饒速日尊について

1.饒速日尊は天神か?天神とは何か?


『古事記』 神武天皇が大和を平定した後、邇芸速日の命が神武天皇の後を追って降りて来て「天つ瑞を献じて仕えます。」と申しあげたとある。
『日本書紀』 長髄彦は、饒速日命の天の羽羽矢と歩靫を神武天皇に見せた。天皇は、「饒速日命が天神の御子であることはいつわりではない。」と云ったとある。

神武天皇と饒速日尊は同じ天神の子孫であるが、饒速日尊は、「天神が深く心配するのは天孫のことだけ。」と知っていた。勿論、神武は天孫系であると『記紀』に記されている。
さて、奈良朝の天皇家や藤原不比等などの権力側は、物部を天神系と認めたのは何故か?

天神系とは、高天原にいて、そこから降りて来た神々の後裔を云う。中臣氏、忌部氏、猿女の君の祖、鏡作の連の祖、玉の連の祖の五部族が邇邇芸の命とともに天降っている。天神系の氏族は珍しくなかった。天神系の多くは高産巣日神の後裔と云うことになる。

当時の権力者にとって、物部氏が天神系であろうとなかろうと、どうでもよかったのである。

高産巣日神とは、その名から高句麗系(夫余族)の神と推測される。半島の倭人の祖神。
「国を同じくする」ことは、いささか親しみを持てる。渡来系や国内でも地元が違う氏族が跋扈し、権力争いをしていると、同じ国、同じ里、同じ釜の飯は、すこしは気を許せるものである。

高句麗は五部族で構成され、朱蒙は降臨して五女山城を築いた。「五」を聖数としていた。
『古事記』 邇邇芸の命と降臨には、五伴の緒(部族)を引き連れていた。
『先代旧事本紀』 饒速日尊の降臨に仕えて降ったお供。
五部人を副へ従と為して天降り供へ奉る。 笠縫部等の祖ら
五部造、伴領と為て天物部を率て天降り供へ奉る。 二田造ら
天物部等、二十五部人、同じく兵仗を泰びて天降り供へ奉る。
谷川健一氏は高良大社の鎮座する高良山を邪馬台国の首都であり、物部氏の拠点とする説を出されている。高良は高麗の可能性もあると思われるが、全くそれには触れていない。

国津神であるとの説。
銅鋳造の『伊福部氏系図』大己貴命の九世孫を饒速日命とする。伊福部氏は自らを国津神の末裔とするが、五代目には天御桙命の名が見え、八方美人的な印象を与える。
『播磨国風土記』 飾磨郡伊和の里 大汝命の子の火明命は強情で猛々しかった。

2.饒速日尊の降臨地 火明命の場合は除いてある。


饒速日尊を祭神とする神社があれば、そこが降臨した場所とと言えるが、ここでは天降ったとの伝承が語られる地や遺跡・地名をさがして見た。
日向 二子山速日峯またはニギハヤヒミネ 宮崎県延岡市方町巳259 早日渡神社「主神 饒速日命」饒速日命がこの峰に天降ったという伝承があり、山頂にあった神社が早日渡集落に遷された。
摂津 大阪城の石山に磐船神社が鎮座していたと云う。これが生駒山のニギハヤヒ山の山頂に遷さ れた。守屋敗北で、東西の山麓の東大阪の石切神社と生駒市の長弓寺内に登弥神社(現伊弉諾神社)に神霊は遷された。
交野 哮峰を交野市の磐船神社とする説がある。
石川 磐船大神社 降臨伝説があるが、蘇我氏の地元であり、疑問である。
八尾 恩地神社を物部本家の氏神としたとの鳥越説がある。氏は九州から来た物部一族は堺市大浜 に上陸し、そこから、大阪や奈良に展開していったとされている。堺市は物部氏の五部造の一である大庭造の居住地である。
三島 谷川健一氏は、物部氏が銅鐸の製造に関与したことから、摂津の三島郡を最初の落ち着き先としておられる。茨木市の東奈良遺跡から銅鐸の鋳型が出土している。。
日下 東大阪市の日下の東は生駒山系で、そこに草香山があり、饒速日山とも呼ばれる。



