ウガ お伊勢参り



1.飛神明について

京都 吉田神社
延徳元年(1489)3月 京都の吉田神社の太元宮の庭に 光り輝く霊物が降り立った。神祇官の吉田兼倶が後土御門天皇に秘かに奏上。天皇がその神器を検分すると内宮・外宮の御神体であることがわかった。大元宮の東神明・西神明社の創建である。虚偽説あり。

飛騨 伊太祁曽宮
創建年代は不詳。元乗鞍の恵比寿岳に鎮座されていたが、最終的に丹生川村大字旗鉾に遷座。
17世紀初頭、伊勢皇大神が飛来したとの噂が高まり、境内に神明宮を通称「旗鉾大神宮」を創祀。
近隣諸国から参拝者が押し寄せたと伝えられている。このような状況を織り込んだ狂歌がある。
 日々御神飛騨へひょっこり飛びたまい、ひだは日に日ににぎわいにけり(ひの字尽くし)
 居なれたる伊勢の五十鈴にいまさずに、いかに思いで飛びたまいけむ(いの字尽くし)
 夏のうちしばしすずみにここへ来て、はや秋風と伊勢に帰るな
 ゆだんして又飛ばするな日の神を、抱きしめ居ませと日抱明神



2.伊勢と武士と神道

 武士は国民の宗教的なシンボルである天皇を認め、民衆の尊敬の根強さを感じていた。
 皇室が氏神として祀る伊勢神宮の神威のかしこさを信じて疑わなかった。
 鎌倉幕府 『貞永式目』
  第一条 神は人の敬いによって威を増し、人は神の徳によって運を添へる。
 室町幕府 『吉書三ヶ条』
  神の神たるは人の祭祀をもってなり。人の人たるは神の加護をもってなり。

 伊勢神宮の神戸は12世紀の律令国家が解体し、神戸が神宮から離れた。今度は民間が御厨(みくりあ)を寄進するものが相次ぎ増えていった。734箇所もあった。武士が信仰し、また民衆も信仰した。御厨の産物は供神料として伊勢まで運ぶことになる。これだけでも年間1万人が伊勢へ。
 ここに御師が登場する。下級神官で祈祷も行い、御厨との連絡や伊勢への案内をつとめた。

 皇室の勢威がおとろえても暦の管理だけは行っていた。その暦を民間に配るのは伊勢が大きい役割を果たした。幕末まで続いており、伊勢への信仰が絶大なものになっていった。


3、お伊勢まいり

ルイス・フロイスの感想
 日本諸国から巡礼としてこの神のもとに集まる者の非常に多いことは信ずべからざる程で、賤しい平民だけではなく、高貴な男女も競って巡礼する風があり、伊勢にいかない者は人間の数に加えられぬと思っているかのようである。


 4.抜け参り とがめられるものではない。

  奉公人が主人に断りなく、子供が親に無断で、小伊勢参りに出かけてしまうこと。
  播磨川辺の下女のお話 両宮へ参詣をすませ、主人夫婦に御祓いと土産のわかめを持ち帰った。
 ところが思いもかけない怒りよう、御祓いも土産もかまどにけりつけ、殴るけると騒ぎ。不思議なことに御祓いから小蛇がはいだし、たちどころに大蛇となって主人夫婦をにらみつける。女房はたちまち熱を出し、もだえ苦しむ。主人は多いに反省し、涙を流して赦しをこう。蛇は聞き入れて消える。
 それから、両宮へ代参をたて、懺悔に罪を滅しぬ。

 無賃でのぬけ参りができる風潮は、交通の発達と、弱い者、貧しい者へ施す人情にあった。


 5.おかげ参り

 山城国相楽郡 湧出宮 (和伎座天乃夫岐賣神社
 豊作を祈って神霊のよりしろとして木の枝を田圃に立てる。木の枝を おかげ と呼ぶ。
 伊勢神宮が中世から下級神官で祈祷師でもある御師が、伊勢講や太々講を作ってきた。神宮はひろく農民の信仰を得てきた。これがお伊勢参りの基盤となっている。
 最初のおかげまいりは 13お年ぶりに両宮がそろって遷宮をおこなった天正十三(1585)の直後に起こっている。
 ある地域でぬけ参りが起こると、近辺に波及していって流行となり、非常に多くの人々を参宮にかりたてる現象が起こった。これが「おかげ参り」ととして知られる集団参宮である。


6,江戸時代に周期的に見られる。

慶安三 1650
 江戸中の大商人どもが大神宮に ぬけ参り を流行させた。全員白衣を着ていたのは、中世以来の社寺巡礼の清浄を尊ぶ風俗を継承している。

宝永二 1705
 おかげ参り という言葉ができた。京の童男童女、七、八歳から十四、五歳のものが貧富を問わず夥しいほどぬけ参りをする。大坂、奈良、近畿一円に流行し、妻、子、従僕などが主人の許可をも得ずに参詣に出かける様は狂ったかと思わせるほどである。
 普段は貧しくて参宮できないような人々が広範に動き出すものであった。伊勢の山田では町々でで施行(せぎょう)のため小屋をたて、赤飯粥、餅、あるいは銭、茶などを振る舞い、そのほか、御師、町人、商人、百姓、後家にいたるまでがそれぞれの分限相応に、ふびんなる抜け参りの人々に、五人、三人、あるいは八〇〇人、一〇〇〇人と宿を貸し、路銀を与え、神宮参拝の案内をつけるなどした。京・大坂その他の道中でも裕福な人たちが米、銭、布、木綿の袋、襦袢、菅笠など、思い思いの施しを行っている。 この年、三百六十二万人。平年は二十〜五十万人。

