難波の怪異 平成ヘイセイ二十20ネン十一11ツキ 神奈備
用明天皇の頃 難波の宿館に、土師連と云う者がいた。声妙なる謡の上手。夜、家にて謡を謡うと、屋の上で謡う者がいた。
怪しんで謡を止めれば音もせず、謡へばまた謡う。驚いて外に出てみると、逃げる者があり、追って行くと住吉
の浦に走り出て、水に入り失せた。これは螢惑星がこの謡を賞でて化けて坐しける。聖徳太子伝に見えたり。
ホタル惑星ワクセイとは火星カセイのこと 住吉スミヨシ大社タイシャ祭神サイジンツツオトコカミホシカミであるし、浦島ウラシマ伝説デンセツもある。
大化元年(645) 孝徳天皇は難波長柄豐碕に遷都した。老人等は語り合い、「春から夏にかけて鼠が難波に向かったのは
遷都の前兆だったのだ。」と言った。 ネズミ孝徳コウトク天皇テンノウ一派イッパ支配シハイ階級カイキュウのこと
大化三年(647) 十二月の晦、皇太子の宮に火災がおきた。ときの人はおおいに驚き怪しんだ。
天智テンジ7ネン(668) クサツルギ新羅シラギソウシャモンによりヌスまれるも難波ナニワアラシ遭遇ソウグウツルギタタりとしてフネよりツルギ放出ホウシュツオクソクシャ奉納ホウノウ
朱鳥元年(686) 難波大藏省からの失火で宮はことごとく燃えてしまった。或いは、阿斗連藥の家から失火、その火が宮に燃え
ツキ14 北風キタカゼ 移った。ただ、兵庫職は燃えなかった。天武テンム発病ハツビョウクサツルギ熱田アツタカエす。
天平十三年 三月、連日、百八108の鸛(こうのとり おおとり)が難波宮の殿舎のうえにやってきて、楼閣のうえに集まったり、
西暦セイレキ(741) 太政官の庭に降りたりしている。政府は鎮めの儀式を行った。8ショウ100カンのこと
アサからヒルまで、これは役人ヤクニン勤務キンムより2時間ジカンオソい。
天平十三年 ウルウ3ツキ、難波宮で、庭に狐の頭だけがころがっていた。怪を鎮める儀式が行われた。
白雉四年(653) 皇太子は「倭の京に遷りたい」と申し入れるも、不許可フキョカ、百官はじめ皇族コウゾクは間人皇后まで飛鳥に遷る。
白雉五年(654) 元旦 鼠が倭の都に向かって走った。 ムラサキカン鎌足カマタリサズけた。鎌足カマタリ飛鳥アスカかずか?
延暦三ネン(784) 体長四分ばかりで黒い斑の蝦蟇二万匹あまりが、難波の市の南の道から三町ほどの行列をつくって南に
向かい、四天王寺の境内に入って、どこともなく消え去った。
難波ナンバ マツマチスジから谷町タニマチスジカコまれて、南北ナンボクウエ6からウエ9範囲ハンイ コメイエいた土器ドキ製塩セイエン土器ドキ
松屋マツヤマチには大江オオエ公園コウエンなどあり海岸カイガンであった。ウエ6付近フキンからは海岸カイガン難波ナンバ付近フキンまでで、マツえていた。
『日本霊異記』  河内国若江郡遊宜村に沙弥尼がいた。平群山寺に住んでいた。四恩のために像を描き、その中に六道を 4オン
描いた。供養ののちに寺に安置し、六道の絵解きをしていた。ところが、その像が盗まれ、哀しみ泣いて求め 父母フボ
たが、とうとう見つけることができなかった。難波に行って、市場を徘徊した。ここで発見して取り返したと言う。 チョウ先生センセイ
平城京ヘイジョウキョウにもあった。難波ナンバ繁昌ハンジョウしていたアカシだ! 国王コクオウ
正倉院ショウソウイン文書モンジョ ゾウ東大寺トウダイジ購入コウニュウ クロコメ白米ハクマイウミシオ大豆ダイズ大麦オオムギ小麦コムギウミコモホソナワ 餌香市は橘 施主セシュ衆生シュジョウ
延喜式エンギシキ』 ほか サケソウウス、ひさご、カゴツキタカツキサラカメツボ  綿ワタ粗布ソフ 軽市は槻
