Uga物部守屋

1. 欽明天皇の時代
 『紀』 元年 540 物部尾輿大連、大伴金村大連を失脚させる。任那割譲問題(512)のこととするが安閑宣化を即位させたことを巡っての政争と思われる。
 『上宮聖徳王帝説』等 538 百済の聖明王(『三国遺事;百済王暦』聖明即位26年)によって、仏教が王権へ伝達された。 
 『紀』十三年 552 聖明王(『三国遺事』即位26年)によって仏教公伝した。

 二書の差は百済の聖明王即位の年度の差に起因するというのが上田正昭説。*1
 百済武寧王の慕誌から、武寧王の没年=聖明王の即位は523年であることが判明した。聖明王26年は548年となる。興味深い説であるが、今となっては不明としかいいようがない。
 朝鮮三国は冊封体制に入ってからの仏教を受容であり、各王も貴族も中国王朝に反対の意思を示すことができなかった。

 『元興寺縁起』 欽明天皇は諸臣に、「他国より送り度せし仏教を用いるべきか否かについて良く計り返答するように。」と命じた。仏教の受容は、天皇の統治権にかかわる問題であり、天皇自らが決定すべき問題であったが、いささか優柔不断な姿勢であった。倭の天皇は稲作の為の産霊神の祭祀王としての役割があり、決めかねていたいのであろう。

 一方、仏教は私的にはすでに入って来ていた。卑弥呼の頃の銅鏡のなかに数面の三角縁仏獣鏡が入っており、また九州の寺院の創建年度が仏教公伝の時より古いものが見られる。雄略朝の豊国奇巫が登場しているが、仏教がらみかも知れない。

羽曳野市出土画文帯仏獣鏡

 各豪族は概ね仏教の概要を承知しており、自らの立場を決めていたと思われる。物部尾輿は反仏であり、蘇我稲目は奉仏であった。

 欽明天皇は聖明王から送られた仏像等を稲目に与え、彼は小墾田の家に安置した。聖明王への義理は果たしたことになる。渡来人の多くは仏教を奉じていたので、稲目は渡来人の支持を受けることになった。
 
 蘇我氏が仏事を行って一年後、疫病が広がり、多くの病死者が出た。反仏派は奉仏派が他国神(あだしくにのかみ)を祀るから国神(くにつかみ)が祟ったと主張し、奉仏派は祀らないからと主張した。ここでは他国神も国神と同じく祟り神との理解である。

 国神とは地域の神であり、豪族の祭祀によって領有地の豊穣・安寧をもたらす神である。一方、他国神は国や地域を越えた普遍性があり、国神と他国神(仏)は基本的に対立するものではない。これは疫病によって被害を蒙った地域の反仏派と奉仏派の豪族間の反目と見ることができよう。

 欽明天皇は蘇我稲目に他国神を礼するは罪であり、奉仏を許すべきではないと告げた。これに対して稲目は表向きは反仏派のようにふるまうが、内心では他国神を捨てないと決意を述べ、欽明天皇も自分も同じ考えであると告げた。
 とにもかくにも反仏派が力を増し、物部尾輿らは蘇我氏の建立した堂舎を焼き、仏族・仏具を難波の堀江に流し百済に放逐した。

 物部尾輿や守屋はどのような意識を持って生きていたのだろうか。
 物部氏の遠祖饒速日大神の十三世(守屋)であり、どこよりも歴史の深い氏族である物部氏の棟梁であるという意識。
 天皇統治の基盤は神祇祭祀にあり、これを守り抜くとの意識。

 

2. 敏達天皇の時代
 敏達六年 577 「私部(きさいべ)」が設置された。従来は后紀(きさき)それぞれのための名代である部(例えば安閑皇后の春日山田皇女の部は「春日部」である。)が設置され、生活を支えていた。「私部」は后妃全般を資養する部として設定された大がかりなものである。これは敏達皇后の豊御食炊屋姫(後の推古天皇)の権力基盤として機能した。
 豪族の奥方達から見ると実家からの仕送りに頼らざるをえない立場とは大きく違うもので、垂涎の的だったのだろうと思われる。