明和八 1771
 丹後の田辺(舞鶴)あたりから女子供のぬけ参りが多く見られた。お札降りで拡大。
松阪の人 森壺仙の日記
 山城宇治から始まり、南山城一帯に及ぶ。子供ばかり二〇人三〇人と連れだって幟をたてて、まとい印をたてていく。女、子供、老人、子守など疲れた様子が見えなかった。
 さらに数日後、大津・膳所が加わり、さらに京都市中・伊賀上野・奈良、江州坂本、草津に及ぶ。
 数日後は、津、四日市、大坂に及ぶ。大坂がこの年のおかげまいりの中心となった。
 翌月には摂河泉、北伊勢、若狭、三河、神戸、和歌山に広がり、近畿全体に広がる。
 九州、四国、北陸、関東まで広がった。 二百万人

文政一三 1830 四五〇万人以上
 阿波から始まった。徳島佐古町の子供達が始まる。おかげ参りはぬけ参りがきっかけで、通過する道中筋などに波及。通常の抜け参りと違うのは、御祓が降ったり、さまざまな不思議な現象が起こったと云われる。諸人が降るに違いないと思ったようだ。

豊穣御蔭参之図

 御祓 神名を紙にかいたものを守札として用いた。祓えとも称した。
大和・河内ではおかげまいりが終わった後で、おかげおどりが流行した。各地に伝播、それから農民一揆につながることもあった。
 阿波からの上陸地である紀州がこれに続いた。この紀州の参宮人は、前回の明和の時にははなはだ評判が悪い。「大坂端々よりだんだんあしく相成り、紀州にいたりて至極あしく」などとなどと云われる。あしくとは、物乞いをするとか、報謝を要求するとか、である。国柄ではなく、生活の問題である。極貧層の参加を物語る。

慶応三  1867 ええじゃないか
 東海地方に御祓が降ると云ううわさ 宮川の上の渡しに豊受大神宮の御祓が降った。
また両宮内で御祓が降ったと云う家が二,三〇軒あった。これらの家では分に応じて幾樽かの酒を供えて表を通る人々に呑ませるのが主人の仕事。奉公人などは昼夜鳴り物をたたき、顔に白粉を塗り、男が女になたり、顔に墨を塗って老婆が娘になるように仮装して、、老若男女欲も徳も忘れ、ええじゃないか と踊りまわり、両宮に さまざまな姿で参詣する者で大変にぎわった。
、各地でええじゃないかの乱舞が見られた。うわさが誇大に各地に伝わった。小判や、一六七の可愛い娘が降ってきたとも。

 また、ええじゃないか と踊りながら、他人の家に入り込んで、着物でも道具でも食べ物でも、「これ、くれてもええじゃないか」、「うん、上げてもええじゃないか」と何でも持ってこれたと云う。

伊勢神宮の門前町
 仮装した群衆の狂乱状態 仮装で家族や男女間の倫理を破壊する。 性、特に女性器への執着傾向景行がある。 伊勢では、ええじゃないか と参宮とが同時に存在 参宮時に道化の出し物あって、三十四の女、真はだかにていまき(腰巻き)もつけず、ひん女(女官)に着物を持たせ、二人連れ。頭の指物、金目およそ三百両、おめこに紙をはり、参宮する女あり。

大坂市中に降ったお札
 天照皇太神宮 126枚  河内道明寺   17 金比羅宮    15
出雲大社   3 伊太祁曽大神社  1 弘法大師  3 仁徳天皇 2


6.何故、お参りや巡礼が盛んになったのか。


1 生活のレベルアップにより、現世への欲求が見えてきた。
2 庶民の祭礼気分が高まって来ている。おかげまいり に つながっていく。
3 巡礼者にたいして暖かい態度

おかげまいり
 豊作で庶民の生活が比較的安定してきた。平和な次期の民衆の解放運動と言える。 
 ぬけまいりは一種の解放である。日常からの解放となる。
 農村から逃散する代わりに、お伊勢まいりに行った。

世直しの考え
御代なれや 古借銭の 酉の年 どこの家にも おはらひがある 徳政を期待する雰囲気
天保八年の大塩の乱
 檄文 「堯舜天照皇大神の時代に復したく共、中興の気象に恢復とて立ち戻り申すべく候」これに伊勢神宮の御祓を張りつけてまいた。おかげまいり時の「おふだふり」をまねた。伊勢神宮とのつながりがあった。御師安田図書は乱に参加した。

おかげおどり
 年貢の軽減、豪商に酒食をださせる 民衆運動であったが、正しく指導する者は現れなかった。
 神道には本来的には論理的骨組みがないが故である。

ええじゃないか 民衆の不満をそらした。「日本国のヨナオリはええじゃないか、ほうねんおどりはおめでたい。おかげまいりすりゃええじゃないか。はあ、ええぢやないか


参考画像
三重県立博物館

参考文献
『ええじゃないか』高木俊輔
「おかげまいり」と「ええじゃないか」 藤谷俊夫

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