難波の古代史(uganet) 鬼について

[11032] 鬼に舌を抜かれる話  神奈備 2012/02/11(Sat) 09:32 [Reply]

鳥取県  楽楽福神社(ささふく)信仰
 日野郡溝口町宮原の楽楽福神社 大日本根子彦太瓊尊(孝霊天皇)后の細比女命

 由緒 孝霊天皇、当国に御幸の時、鬼住山の悪鬼を降伐遊ばされて後、この地に崩御、人民その遺徳を偲び笹で社殿の屋根を葺きこれを祀る。これ笹福の宮なり。神号のいわれは「砂鉄吹く(ササフク)」の神、即ち、古代製鉄神で、鉄の象徴する強大な富と力、厄払いと長寿を意味する。

 日野郡日南町宮内の楽楽福神社(西の宮)大日本根子彦太瓊尊 細比賣命 皇子大吉備都彦命・彦狹嶋命

 由緒 孝霊天皇は『武勇絶倫の彦狭島命を伴いて巡幸され、西の国を治め給う』と書かれております。天皇は丹波の国、更に日本海を経て西伯郡大山町妻木に上陸され、しばらくご滞在。つづいて溝口町の鬼住山と本町の鬼林山に兇賊あり、人民を悩ますとお聞きになり、皇子及び侍従を従えられてその賊をお討ちになって地方を平定し、皇代を普及されたのであります。神社の裏山に崩御山があり、細比売命もしくは皇子の歯黒王子が葬られているという。祭神の細比売命は片目の神と言う。

日野郡日南町宮内の楽楽福神社(東の宮 現在は東西統合)大日本根子彦太瓊命 若建吉備津彦命 細姫命(ささひめ) 福姫命

 由緒 西の宮と同じ由緒。

 日野郡日南町印賀の楽楽福神社 福姫命
 
 由緒 片目の神と言う。福姫は「吹く」で、精錬。

 片目についてはつながる。
  神代鍛冶ー片目神−天目一箇神
  印賀綱 −片目神−福姫命

 この地域の吉備との関連
  西の宮陵墓石は備中産
  弥生中期には交流あり

神社名の第一文字が鎮座地

[11033] 鬼に舌を抜かれる話2  神奈備 2012/02/12(Sun) 17:03 [Reply]
伯耆−日野川−砂鉄
出雲−簸伊川−砂鉄

両川の源流は鳥ヶ峰(船通山)の周辺、砂鉄の一大産出地帯。


出雲神話 八岐大蛇 素盞嗚尊 産鉄民 対 稲作民 産鉄利権の争奪
鬼神神社(式内 伊賀多気神社上宮)の存在
出雲国造千家元勝撰
 出雲国仁多郡小国里 鬼神大明神縁起一巻
 出雲国仁多郡横田荘小国里 上宮船燈山鬼神伊我多気大明神者祭祀素盞嗚尊五十猛神也 延喜式云五十猛神陵地伊我多気社是也
鬼神神社

伯耆神話 八上比売と大穴牟遅神
ここに八上比売、八十神に答へて言はく、「吾は汝等の言は聞かじ。大穴牟遅神に嫁がむ」といひき。かれここに八十神忿りて、大穴牟遅神を殺さむと欲ひ、共に議りて、伯岐国の手間の山本に至りて云はく、「赤猪この山にあり。かれ、われ共に追ひ下さば、汝待ち取れ。もし待ち取らずは、必ず汝を殺さむ」と云ひて、火もちて猪に似たる大石を焼きて転ばし落しき。ここに追ひ下すを取る時、即ちその石に焼きつかえて死にましき。(赤猪岩神社
御祖、「汝はここにあらば、つひに八十神のために滅さえなむ」といひて、すなはち木国の大屋毘古神(五十猛神と同じと見なされている。神奈備注)の御所に違へ遣りたまひき。次に、木の俣より漏き逃がして云りたまはく、「須佐能男命の坐す根の堅州国に参向ふべし。必ずその大神りたまひなむ」とのりたまひき。

<余談>上記神話の山 手間山。 手間天神 伯岐国の手間
少彦名神は高皇産霊の手の間から零れ落ちたので手間天神と呼ばれるようになった。
赤猪岩神社の鎮座する西伯郡会見町に、天萬神社が鎮座している。手間からの転訛でしょう。
少彦名神は岩に寄り付く神だあるのは、紀州串本の潮御崎神社の磐座、、また能登の国の宿那彦神像石神社の名からも想像できます。赤猪岩に少彦名神が寄り付いていたから大穴牟遅神が助かったのかも知れません。
大阪の天神社は主祭神を少彦名神とする場合が多く、そこに菅原道真が合祀されている。

<余談>孝霊天皇
『紀氏譜記』によると。
御丈七尺
御面躰青く
面頭に三尺の角
飛行自在
と言う。
 これこそ「鬼」の資質ではないか!