 敏達天皇は仏法を信(う)けたまわずして、文史(しるしぶみ)を愛(めぐ)みたまふ、と『紀』に見えるよに、仏教受容には否定的であった。

 『元興寺縁起』敏達十二年 583 災いを得た蘇我馬子が筮卜で占ったところ、父の祀った神(仏)の祟りであることが判明した。驚愕した馬子は仏法を広め、仏の心を和らぐように出家する人を探した。渡来系の氏族の少女三人を見つけ、桜井道場に住まわせた。『紀』では、仏殿の石川精舎(橿原市)を作ったとある。「仏法の初め、慈(ここ)より作(おこ)れり。」とある。大臣が祀ったものだが、これは「和宅仏教」である。個人としての仏信仰は、もっと早い時期に九州などで行われていたと考えられている。

 『元興寺縁起』敏達十四年 585 豊浦碕に塔の心柱を建てて、舎利を柱頭に納める仏事法会が行われた。破仏の機会を待ち構えていた敏達天皇は命を下し、造立されたばかりの塔の心柱を伐り、仏像と安置している建物を焼いた。『紀』では、物部守屋・三輪逆・中臣磐余の三人が破仏に働いた。出家三尼は法衣を脱がされ、尻や肩の鞭打ちの刑を受けた。

 『紀』敏達十四年、天皇崩御。殯宮で、蘇我馬子は刀をさして誄をおこなった。守屋は大きい矢で射られた雀のようだとあざけた。守屋は物部流で足をふるえさせて誄を行ったのを見て、馬子は鈴を取り付けたらいいと笑った。大連と大臣とは互いに恨みを持った。


3.用明天皇の時代
 『紀』用明元年 586 敏達天皇の死後、妃の豊御食炊屋姫(のちの推古天皇)が殯の宮に侍している所へ天皇の異母弟で物部守屋が皇位につけようとしている穴穂部王が炊屋姫を姦そうとして宮に入ろうとした。前の皇后を娶ることは皇位への近道であった。だが、敏達天皇の忠臣であった三輪逆に拒まれた。すると穴穂部王は物部守屋に命じて三輪逆を殺さした。守屋は反仏の仲間をみすみす失ったことになる。背景に三輪大物主信仰と石上布都御魂信仰との競合があったのかもしれない。
 豊御食炊屋姫と蘇我馬子が手を結ぶ条件が整った。

 用明天皇は病を得て、仏教に帰依したいと表明し、群臣に協議させた。天皇個人の望みであるが、天皇の信仰問題は、国政レベルの問題であった。反仏の守屋と奉仏の馬子は折り合えなかった。そのような中、穴穂部王が豊国法師を内裏に迎え入れた。豊国には渡来人が多く住んでおり、渡来系の神に加えて、民間に仏教が普及していたものと思われる。 豊国法師には病を治す、除去する強い力があると信じられていたのだろう。


4.崇峻天皇の時代
 用明天皇は二年に病死した。物部守屋は穴穂部王を立てて即位させようと淡路島で挙兵しようと企てたが、その計画が洩れたとされる。なぜ淡路島なのか疑問。蘇我が流した噂に過ぎないかも知れない。
 蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、穴穂部王と宅部皇子(宣化天皇の皇子とか穴穂部の同母弟などの説がある。)を殺害させた。蘇我氏は皇族を殺すことに躊躇がなかったようだ。
 殺された穴穂部王は皇位を狙っていた存在ではあるが、大人の皇子であれば皇位を望むのはあたりまえであり、いちいち殺されていてはかなわない。おそらくは恨みを残した死であったろうが、皇子としては日々暗殺の覚悟はあったのではなかろうか。怨霊にはならなったと思う。