3.饒速日尊と火明命


『先代旧事本紀』 には、祭神名として天照國照彦火明櫛玉饒速日命と書かれている。これは饒速日尊=火明命 であると云う意味である。即ち、物部氏の祖先神と尾張氏海部氏の祖神が同じ神であるとのことで、それぞれの氏族の了承了解がなければ、書けないことである。即ち古い伝承があったと言える。
 天照御魂神とは。
『日本書記』顕宗紀 対馬の日神が我が祖の高産巣日神に磐余の田を奉ずるように託宣した。
対馬の日神とは、阿麻氏留神のことであろう。天照神である。
 天照御魂神社の祭神は火明命であり、即ち饒速日尊となる。皇祖神である高産巣日神を祖 神とする日神・天照御魂神は伊勢に祭られていたのではなかろうか。
 饒尊、皇祖神説は根強くあるが、無視はできないと思う。
 平安時代に纏められた『新撰姓氏録』では、饒速日尊は天神、火明命は天孫となっている。


4.饒速日尊と大和


民俗学の折口信夫氏は、饒速日尊は大和の国魂であるとし、大和神社の祭神とする。国魂の 例として、大和を支配していた長髄彦から饒速日尊が離れたので、神武軍に敗れたと云う。
饒速日尊が国魂であることは香具山の土が大和の物実であるとされているのがその証であである。系図でも、天香具山命は饒速日尊の御子神であるということ。

饒速日尊を三輪山の山頂に葬むったとの説がある。古代史作家に見られる説であり、とるに足らない。三輪山は大和国中からよく見える秀麗な形の神奈備山であり、往古から大和の人々の心のよりどころであった。そのような山の頂に、外からやって来た饒速日尊を葬ることを許すだろうか。また饒速日尊は神であり、葬るべき遺体などはなかった。そうすると神霊を祭ったということになるが、大和神社に祭られている神霊をお隣の山頂に祭る必要はない。

大和の東の山には、南から三輪山、大和神社、石上神宮が並ぶ。石上神宮は物部氏が管理した神で、国譲りの際に、武甕槌の神が大国主神の恫喝に使用した剱を祭る。また神武天皇天皇が熊野で立ち往生した際に、高倉下が天皇に捧げた剱である。武甕槌・高倉下ともに物部の神である。

尚、大神神社と大和神社の間に兵主神社が鎮座。天日槍神を祭る。崇神・垂仁の後ろ盾か。

 大和は土蜘蛛(蝦夷・長髄彦)と大国主系が支配していた所へ、物部がやって来て共存をしていた。そこへ天孫系がやって来て、物部が分裂、一部は蝦夷と共に東国へおもむいたのある。



5.饒速日尊とヒノモト


饒速日命は天磐船に乗り、虚空を巡り、この国を見てお降りになって、名づけて、「虚空から見てよい国だ。日本(やまと)は。」と言われた。

物部の一部は日下に上陸した。その東の山を遠祖の名の饒速日山と名づけた。天照御魂神社 の原形となったと、谷川健一氏は言う。
この饒速日山の峰続きに恵比須山がある。饒速日尊と長髄彦のコンビを思わせる。また生駒 山中に江比須墓がある。長髄彦の墓であれば、興味深い。

大和のクサカ その1。 巻向駅の500m北西は、草川(くさかわ)と言う地名がある。
その2.桧原神社は、原はモトであり、日下、日本とも理解できる。

物部氏は東海地方まで進出していたが、卑弥呼の就任に反対して、さらに機内から物部氏や 蝦夷達が三河・遠江へ流れて、狗奴国を建てて邪馬台国と対立した。それでも、物部は太陽信仰として、饒速日尊を奉じて、ルーツとなるヒノモト地名を運んだものと思われる。

東へ行けば、日の出の場所はさらに東へ行く。日の出る方向を、日の上(ヒノカミ)とも言う。
日高見である。『景行紀』二七年 武内宿禰が東國を巡り、東夷の中に日高見國がある。。其の国の人、男女とも髪を椎のように結び、入れ墨をしていて勇敢です。彼らを蝦夷と言います。。
『常陸国風土記』 信太郡の条に、「日高見国」の存在が出てくる。この郡の幹部の名に物部氏が名を連ねている。また、草木がものをよく言うことが出来たとき、普都大神が天より降ってきたとある。物部に縁の深い地のようだ。

