Uga 皇極天皇の譲位について

1 大化改新の詔 第一条 部民制の廃止。
 部民制とは、王権への従属・奉仕、朝廷の仕事分掌の体制である。その業務は極めて多いが、大きく2種に分けることが出来る。1つは何らかの仕事にかかわる一団で、もう1つは王宮や豪族に所属する一団である。
前者の例としては語部・馬飼部などがある。語部は、伴造(とものみやつこ)である語造(かたりべのみやつこ)氏に率いられ、古伝承を語り伝え、宮廷の儀式の場で奏上することをその職掌とした。
 後者の例としては王族の額田部女王に属した額田部、豪族の蘇我臣や大伴連・尾張連に属した蘇我部や大伴部・尾張部などがある。ただし後述のように、朝廷に対する奉仕を媒介として設定される点では職業系の部と通底している。

 詔の第1条は、土地・人民に対する私的な所有・支配を排除し、天皇による統一的な支配体制への転換を示すものである。しかし、実際にはかなり後世まで豪族による田荘・部曲の所有が認められていることから、必ずしも私的所有が全廃された訳ではないことが判る。
 部民制から公民制へ、支配構造を豪族から官僚的貴族への転換を目標とした。

2.年表
推古
592 推古天皇(敏達大后)即位
596 飛鳥寺完成
603 推古。小墾田宮に遷宮
628 推古 崩御


舒明
629 舒明天皇(田村皇子)が即位。
630 のちの皇極天皇を大后に。
639 舒明、百済大宮と百済大寺の造営を始める。西の民を寺を造るため徴発。東の民を宮を造るために徴発。百済川のほとりに九重の塔が建つ。
631 舒明、百済大宮に遷座
641 舒明が百済宮で崩御。喪を発す。誄の順は、敏達天皇の皇子の大派皇子(年配者)、次に軽皇子、次に入鹿とある。

皇極
642 大后の皇極が百済大宮で即位天皇が南淵で祈雨の祈りを行うと雨が降った。飛鳥板蓋宮の造営のために諸国から役夫を徴発する。
この年に蘇我蝦夷は葛城に高宮を立て、八?之?を踊り、歌を歌う。
643 朝堂で宴会。蘇我蝦夷が病気で朝廷に参上しない。蘇我入鹿に紫の冠を授けた。
蘇我入鹿が巨勢徳太臣と土師娑婆連に命じて斑鳩の山背大兄王を襲わせる。皇極や軽皇子も承知の上か。蘇我蝦夷は入鹿の行為に怒る。
644 蘇我蝦夷と入鹿が甘檮岡に家を二つ並べて立て、まるで天皇のように振る舞い、武装した。
645 乙巳の変により蘇我入鹿死亡。翌日蝦夷自殺、蘇我本家滅亡。

孝徳
645 皇極、軽皇子に譲位。孝徳天皇として即位。
    皇極を 皇祖母尊(実際は 王母 )皇室家の長たる女性の意味。
645 難波長柄豊碕へ遷都。
646 改新の詔
652 難波長柄豊碕宮が完成。
653 中大兄皇子が孝徳天皇に大和へ都を映すように提言するが、天皇は拒否。しかし、皇子は王母皇極・間人皇后たちと倭京の飛鳥河辺行宮に移動。役人も従った。
654 孝徳天皇が死亡。


斉明
655 飛鳥板蓋宮で斉明天皇(皇極天皇)重祚。
655 小墾田宮を瓦葺きにしようとするが失敗。飛鳥板蓋宮が火災。飛鳥河原宮に遷る。
656 後飛鳥岡本宮を建てて移る。斉明天皇が宮を建てまくることが批判される。吉野宮を作るが火災。
    香具山と石上山の間に運河を掘削。
658 有間皇子は縛り首に。
661 斉明天皇が朝倉宮で崩御。

3.皇極の即位事情
 舒明崩御時には「大兄」と呼ばれる皇子は3人。古人大兄、山背大兄、中大兄である。中大兄は未成年、古人大兄、山背大兄は有力な皇位継承者。大兄とは皇位の業務の一部を分掌していた。古人は内政、山背は外交。大王に集中・体現された権力とは伴造・部民制を構成した大王に対する個々の貢納・奉仕の関係を総括したものであった。大兄はこの一部を任されていた皇子の称号と考えることができる。皇太子の意味ではない。
 大后は大王の身内の女性に限られ、大王と共に王権を共有していたので、その政治経験は大兄達とは比べ物にならないほど大きかった。大王の死後の大王候補の有力な候補となりえたのである。この時代は皇位も安定しており、武力に優れていることは王位に必要条件ではなかった。推古天皇のように女性も大王になりえた。皇極が有力な二人の大兄を差し置いて大王位をついだ。
 やりたいことがあり、皇位を望んだのであろう。加えて息子の中大兄皇子に引き継ぎたいと思っていたはずである。

4.皇極の治世
 最大のテーマは、亡夫舒明がやり残した百済大寺・百済大宮を完成させることだった。   
 しかしあっさりと百済を捨て、飛鳥川東岸の整備を行い、都市空間を完成させることにした。内外への大王権力を可視的に示す都市空間の構想の完成である。蘇我入鹿はどのようなスタンスであったかは『紀』では明らかではない。
 皇族の有望な皇位継承者の山背大兄王を滅ぼすことに加担するなど蘇我氏の横暴は酷くなって来ており、古人大兄王に次の皇位を持っていかれる懸念や皇族殲滅・易姓革命の恐れもあった。天皇と雖も簡単には心根をもらせない。相談したのは皇位継承路線から外れていた同母弟の軽皇子と息子の中大兄皇子であったと考えられる。蘇我蝦夷・入鹿親子を成敗しようと決意したのであろう。天皇家に匹敵する勢力を持った蘇我本家を滅ぼせば、天皇家は一強となれるとの思いがあったのだろう。

5.乙巳の変と孝徳への譲位
 見事な変の成功には、天皇の陰ながらの協力があったはずである。この変での皇極の退位は必要なかったが、他の豪族や世間の目もあり、軽皇子に譲位をすることにした。この譲位は全権を移譲したのではないのは、孝徳死後に、重祚していることからも推測できる。
 この譲位の目的は、皇極の目標の達成に集中するためであったと思われる。飛鳥の都市空間の建設には多くの人民を各地から徴発してくる必要があったが、部民制の下では思うようにいかなかった。部民の持ち主の了承が必要であって、収穫期だ、災害の後で人手が足らないとか、さまざまな抵抗にあったのだろう。現代で言えば、軍事基地を造るのに、都道府県の許可が要るのと同じことだ。
 大化の改新の詔の第一条がまさに部民制の廃止である。このお触れで廃止されたとは考えにくいが、人民の動員は少しはやり易くなったのだろう。これが孝徳天皇に皇位を譲位した最大の理由であった。この力仕事を男弟にやらせたのである。
改新の詔は後世に変えられている可能性があるが、今後の国の形を示したものである。

 それでも難波の宮の造営に8年ものの物時間がかかっている。掘っ建て柱でこれである。大寺は瓦葺きだったようで、更に時間がかかったのである。
 おそらく孝徳9年には飛鳥宮が完成したのである。板蓋宮である。これで皇極・中大兄・間人皇后と役人達も飛鳥に引き上げた。孝徳は置いてきぼり、実権を失った。中大兄に譲位を考えたのであろうが、有間皇子を後継にしたいとの想いがあり、踏みとどまったのであろう。
以上

参考 『天皇と日本の起源』遠山美都男(講談社現代新書) 『古代王権論』義江明子 岩波書店