![]() 1 室町時代は1336年から 1573年を言う。南北朝から戦国時代まで、動乱と乱世に挟まれた時代でしたが、文化が咲いた時代でもありました。 2 南北朝時代の文化 南北朝の動乱を通じて公家の権威が失われて、新興の武家が文化的活動の舞台を整えるようになりました。古代以来文化活動は公家でしたが。室町時代には公家にかわって武家が台頭しました。 中国の文化の受容の中心となった禅僧は、禅の精神を建築・文化・絵画で表現して、特異な文化を生み出しました。 14世紀前半 歴史書・軍記物が代表 内乱期の反映 特色:新興武士の気質(バサラ〈派手・贅沢〉)を強く反映 歴史書や軍記物語の作成 『増鏡』は源平の争乱を(公家)の立場から書かれ、『梅松論』は、足利氏の政権獲得過程を(武家)の立場から叙述。増鏡は四境の最後、あとの三つは古い順から『大鏡』『今鏡』『水鏡』である。 『神皇正統記』北畠親房が皇位継承の道理を南朝の側から叙述した。伊勢神道の造詣が深い。他に有職故実書『職原抄』を著した。両著書とも南北朝の戦いで、彼が常陸国の小田城で書かれた。有職故実:建武年間行事 南朝方:『太平記』軍記物 小島法師作(?) 14世紀頃、九州探題今川貞世がこの書の不足不備を補うためと称して著した書は『難太平記』と名付けられている。 歌 武家・公家問わず流行したことが「二条河原落書」を例に出ている。 菟玖波集(初の連歌集)・応安新式(連歌の規則書)関白二条良基 園 天龍寺庭園・西方寺(苔寺)(夢窓疎石) 水墨画:山水・花鳥・人物を墨の濃淡で描き、禅の精神を象徴的に表現 美術 水墨画明兆 「五百羅漢図」 寒山図(可翁) 建築 永保寺開山堂(禅宗様) 岐阜?夢窓疎石が開く 3 北山文化 鎌倉時代から室町時代の日本に禅宗が伝わると、その教えは武士から庶民階級にまで広がり、室町幕府は禅宗を保護・統制するようになります。以後、日本各地に禅寺が建てられ、室町幕府のお膝元である京都には南禅寺を頂点とした五山が繁栄。修行や思想はもとより、水墨画や書、作庭など禅にもとづいた文化芸術が盛んになり、やがて茶道へとつながっていきます。このようにして、禅は日本文化の骨格をも形成したのです。 足利義満時代 室町幕府第3代征夷大将軍(在職:1368年 - 1394年) 金閣(鹿苑寺舎利殿) 義満の 北山山荘(北山第) 1・2層は和様(寝殿造)、3層は禅宗様 外壁に金箔 ☆五山僧は、幕府の政治外交顧問としても活躍 ☆五山文学 五山僧による漢詩文の隆盛 絶海中津・義堂周信 五山版の出版(中国書籍の再版など .「正平版論語」) 水墨画 如拙 「瓢鮎図 (ひょうねんず)は、初期水墨画を代表する画僧」 周文 「寒山拾得図」 建築 興福寺東金堂・五重塔(再建 和様) 鹿苑寺金閣 庭園 鹿苑寺庭園 代表的な池泉回遊式庭園 芸能 古来の神事芸能(神に捧げる芸能)であった「猿楽」」「田楽」が歌いながら踊る歌舞・演劇の形を整えていく。寺社に属する座が結成され専門的な芸能集団を形成する。 足利義満の保護を受けた観世座の観阿弥・世阿弥父子によって芸術性の高い「猿楽能」が完成される。世阿弥の著『風姿花伝 (花伝書)』。能の脚本を「謡曲」と言う。 猿楽の大和猿楽四座が隆盛 本所は興福寺 義満の保護 世阿弥元能(「申楽談義」)、金春禅竹らが継承 狂言 猿楽の滑稽味を継承 庶民劇 能の合間に演じられる。 1374年京都今熊野の演能に将軍義満を迎えて観阿弥・世阿弥親子にとって終生の大事件であった。伊賀の田舎から出発した 4 東山文化 日本の仏教文化が本格的に花開いたのは室町時代に入ってからのことでした。長く続く戦乱によって疲弊した社会は、厳しい戒律によって物事の本質を追い求める禅宗に傾倒します。そして、禅の思想は当時の知識階級の人々に多大なる影響を与え、文化面にも色濃く反映されています。京都・龍安寺の石庭で有名な「枯山水」もその1つです。石や砂などを用いて水の流れを表現するこの庭園は、禅宗の質素さや静寂さを表現しています。 