常陸から見て日の出る方向に、岩手・宮城を流れる北上川がある。平安時代、蝦夷軍に朝廷軍が負けて大量に溺死した場所を日上湊と言い、この川の中流域であった。

『大祓詞』 ここに、大倭日高見国と言う言葉がある。これは大倭=日高見国と言う意味のよようだ。日が昇る国日本と言うことだろう。

6..邪馬台国はヤマト国とよみ、大和にあった国のことである。一時期、女王が統治した。

西暦      事件       年  表          事件
-400  弥生中期
-221  秦始皇帝 統一
     遠賀川系土器の普及
-202  劉邦 漢王朝を建てる。  北部九州で戦いが頻発、クニへの統合開始。
     遠賀川流域の物部一族の一部、畿内へ移る。
-50   楽浪海中倭人有り。分かれて百余国をなす。 唐古・鍵遺跡
    『漢書地理志』 池上曽根遺跡

0    ツクシ国が楽浪経由で漢と交渉を持つ。
5    東夷王、大海を渡りて国珍を奉る。『漢書王芥伝』
    高地性集落築かれる。。近畿とイズモで青銅器の大量埋納
57   後漢。 「漢委奴国王」の金印を授かる。
    北九州内で紛争、やがてツクシ国としてまとまる。
    出雲地域にはイズモ政権が形成され、ツクシ国と関係を持っていた。

107  ツクシ国の使者として倭面土国の首長が落陽に至る。
108  倭国王帥升等生口160人を献ず
    ツクシ政権は、西日本の諸勢力に対して圧倒的隔絶的に強かった。後漢王朝と楽浪郡を後ろ盾にしていた。

    畿内にいた物部氏や蝦夷を中心としてヤマト国が建国された。

    神武東征開始。奴国の勢いが強く、他の九州の国が圧迫され、王族の一部が東へ向う。
    東征を開始した神武の後裔がキビ国に入り王となる。孝霊天皇。四国、イズモを統合する。

147  『魏志倭人伝』倭国乱れ相攻伐すること暦年〜188

189  後漢霊帝逝去、後漢滅亡。

    ツクシ国へ対抗するため、キビ国、ヤマト国、タンバ国、ヲハリ国の連合がてきてきた。
    後漢の混乱にあわせツクシ国の勢いも衰える。他の国が半島との交易に進出、ツクシ国の商権を侵す。

210  キビ国、ヤマト国、タンバ゙国と、ツクシ国が女王擁立でまとまる。銅鐸祭祀は禁止。
                                  三河・遠江は銅鐸祭祀を続ける。
   卑弥呼はキビ国王の娘の百襲姫、男弟とは孝元天皇、開化天皇、崇神天皇達である。
   卑弥呼は三輪山山麓の纏向の宮殿で銅鏡を使って祭祀を行った。
   外務相に難升米(奴国の宿禰)を起用。
   邪馬台国の長官は伊支馬、その下に弥馬升・弥馬獲支・奴佳テと云う。
   伊支馬 垂仁天皇は伊久米伊理毘古伊佐知命である。また生駒であれば物部とも。
   弥馬獲支 崇神天皇は御真木入日子印恵命である。皇族が力を付けてきた。
   都市牛利は、都市とは商業大臣=大倭、牛利は丹波県主の由碁理。

   この邪馬台国を都とする倭国を実質支配しているのは、天皇一族と物部一族の呪力・武力である。 
   物部の鬱色雄命と伊迦賀色許雄命が執政し、彼らの妹は開化、崇神の母親となっている。
   鬱色雄命の古墳は外山(トビ)桜井茶臼山古墳、伊迦賀色許雄命はメスリ山古墳。

   三河・遠州の物部は卑弥呼擁立に反対。狗奴国を建国し、邪馬台国と対立。

   役人で、副官の名が卑奴母離となっているのが、対馬、一支、奴国、不弥国。後の二国は九州の国であることは明白。もし邪馬台国が九州内にあれば、近隣の国の副官を卑奴母離というか。

238  難升米と都市牛利を帯方郡から魏の都に派遣した。この時、卑弥呼は親魏倭王に册封される。

   184-189 中平銘鉄刀(天理市東大寺古墳) 和邇氏が公孫康から授与されて、宝器として伝えた刀剣である。和邇氏はヤマトとタンゴをつなぐ氏族であった。
   卑弥呼、狗奴国王卑弥弓呼と戦う。狗奴国とは遠江国山名郡久努郷 久努国造は物部系。

