Uga 物部氏について


1. 神武紀に見る大和の歴代王朝
伊弉諾尊 日本(ヤマト)は心安らかな『浦安の国』。細矛(クワシホコ)の千足(チダ)る。磯輪上秀眞国(シワカミホツマクニ)。優れてよく整った国
大己貴大神 玉牆内国(タマガキノウチツクニ)美しい垣のような山に囲まれた国
饒速日命 虚空(ソラ)見つ日本(ヤマト)の国 大空から眺めてよい国だ
神武天皇 内木錦之眞?国(ウツユウノマサキクニ)ではあるが、蜻蛉(アキツ=トンボのこと)が繋がっているようでもあるなぁ

『紀』の編者は、大和王朝に至るこの国の各王朝の初代の国誉めの言葉を並べた。
 
 国造制は大化の改新で廃止されましたが、出雲と紀伊の国造は存続が認められました。これは、滝川政次郎の『唐の二王後の制と我が二国造の制』と田中卓の『日本の建国史 三替統合の精華』によりますと、唐は前前王朝の北周と前王朝の随の子孫を処遇したようです。 天武天皇はこの制を取り入れたと考えられています。
 大和王朝の前前王朝は大己貴大神から、前王朝は饒速日命から始まったとの理解があったのでしょう。大己貴神と出雲大社と出雲国造は分かりやすい関係ですが、饒速日命と紀伊国造との関係はどういうことでしょうか。紀の初代国造は天道根命です。饒速日尊の天降りに防衛[ふせぎまもり]として天降り供へ奉る32神の1柱の神です。
 『姓氏録』和泉神別に、物部連は紀伊国造同祖(神魂命後天道根跡)とあり、紀伊と物部の深い関係が認められていたのでしょう。



2. 物部の故郷
 筑紫平野から遠賀川流域と、河内・大和に、物部氏系の神社が多く鎮座しています。神武天皇の東遷の前に物部氏の東遷があったと思われます。東遷の時期もは物部ではなく、オチという姓だったようです。(鳥越憲三郎)東遷のルートは四国北岸を通ったようです。豊後から伊予(伊予物部、布都神社)、讃岐(讃岐物部)、阿波(建布都神社)のルートのようです。
九州の物部
  久留米市鎮座の高良大社「高良玉垂神」の代々の大祝(神主)は物部氏で、物部の祖神を祀っていたと推測されています。水縄山地の周辺の筑紫平野に物部氏族が分布していた。谷川健一氏は邪馬台国と地域が重複しており、その圧力で物部氏は東遷したと見ています。物部氏の勢力と天孫の勢力と重複していたのかもしれません。
 『肥前国風土記』三根郡物部郷 の段に、物部経津主の神の鎮座の記事があります。剣の神です。鳥栖市に姫古曾神社が鎮座、別の名は磐船神社、棚機神社と言い、饒速日尊と七夕神を祀っています。小郡市にも媛社神社が鎮座、饒速日尊を祀っています。
 遠賀川流域の筑前国鞍手郡に、古物神社「布留御魂神社、剣神社」が鎮座、この流域には物部系神社が多く鎮座しています。
 九州の物部氏については、古くからの物部氏と、継体期に磐井の乱の鎮圧に物部麁鹿火の起用と統治があり、これ以降の物部氏と混ざっているようです。


3. 畿内の物部
 東遷してきた物部氏は畿内各地に入植した。茨木市南部の東奈良遺跡からは銅鐸の鋳型が出土しており、物部氏の一つの拠点だったのでしょう。
 巨岩がご神体の交野の磐船神社は肩野物部が祀った神社だったのでしょう。交野の東南側の山地に3世紀とされう古墳があり、物部氏の古墳と見ることができます。
 物部と言えば、ヒノモトの日下の草香が思い起こされます。石切劔箭神社は河内の物部氏の氏神と見なされています。
 鳥越氏は八尾の恩地神社を斎祀ったとしています。オチさんの祀った神社です。
 『先代旧事本紀』には、「天祖、天璽(てんじ)、瑞宝十種を以って、饒速日尊に授く、則ち、この尊 天祖御祖(てんそみおや)の詔(みことのり)をうけ、天の磐船(いわふね)に乗り天降り、河内国河上の哮峰(いかるがだけ)に座(いま)す。則ち遷(うつ)りて大倭国鳥見(やまとのくにとみ)の白庭山に座す」とあります。
 河内の哮峰とは、生駒山の頂上(6423)で、今は遊園地の中 と思われます。
 大和の白庭山とは、河内から大和に入ったルートとして、大和郡山市の矢田坐久志玉比古神社付近に行ったとされ、この神社の鎮座地の南西1knに白庭山があるとされています。
 唐古・鍵遺跡は物部氏の活動の跡でしょう。銅鐸片や銅剣が出ています。
 畿内の物部氏では共通の祖伸として饒速日尊が創出されたと考えています。河内と大和から見える生駒山が降臨の地として選ばれました。