阿斗桑市は桑 6ミチ
その 海石榴市は椿 テン
 難波ナニワ ヨウ調チョウベイヌノ)のれ、テツ素材ソザイベイなど、カン必要ヒツヨウなものの売買バイバイ (いち)はチマタ。 人間ニンゲン
 天王寺テンノウジ西門ニシモン 難波ナニワ衰亡スイボウしたノチ、ここにイチ発生ハッセイハマとよばれた。今宮イマミヤエビスカミ 他の共同体との結節点。 修羅シュラ
 黒門クロモン市場イチバ 魚介類ギョカイルイオオい。難波ナンバ海岸カイガン沿いでは海産物カイサンブツサカナ干物ヒモノ)がアキナわれていたはず。 シタガって境界キョウカイにできる。 畜生チクショウ
餓鬼ガキ
機能キノウ この時代の官人は半年毎に綿・布・鍬などが支給され、月々には米・塩などの支給を受けていた。 地獄ジゴク
家庭に必要なもの以外は市で銭に替え、必要なものを買い求めた。 外道ゲドウ
教育キョウイクせしめ
『養老獄令』 「死刑は市で執行せよ。」とある。死刑だけではなく、杖で打つ刑も行われた。 雄略ユウリャク9ネン
敏達ビタツ十四14ネン 仏法ブッポウ中止チュウシメイけ、尼達アマタチ法衣ホウエウバい、ウミイシリュウ鞭打ムチウちのケイオコナう。 ハン河内カワチチョクカオタマワ釆女ウネメ
『雄略紀十三年』 「歯田根命が釆女と通じたので、罰として所有の資財を餌香市の橘の木のもとにむきだしにして置かせた。 ツカわして宗像ムナカタカミマツ
らされた。カオタマ神域シンイキ
ゾク日本ニホン 称徳ショウトク天皇テンノウミヤサイワイ ウタカキ渡来トライケイ氏族シゾク男女ダンジョ230ニン奉仕ホウシ5クライ以上イジョウ人々ヒトビトオンナジュ に入ってイマにも行事ギョウジ
宝暦ホウレキ元年ガンネン(770) 参加サンカさせた。 乙女オトメらに オトコい みならす 西ニシミヤコは マンミヤ オコナおうとするトキ釆女ウネメ
ウタカキ禁令キンレイ ルイシュウ3ダイカク 766ネンウタカキタイする禁令キンレイリョウキョウ畿内キナイ人々ヒトビトされる。 オカした。
フトセイカン 797ネン キンダンカイシュウトキ男女ダンジョコンザツコト
それでも 大和ヤマト物語モノガタリ 950ネンコロ成立セイリツ ヘイチュウイロコノみけるさかりに、きけり。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                            
相撲スモウ ゾク日本ニホン延暦エンリャク8ネン(789)イシウエチマタ相撲スモウをとった。
古代コダイ民俗ミンゾク 天皇・貴族・寺社 神事   士農工商 農耕 相撲・遊女・巫女・任侠・盗人・乞食コジキ・優婆塞  渡世 農耕ノウコウとはタイ
ジャレイハラジョ ハイセイズイ使)をウミイシリュウチマタムカえる
死者シシャとの交流コウリュウ カタシオヒメ推古スイコハハ)の誄(死者シシャイタ)をカルマチナカ奏上ソウジョウ
万葉集マンヨウシュウ二〇七207 柿本朝臣人麿が、妻(め)の死(みまか)りし後、泣血哀慟(かなしみ)よめる歌
天(あま)飛ぶや 輕(かる)の路は ・・   妹が名呼びて 袖ぞ振りつる
慶雲ケイウン2ネン(705)6ツキ キョウミヤコキヨシソウ雨乞アマゴいをさせるとトモに、ミナミモンをやめた。
管理カンリシャ 魏志ギシ倭人伝ワジンデンクニユウ 交易コウエキ有無ウム 使ツカダイヤマトコレ   平和ヘイワ領域リョウイキケンびての入場ニュウジョウ禁止キンシ ジンがいた。
カミ コンヒカテラ縁起エンギエンレキ104ネン(796)宗像ムナカタ大神オオカミマツる。それ以前イゼンイシなどとトリデカミ自然シゼンカミ 比売ヒメ神社ジンジャ