)もまた天の下治(シ)らしめしき。

伊耶本和気王(履中天皇)
后妃と御子、就任時のトラブル、若干の事跡と御陵

水歯別命(反正(ハンゼイ)天皇)
容姿と后妃と御子、御陵。欠史の天皇

男浅津間若子宿禰命(允恭(インギョウ)天皇)
后妃と御子、即位の事情、若干の事跡と御陵



三柱の神のうち、一柱には働きが記載されていない神があること。


天御中主神、月読命、火須勢理命、日子八井命には働きの記載が殆どない。
火須勢理命は天火明命として、海部氏、尾張氏の祖神とされている。また物部氏の遠祖の饒速日尊と同一視する見方もある。
肥後国阿蘇郡の草部吉見神社の社伝では、日子八井命は日向に帰り、地域を鎮撫したと云う。

応神天皇の三皇子の内、大山守命と宇遅能和紀郎子は皇位を巡って争うが、大雀命はらち外にある。丁度、三貴子の月読命と同じく、食国の統治を任されている。天皇としても、浮気症はひどいが、皇后の嫉妬の前で、右往左往するのみで、何も積極的行動がとれていない。

仁徳の皇子で天皇になったのが三人、うち、反正天皇には事跡の記載がない。欠史時代のようだ。
 ついでに『古事記』での崇神天皇以降の欠史の天皇:成務、仁賢、武烈、安閑、宣化、欽明、敏達、用明、崇峻、推古。

以上は、大林太良、吉田敦彦 両氏の著作を参考にしました。


三、神話が息づいている国、日本。
文明国で、古代の神話の神々が今でも生き生きと活動しており、祀り祀られている国は日本だけ。
日本で神話が生きているのは、神話の神々が神社に祭られており、多神教の仏教がふんわりと入ってきているのみで、一神教とされる世界宗教に席巻されていないから。
日本人こそ、はるかなるものを思う心 畏れ 慎み 歴史に連ならる者への共感を大切にする国柄。


四、古事記は「ふることのふみ」で、歴史書と言う普通名詞である。多くの古事記があった。
「多氏古事記」は『土佐国風土記』(逸文)に、モモソヒメの記事があり、「神を三輪とする」とこについて記載されている。


五、本居宣長『古事記伝』から。

 大年神の神裔については『古事記』のみに記載されている。 大年神は秦氏の信仰する神と思われる。多氏・秦氏・賀茂氏は強い繋がりがある。


建速須佐之男命(母神 大山津見神女大市比売)−大年神−
年は「田寄(タヨシ)なり。故、登志(トシ)は穀(タナツモノ)のこと。御霊を以て田に成して天皇に寄(ヨサシ)奉賜ふゆゑに云り。穀を一度取り収むるを、一年(ヒトトセ)と云うなり。


大国御魂神(母神 活須毘神女伊怒比売)
伊怒比売 国引き坐しし意美豆努命の御子、赤衾伊努意保須美比古佐倭氣命の社、伊努郷の中に坐せり。出雲国出雲郡式内社 伊努神社。尾張国山田郡式内社l伊奴神社[いぬ]


大国御魂神 諸国に大国御玉ノ神社と云う多し。然るに此処は倭の大国御魂なり。此神大穴牟遅神を助けて倭の国を経営坐し功徳ぞ有けむ。大和坐大国魂ノ神社三坐是なり。


韓神(母同上)
名の義未だ考え得ず。韓は借字か正字か、地名か、将韓(ハタカラ)国に由あるか、凡て知りがたし。
『紀』に「素盞嗚尊は其子五十猛神を率いて新羅国の曾尸茂梨の所に降臨」とある。これに関連するか?
延喜式神名帳に、宮内省坐神三座、園神社、韓神社二座とある。また神楽歌に、「三嶋木綿肩に取掛、我韓神のからをきせむやからをき、末、やひらでを手に執持て、我韓神のからをきせむやからをき。」とある。