4. モノノフと物部
 『万葉集』の中に「物部」という文字が十首以上ありますが、全て「モノノフ」と読まれています。
 一方、各地方で警察・監獄を運用する組織を物部(モノノベ)と名付けました。悪事を働く人間には悪霊が憑いており、物を相手にする部民としての物部が各地の豪族が任命されました。ヤクザの親分に十手を預けるようなものです。古代は十手ではなく、鉄剣を持たせました。垂仁天皇の皇子の五十瓊敷入彦命が泉南で刀剣千振を制作し、石上神宮に納めた説話がありますが、配布するための刀剣の物語です。
 韓国語の水はムルで、これは物と同じ発音です。しかし水を司る意味はなさそうです。
 地方の物部を統括するため、中央でオチ氏が選ばれ、物部の棟梁とされました。これで多くの疑似氏族が誕生しました。一見、大勢力ですが、物部守屋の滅亡に見るように、地方や本家以外の物部氏族は知らん顔でした。
  オチ氏がいつ物部氏に任命されたのでしょうか。
 王権とのかかわりは、神武天皇と宇麻志麻治命、それぞれ各天皇に連(ムラジ)・大連として物部氏の族長の名前がペアのように記されています。但し、応神・仁徳帝には物部氏の名前は出てきません。応神の宮廷革命の際には、忍熊王サイドの立場だったのかも知れません。しかし鴨氏のように中央から名が消えず、履中帝の時には重要な働きをしています。復活といえるでしょう。物部氏は警獄の仕事であって、軍事氏族でなかったので、忍熊王に深くは肩入れをしなかったといえるでしょう。軍事氏族であれば、物部守屋が自ら奮戦することもなく、簡単には滅ぼされていなかったと思われます。
 物部氏が警獄氏族であった理由。
垂仁26年 物部十千根大連に命じて出雲の神宝を調べ、手に入れた。
雄略7年8月 吉備弓削部虚空の密告で吉備下道臣前津屋が、少女や鶏を使った無礼な遊びに興じていると述べる。物部に命じて前津屋の一族を皆殺しにした。総勢30人の要員。
雄略18年8月 物部目連に伊勢の朝日郎を征伐させる。九州の物部大斧手の活躍によって朝日郎を誅殺した。
 宗像で凡河内直香賜がこれから神事を行おうとする釆女を犯した。雄略天皇に死罪を命じられたが、逃亡したので弓削連豊穂が探し出して斬刑に処した。
 守屋が敗北した際、部下の捕鳥部万が一人で数百人を相手に奮戦した。
 物部麁鹿火が筑紫の君の磐井との戦いでは一騎打ちになっている。
 物部氏の軍の構成は真田十勇士のような連中の集まりではなかったかと思われます。 
 さて、物部氏の誕生ですが、垂仁朝の五十瓊敷入彦命の刀剣つくりや五大夫の一人として物部十市根が任じられており、この頃に物部氏として登場したものと考えています。


5. 守屋のこと
 『播磨国風土記』には、播磨の石の宝殿(生石神社)は守屋がつくらせていたが、死亡したので未完となったとあります。
 英雄流離譚の一つでしょうが、物部守屋は丁未の乱(ていびのらん)では漆部巨阪が身代わりとなり、本人は生き延びて萩生翁と称したと言う。近江浅井(滋賀県浅井郡)の波久奴神社に伝承が残っています。

 守屋の財産と人員の半分は四天王寺に与えられた。現在まで寺人として仕えています。
 長野の善光寺の本堂の奥に守屋柱があります。守屋の首が埋めてあり、霊を封じるための柱との説があります。また、善光寺そのものも守屋の霊を封じるためとも言われています。
 藤井寺や八尾に善光寺と言う寺が現存しています。本田善光とかかわりがあると言う。                                 以上

参考書
『太いなる邪馬台国』鳥越憲三郎 講談社
『白鳥伝説』谷川健一 小学館
『物部氏 剣神奉斎の軍事氏族』星雲社
『物部氏の伝承と史実』前田晴人 同成社

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