足利義政 室町幕府第8代征夷大将軍 (在任:1449年 - 1473年) 銀閣 足利義政が京都東山に建てた山荘。義政の死後寺院となり、慈照寺と称された。下層 書院造 上層 禅宗様 内部 付書院・明障子・違い棚。 枯山水 同朋衆(将軍の側近に侍して芸能などに従事した人) 禅の精神で統一された庭園 @龍安寺 A大徳寺大仙院 禅とは、みずからを律し、万物に感謝し、ムダを省き、生き方を見つめ直すこと。 作庭を担当した山水河原者は賤民身分。東山山荘を建てた 善阿弥 水墨画 遣明船で明に渡り水墨画を学んだ雪舟 土佐派の土佐光信が大和絵を、水墨画に大和絵の手法を取り入れた狩野派の狩野正信・元信父子。 彫刻 能面の制作をした後藤祐乗 京都 六角堂 【お茶の簡単な歴史】栄西が宋からお茶の種を持ちかえる。その上、「お茶は薬になる!」という本『喫茶養生記』を書いた。 南北朝期 闘茶(お茶の産地当てクイズ大会)・茶寄合の流行。 東山期 村田珠光 奈良の商人で、侘び茶を創始。禅の心をお茶に持ち込んで、茶の湯を簡素化した。禅は一休さんに学んだのだった。 戦国期 武野紹? 堺の商人 侘び茶をさらに簡素化。 桃山期 千利休が大成。 華道 池坊専慶:京都六角堂にいて、座敷の床の間を飾る立花様式を確立 樵談治要:樵でも徳をもとに国を治める方法を話している(談)一条兼良が9代将軍足利義尚の質問に答えた政治意見書。彼は他にも有職故実書の公事根源と源氏物語の注釈で花鳥余情がある。 唯一神道:吉田兼倶が本地垂迹説などを批判し、神道に仏教・儒学などを取り込んだ教説。 庶民文芸の流行 一寸法師など、おとぎ話として親しまれているのを御伽草紙と言う。 幸若舞 太鼓を伴奏として謡いながら舞うもの、織田信長が愛好した。 小唄 庶民の間で流行し、口ずさまれた歌謡である。小唄などを集録した 閑吟集を記憶したい。 いろは順に日常用語などを編集した辞書を 節用集と言い、奈良の饅頭屋宗二が出版した。 二条良基:彼は南北朝時代の人で北朝の摂政・関白・太政大臣。応安新式 鎌倉時代からある規則を応安、新しく定めたものなので新式。『菟玖波集』は和歌の勅撰集と同格と見なされた。 宗祇の正風連歌は和歌の伝統を生かした芸術的な連歌、代表作が新撰菟玖波集。 宗鑑はより自由な気風を持つ俳諧連歌を作り出し犬菟玖波集を選集した。 風流踊りは祭礼などで趣向を凝らした踊りで庶民に広まった。 盆踊り 祖先の精霊を迎えて供養し、霊を送る行事の時に踊られた。 文化の地方普及 山口 文化の地方普及は、京都の荒廃、貴族の窮乏化、城下町の形成、大名の中央文化への憧れがキーワード、代表的城下町山口は、大内氏が寧波の乱で細川氏に勝利して以来日明貿易を独占して繁栄し、五山の禅僧や公家が多く集まって文化的に発展した。 禅僧の桂庵玄樹は肥後の菊池氏や薩摩の島津氏に招かれて儒学を講義。薩南学派のもとを開いた。朱熹の『大学章句』を刊行した。 足利学校:関東管領上杉憲実によって再興された。フランシスコ=ザビエルにより坂東の大学と称された。庶民の学校ではなく禅僧や武士に高度な教育を施した。 寺院での教育 対象は地方武士の子弟。教科書として『庭訓往来』や『御成敗式目』が用いられた。 町人による書物の刊行 『節用集』は奈良の饅頭屋宗二が出版した。 新仏教の発展 林下 五山より自由な活動を求めて地方武士・民衆へ布教した禅宗諸派の寺院。布教の中心は臨済宗の大徳寺・妙心寺、曹洞宗の永平寺・総持寺。僧では一休宗純 日親 京都を中心に、中国・九州に日蓮宗を布教した。6代将軍足利義教に『立正治国論』をもって諫言した。鍋かぶり日親とも言われた。 天文法華の乱 1536年、日蓮宗と対立を深めた延暦寺は、僧兵を京都に侵入させ日蓮宗寺院を焼打ちにした。 蓮如 応仁の乱の頃、経ではなく平易な文章を御文を使って阿弥陀仏の救いを説いた。また、講を組織し、特に北陸・東海・近畿に広まった。蓮如は石山本願寺の基礎を築いた僧であり、本願寺8世の法主である。 以上 参考 |