240 伊声耆、掖邪狗を派遣。伊声耆は中臣氏で、伊香津臣の子の伊世理命が発音では似ている。

248 この頃、卑弥呼死去。箸墓古墳にはキビの特殊器台。キビの浦間茶臼山古墳は箸墓のちょうど半分の規格
   男王(崇神天皇)立つも国乱れる。神話では、三輪山の大物主神の祟りで民が尽きそうになっ

再び、女王として台与を共立した。豊鍬入日売である。

265 この頃、台与死去。西殿塚古墳。        魏滅亡、晋王朝起こる。

  崇神天皇即位。四道将軍派遣。

524 磐井の乱 物部麁鹿火を大将軍として磐井を滅ぼす。九州の仕置きを任される。
587 蘇我物部の戦いで、物部守屋敗北。本家滅亡、一族逃亡。

この内容をウガネットで発表したところ、括汗氏より「鬱色雄命の古墳は外山(トビ)桜井茶臼山古墳、伊迦賀色許雄命はメスリ山古墳。」について、この地域は大伴氏の地盤であり、物部氏の古墳があるのが疑問であるとの鋭い指摘を頂きました。



 古墳のある場所の地名は、トビ です。物部を思わせます。
 大和国の東側に大伴の地盤とする地域が描かれていて、その外側に両古墳がある。問題は、卑弥呼の時代に大伴氏がどの程度の力を持っていたのか、神武紀には遠祖の日臣命(道臣命)は登場しますが、崇神紀には大伴の名は現れない所から、邪馬台国時代には大伴氏はたいした活躍はせず、後世のような拠点がヤマト国中にあったかどうかは疑問です。
 また、この豪族配置図はもっと時代が降るものだろうと思われます。葛城氏が載っていて鴨氏がないところからもそれは言えそうですが、。

 また、白石太一郎氏は、外山(トビ)桜井茶臼山古墳、メスリ山古墳の建造は西殿塚と崇神・景行陵の間とみておられる。岸本氏とは違う見解です。神奈備は岸本説です。

古墳の築造順位と前方部幅
 2014年7月13日の豊中歴史同好会は北九州の宇野愼敏先生の「4・5世紀の沖ノ島とヤマト政権」と言う演題でした。
 佐紀古墳群の築造順位について、面白い話がありました。白石太一郎氏の古墳の順位は以下の通り。
 五社神 宝来山 佐紀陵山 石塚山 市庭 ヒシアゲ コナベ ウワナベ
 所が、前方部幅/墳丘長を計算してみると、
古墳     墳丘長m  前方部幅   幅/長
佐紀陵山   207      87      0.42
宝来山    227     118     0.52
五社神    275      155      0.56
石塚山    218      111      0.51
コナベ    204      129      0.63
市庭     250      160      0.64
ウワナベ   270      140      0.52
ヒシアゲ   219      145     0.66

 基本的には、前方部幅/墳丘長 が徐々に大きくなっているのと年代を合わせて考えると言う方法を披露されました。  
これについての白石氏の反論は承知していませんが、面白い考え方だと思います。  
この考え方で、岸本直文さんの、古墳の2系列を調べてみますと、以下のようになります。
   神聖王系列             執行王系列
割合
箸墓古墳       0.47               割合
西殿塚古墳      0.50     桜井茶臼山      0.29
行燈山古墳      0.41     メスリ山古墳     0.36
宝来山       0.49      渋谷向山       0.53
                 佐紀陵山       0.42
五社神       0.43     佐紀石塚山      0.56
                 津堂城山      0.56
仲ツ山古墳      0.66     ミサンザイ      0.66
大仙陵古墳     0.63      誉田御廟山      0.78
土師ニサンザイ    0.78     市野山       0.70
前ノ山       0.83     岡ミサンザイ     0.75
共に、前方部幅の割合が大きくなりつつありますが、同じ時代の場合、神聖王が幅の割合が大きいと云えます。
桜井茶臼山 メスリ山古墳 が 古いようです。         。

『古代王権の原像』山尾幸久
『白鳥伝説』谷川健一
『おおいなる邪馬台国』鳥越憲三郎
『古代国家はいつ成立したか』 都出比呂志
以上

物部氏ホームページ

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