曾富理神(母同上)
此の神も未だ考え得ず。地名などにあらずや。書記神代紀に、日向襲之高千穂添山峯、添山此云曾褒里能耶麻(ソホリノヤマ)と見え、又神武ノ巻に、大和ノ国に層富ノ県あり。
式内社に宮内省坐神三座があり、園神社と韓神社二座とある。ソノカラ神と一つに連ねて申しならべる。故に曾富理の神を即ち園ノ神と誰しも思ふこと。


白日神(母同上)
白の字は向の誤にて、牟加比なるべし。式に山城国乙訓郡向(ムカヒ)ノ神社大歳ノ神社と並び載れり。此の向ノ神社は、大年ノ神御子向日ノ神を祀るといふ。


聖神(母同上)
名の義未だ考え得ず。聖は借字にて、是も地名にもあらむ。和泉国和泉郡に聖神社あり。


大香山戸臣神(母 香用比売)
香用比売。香は加賀と読むべし。香の字を此の二音の仮字に用いたる例は、伊香色謎ノ命これなり。
大香山戸臣神。戸は斗、臣は意美と訓べし。又戸臣ノ二字を斗美(トミ)とも訓べし。山戸は山なる民の居所にて、いはゆる山里なり。戸は仮字にて處の意なり。さればこの神は、山里を開きて、民の居べき處を成したまえる功徳ありけるにやあらむ。


御年神(母同上)
名の義大年に同じ。此神も父神と同じく穀の事に大なる功坐シしなるべし。『古語拾遺』に、此神、大地主ノ神の田に祟りをなし給ひし故事(フルコト)を記せり。神名帳に、大和ノ国葛上郡葛木御歳ノ神社、高市郡に大歳ノ神社御歳神社あり。祈年祭ノ祝詞に、御年皇神能前爾、白馬白猪白鶏種〃の色物乎備奉て云々、とある。


奥津日子神(母 天知迦流美豆比売)竈神
奥津比売神亦名大戸比売神(母同上)
竈神


大山咋神亦名山末之大主神(母同上 坐近淡海国日枝山亦坐葛野松尾、用鳴鏑神者也)
此二ツの名ノ義、いかなる故か、未ダ思ヒ得ず。山と云うは、共に日枝ノ山に因れる名にや。
上の山ノ字に上聲を注せるは、大山とは連(ツヅ)かず、山咋と連く名にて、其読聲(ヨミコエ)なり。咋とは、亦の名の大王と同意にて、其山に主(ウシ)はき坐ス意にや。亦山に末と云は、麓を山本と云に対ひて、上ノ方のことなり。大祓ノ詞に、高山末短山末などあり。


○近淡海国。和名抄に、近江ハ知加津阿不三とあり。○日枝ノ山に坐すとは、神名式に、近江国滋賀郡日吉ノ神社是レなり。○鳴鏑。名ノ義は鳴神夫理矢なり。射れば空を鳴り行くが、雷に似たればなり。『釈日本紀』丹塗ノ矢は松尾大明神是也、松尾大明神は大山咋神、用鳴鏑矢。
 
本居宣長『古事記伝』は上まで。


庭津日神(母同上) 阿須波神(母同上)  波比岐神(母同上) 地主神
香山戸臣神(母同上)  羽山戸神(母同上) 
 山の神 
庭高津日神(母同上)  大土神亦名土之御祖神(母同上)
その他の神


六、丹塗矢伝説


『日本書記』には記載がない伝承。『古事記』では、神武天皇の后の誕生伝説に出てくる。
三島湟咋の女、名は勢夜陀多良比売の容姿麗美しかりき。美和の大物主紳、見感でて、その美人の大便まる時、丹塗矢に化りて、その大便まる溝より流れ下りて、その美人のほとを突きき。矢は壮夫となり美人を娶って比売多多良伊須気余理比売が生まれた。『紀』事代主がなった大きな鰐。 八尋熊鰐


『山城国風土記』
可茂別雷命と号く。所謂丹塗矢は、乙訓の郡に坐せる火雷神なり。
丹塗矢は雷光であり、日の光である。丹塗矢伝承は日光感精伝承の一である。丹塗矢伝説を伝えたのは三輪氏・賀茂氏である。