 用明天皇は蘇我稲目の娘の堅塩媛と欽明天皇の間の皇子であり、所謂蘇我腹の天皇であった。蘇我氏は外戚として力を増し、物部大連を上回る力を持ってきた。仏教の受け入れについても、用明天皇の意思に見るように、奉仏派が優勢であり、物部大連の反仏の旗色が悪いことは明らかであった。ここに蘇我腹の崇峻天皇が即位するにあたって物部守屋は慣例通り大連になるだろうが、蘇我馬子大臣との力の差は大きかったと思われる。政治的には既に問題外の存在であったものと思われる。

 『紀』蘇我馬子の妻は物部守屋の妹であり、名前は伝わっていないが、『紀氏家牒』には、太媛とある。大媛の生活費は実家である物部本家(当主は守屋)が工面していたが、蘇我氏との対立激化、迹見赤檮(とみのいちい)の属する大和物部等の離反などがあり、本家は力を失いつつあった。それでも太媛が生活費に窮することはなかったと思いたい。しかし、夫の馬子の朝廷での力が増す従って、豊御食炊屋姫などの皇女との交際機会が多くなり、贅沢な交際に費用に窮することもあったろう。

 敏達四年に皇后になった炊屋姫にご機嫌取りとして現在の交野市倭市の土地と部民を献上しており、太媛も私にも資産がほしいと切望していた。太媛は兄の守屋に支援の増額を求めたのであろうが、戦いの準備も必要と考えていた守屋には聞き入れられなかった。そこで、太媛が目を付けたのが物部本家の膨大な資産である。守屋を罪人として滅ぼせば、一族の者には相続ができず、朝廷が没収、また一部は妹である自分(太媛)のものになると考えても不思議ではない。

 川に落ちた犬はたたけ。この際、物部本家を滅ぼしてしまえ、後世の禍根を断て。守屋の実の妹である太媛が国家と蘇我家の将来を慮るふりをして夫の馬子をそそのかしたのであろう。


5.物部守屋の殺害
 二皇子を殺した馬子としては、守屋を殺すことに躊躇はなかった。幸いなことに皇族には奉仏派であり、皇位の安定継承・仏教の守護をキャッチフレーズに、物部守屋討伐の挙兵をすることになった。

 即位前の崇峻天皇(泊瀬部皇子)・厩戸皇子(聖徳太子)など殆どの皇子達と紀氏・葛城氏・巨勢氏らが軍勢を整え、賊軍とされた物部守屋軍の構える河内の渋川(八尾市)へ攻め込んだ。軍事氏族である物部氏は稲城(いなき)を積み上げて奮戦し流石に強かった。稲城は稲魂をもって守護する神道の呪術である。稲束に矢を射かけるのは兵士と雖も抵抗があったようだ。*2

 藤井四段より一つ若い14歳の聖徳太子は白膠木(ぬるで うるしの木、カチノキとも言う。)を切り取り四天王の像を彫り、勝たせてくれたら四天王のために寺塔を建てようと誓った。太子も呪術で対抗したのである。馬子も同様の誓いを行った。呪詛返しである。守屋は討たれた。守屋の神道呪術に対する聖徳太子の仏教呪術の勝利である。

 物部守屋は殺されなければならないほどの罪をおこしたのであろうか。別の天皇候補を推薦したことか、仏教に反対したことか、馬子に逆らったことか、そうではない。財産を狙われて冤罪をかぶせられた死であった。これは恨み骨髄である。怨霊となる死である。

 谷川健一氏は*3で難波の四天王寺に奇怪な伝承があると書く。「四天王寺の寺塔は、合戦で戦死した物部守屋の怨霊が悪禽となって来襲し、多大な損傷を受ける被害に悩まされた。そこで聖徳太子は白い鷹となって悪禽を追い払うことになった。」という話である。
 守屋が怨霊になったことは世間の常識であったと思われる。即ち、冤罪である。

 四天王寺に願成就宮と言う物部守屋を祀る守屋祠が鎮座している。この宮の確認に四天王寺寺務所に行ったところ、宝塚の中山観音にも守屋が祀られているヨと教えてくれた。
 安産祈願で有名な中山寺から約40分程山道を登ると奥院である。奥院前の掲示によれば、「聖徳太子は大仲姫のお告げによりこの山をお開きになりまして悲運の忍熊皇子の鎮魂供養の為、逆臣物部守屋の障りを除く為に当寺を建立されたのであります。」とあった。大仲媛は仲哀天皇の妃で忍熊皇子の母である。ここでも守屋は障りをもたらす厄神とされている。

 四天王寺の守屋祠は現在は朱塗りの美しい祠であり、元禄七年の石燈篭が建っている。江戸時代、守屋祠を見た参詣者は石礫を祠に投げつけたと言われる。一時、熊野権現と名を偽ったという。毎月21日に絵堂への扉が開くので、参拝できる。守屋祠を願成就宮と呼んでいるのは、聖徳太子の誓いによって物部氏の土地を没収し物部氏の部民を使役して四天王寺を建立したのであるが、これを守屋公の霊がお許しになった事、さらにお助けになった事で、無事四天王寺が出来た事を願いが成就できたとして、守屋公を祀ったと伝えられている。祟り神への褒め殺し策である。

 『紀』崇峻即位前期 時の人、相語りて曰く。「蘇我大臣の妻は、是物部守屋大連の妹なり。大臣、妄りに妻の計を用いて大連を殺せり。」という。谷川健一氏は*3で、馬子が守屋を殺す必然性がなかったことを暗示していると書く。

 『紀』時げ経て皇極二年 643 蘇我大臣蝦夷、病によりてつかまつらず。私(ひそか)に紫冠を子入鹿に授けて、大臣の位を擬(なずら)ふ。復(また)その弟を呼びて、物部大臣と曰ふ。大臣の祖母は物部弓削大連の妹なり。故母が財に因りて威(いきおい)を世にとれり。
 守屋の妹の思惑通りにことが運んだようだ。これでは守屋は怨霊になるしかない。四天王寺は守屋の財産の半分と家人半分で建造されたという。残り半分が妹の手に入った。

 ここから見えてくるのは四天王寺の建立の目的である。即ち、守屋鎮魂である。守屋を鎮魂せねばならないのは聖徳太子ではない。馬子である。四天王寺の建立は馬子によるものである。

 四天王寺は崇峻即位前の587に難波の玉造に作られ、推古元年593に現在地に移転したと考えられている。守屋鎮魂は急がれたであろうから、守屋の死後すぐに守屋の館を接収して霊魂を慰める社と原四天王寺にしたのであろう。現在の玉造稲荷神社の場所と思われる。若干高台になっていること、白竜が住むとされる亀池があること、西向きの鳥居があること、などが四天王寺と共通している。
 四天王寺は荒陵の地すなわち古墳の上に建立されたようである。この時代は古墳や神社の杜を寺院の建立場所と見なしていたのだろう。


6.物部守屋その後
伝説 広陵寺の建設
   石の宝殿(生石神社) 播磨国風土記 原の南に作り石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連(ゆげのおおむらじ)の造れる石なり。
逃亡伝説 近江浅井(滋賀県浅井郡)波久奴神社に。萩生翁と称した。漆部巨阪が身代わりとなった。
物部守屋大連命を祭神とする神社 四天王寺の守屋祠、中山寺の奥院
大和磯城(奈良県田原本町)村屋坐彌冨都比賣神社の摂社守屋の宮 神職に残党
    陸奥岩代(福島県岩瀬村) 守屋神社
    陸奥岩代(福島県会津若松市)守屋神社 二社
    飛騨大野(岐阜県高山市)錦山神社
    信濃伊那(長野県高遠町)守屋社
   甲斐巨摩(山梨県中巨摩郡)大輿神社
   諏訪 守屋山 山頂に守屋の神祠
       善光寺 守屋柱
    伊予宇和(愛媛県城辺町)弓削神社
守屋の子の行く末 忍人 四天王寺家人、辰狐 肥前国松浦へ、片野田 筑前国鞍手郡へ

*1 『神と仏の古代史』上田正昭 吉川弘文館
*2 『怨霊の古代史』戸矢学 河出書房新社
*3 『四天王寺の鷹』谷川健一 河出書房新社

宇賀網史話

神奈備にようこそ

                                  以上