『秦氏本系帳』 秦氏の女子が葛野川で洗濯をしている時、矢が上流から流れてきた。女子は矢を取り、持ち帰った。女子は夫がいないのに妊娠し、男子を産んだ。男子に父神に酒をつげと命ずると、男子は屋根を破って天に至った。矢は雷公であった。だから鴨上社を別雷神と云い、鴨下社を御祖神とする。矢は松尾大明神是也。
秦氏の話は『古事記』に符合している。丹塗矢とは鳴鏑矢と同じイメージ。

首露伝説の洛東江の鮎の話
河口の水辺で一人の両班の娘が洗濯をしていると、ふと足の踝をつつくものがある。見てみると、それは一匹の鮎であったので、乙女は好奇心にかられ、鮎を盥に容れて持ち帰ったが、これが縁となって、その娘は懐妊し、やがて立派な男の児を生んだ。首露王。

伽羅・新羅の水辺の日光感精伝承が、秦氏を通して加茂の丹塗矢伝説になり、さらに同じく大田田根子を祖とする三輪氏の伝承になったと思われる。


大和葛城の鴨氏が秦氏と共に山城へ移住している。
また葛城の秦氏は三輪山の北隣に移動し、そこに穴師兵主神社を祀り、弓月岳を兵主神の神体山とした。

『出雲国風土記』嶋根郡加賀郷
佐太大神の生れましし所なり。御祖、神魂命の御子、支佐加比売(キサカヒメ)命、「闇き岩屋なるかも」と詔りたまひて、金の弓矢以ちて射給ひし時に、光り加加明(カカヤ)けり。故、加加と云ふ。

天日矛命と妻、阿迦留比売 ヌードビーチ
阿具沼の辺で昼寝をしていた女のホトに日光がさし、懐妊をして赤玉を生んだ。

伊豆志袁登売神
出石神社祭神の御子)が、春山の霞壮夫が花で飾られた矢を置き、乙女がこれを持ち帰る時、後ろについていって婚した。

 その他の鳴鏑 抜けない 神が飛ぶ。神霊が飛ぶ。魂が飛ぶ。精子が飛ぶ。丹塗矢。日光。
 大己貴命の根の国訪問
須佐之男尊が鳴鏑を大野の中に射入れて、その矢を採らしめたまひき。故、その野に入りし時、すなはち火もちてその野を焼き廻らしき。


「古事記伝」
 
名の義は、鳴神夫理矢。射れば空を行くが、雷に似たればなり。さて、この矢、記中に往々見えたり。古へもはら用ひし物と見ゆ。

 神武東征 ここに宇陀に兄宇迦斯・弟宇迦斯の二人あり。かれ、先づ八咫烏を遣はして、二人に問はしめて曰はく、「今、天つ神の御子幸行(イデマ)せり。汝等仕へ奉らむや」といひき。ここに兄宇迦斯、鳴鏑を以ちてその使を待ち射返しき。

脅かす時に鳴鏑を用いたか。天若日子が鳴女(ナキメ)を射たのは、天のかく矢であった。
「古事記伝」
天之加久矢。加久は迦古と同じ。即ち真鹿児矢であり、鹿を射る矢である。

葛城の一言主大神
 
雄略天皇、葛城の山の上に登り幸しき。ここに大猪出でき。すなはち天皇鳴鏑(ナリカブラ)をもちて、その猪を射たまひし時、その猪怒りてうたき依り来つ。
猪を殺さずに、脅かしてしまった。この後、雄略は木に登って猪を避ける。

万葉集巻九1678
紀の国の昔弓雄(さつを)の響矢(かぶら)もち鹿(か)取り靡(なび)けし坂の上(へ)にそある
ここは紀の国の昔、猟師がかぶら矢をもって鹿を殺し従えた、坂の上であるよ。(鹿神平定譚)


以上

宇賀網史話

神奈備にようこそ