[11034] 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/14(Tue) 11:52 [Reply]
桃太郎の鬼退治

鬼ヶ城(きのじょう)縁起
 阿曾郷の鬼ヶ城に温羅(ウラ)と言う鬼が棲んでいて、付近を荒らし廻っていた。吉備津彦尊は、その随臣楽々森彦命と共にこの鬼を退治した。温羅はなかなか強く、吉備津彦命射た矢と、鬼の城に居た居た温羅が投げた岩とが、空中でかみあい、落下したのが、高塚の岩との伝承がある。
 温羅は左の目を射られ、血が流れた。血吸川という。温羅は雉となって山中に隠れたが、命は鷹と化して之を追うた。次には鯉と化して血吸川に入ったので、命は鵜と化してこれを噛んだ。鯉喰宮という。
 温羅はついに捕らえられ、その首は吉備津神社の釜鳴神事の行われる竃の下に埋められた。
 尊は温羅の首を切ってさらしたが、首だけになっても温羅は唸り声をやめなかった。尊はその肉を犬に食わせたが、それでも唸り声はやまなかった。更に髑髏を吉備津宮の釜殿の釜の下に埋めたが、唸り声は十三年間やまず、釜を鳴らし続けた。

 そしてある日、尊の夢に温羅が現れ「わが妻の阿曽媛に釜で神に奉ずる食物を炊き、釜は幸あれば豊かに鳴り、禍あれば荒々しく鳴ろう。」と告げたので、尊は言われた通りにしたと言う。

 温羅(吉備冠者)   異国から来た鬼神、百済の王子とされる。百済は346-660年。
 鬼ヶ城 神籠石式山城。7世紀後半の造営とされる。
 血吸川 砂鉄の多い川(天井川)  出雲の簸伊川の八岐大蛇に温羅は相当する。
 楽々森彦       楽々は伯耆の楽楽と同意。森は盛場の意味か。
吉備津神社

 『古今和歌集』  真金吹く 吉備のなかやま 帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 『万葉集』    大王の  御笠の山の   帯にせる 細谷川の 音のさやけさ
 吉備の中山は、本来は津山市の中山神社のこと、後に吉備津彦の墳墓があるとされる中山になった。


吉備の中山神社志呂神社

 博打好きの物部肩野乙麿がオオナムチの神を奉じて住んでいた。ある日、路傍で老人が骰子を持って座っていた。老人は土地を賭けようと誘ったので、のった。ところがやる度に老人が勝ち、乙麿はたちまち、土地を失ってしまった。 老人は実は金山彦神であった。乙麿は中山を金山彦神に譲り、自らは志呂神社を担いで、美作国久米郡弓削庄(御津郡建部)に社殿を建てた。5,6世紀には、美作の鉄は物部氏が支配していたが、7世紀に金山彦神が出現した所から、美作の鉄は王権の支配下にはいったと思われる。なお、6世紀後半に中央では物部守屋が滅ぼされている。

阿曾、阿蘇、浅間? 火を吹く。噴火の穴。絶壁・崖地。などの意か?

[11035] Re[11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  琉球松 2012/02/15(Wed) 11:38 [Reply]
 吉備津神社の祭神は「吉備津彦」となっていますが、一時期は「吉備武彦」とされた時代があったようですね。孝霊天皇の系統ではなく、景行系にすり替えた?時代でしょうか。

 鬼退治は孝霊の時代なんでしょうけど、沖縄の伝統思想は "鬼を退治するのは女性" ですから、何かウラがあるように思えます。

以下は、王朝時代の文献にも見える国家誕生に関わる沖縄島の説話「鬼餅由来」のご紹介・『球陽』より
*** 首里の金城村に兄と妹が住んでいた。兄の名は伝わらないが、妹は、一女がいて於太(オタ)といったから(その母という意味で)於太阿母(オタアム)とよばれた。はじめ一緒に住んでいた。その宅は、今は封じて小嶽となっている。後に兄は大里の岩窟に移り住み、人を殺してその肉を食うと噂された。村人たちは大里鬼とよんだ。ある日、妹は兄を問い詰めようして訪ねたが、兄は留守であった。しかし、竃の釜の中に人肉が煮えているのが見えた。妹が驚いて逃げ帰ろうとしたが、途中で兄に出会った。兄が言った。
 「お前、なぜそう急ぎ帰るのか。うまい肉がある。食べてもらおう。」
妹が答えた。
 「家に大事な用があります。」
兄はそれを無理やり引き止めた。妹は返す言葉もなくなり、一緒に兄の家に至った。しかしそこで、奇策を考え出し、懐に抱いていた子の腿を密かにつねって大泣きさせて、そして言った。
 「この子が便を下そうとしている。しばらくの間、窓の外へ出して下さいな」。
兄が言った。
 「(外ではなく)家の裏で便をさせても何の差し障りがあるか」。
妹が答えた。
 「家の裏では失礼になります」
と、強く請うて外に出た。
兄は小縄で妹の手を縛り、厠に行かせた。妹は縄を解いて外の木の枝にかけて、ひそかに逃げた。兄は妹がなかなか帰って来ないので怪しんで外へ出て見ると、逃亡していた。兄が北の山の端まで追いかけて見ると、早くも遠くまで逃げている。大声で
 「待て待て」
と叫んだ。妹は猛虎に追われたかのように、腹ばいになりながらも逃げ延びた。そのことに因んでその地(その時に渡った川)は“マテ川”と呼ばれる。またその坂を“生死坂(イキ・シニのヒラ)”という。
 その後、兄は首里に妹を訪ねてやって来た。妹は取り急ぎ、一計を案じた。兄を招いて崖の上に坐らせ、鉄餅七つ(これは糯米でモチを作り、中に鉄の玉を入れたものである)・蒜七根、自分が食べるための米餅七つ・蒜七根を作り、兄に鉄餅と蒜を与えた。鬼人は鉄餅を食おうとしても食うことが出来なかった。時に妹は、兄の前に前裾を開いて、箕踞(両足をなげ出して座ること)していた。兄が怪しんで問うた。妹は答えた。
 「私の身には口が二つあります。下の口はよく鬼を喰い、上の口はよく餅を喰うのです。」
と言って、自分の餅と蒜を食べてしまった。これを見た兄は、あわてふためいた。そのため足を踏み外し、崖下に転げ落ちて死んでしまった。
 この謂れによって、毎年十二月、必ず吉日を択び、国人皆が餅を作って食べ、鬼災を避けるのである(鬼餅の行事はここから始まったのである)。古くは内金城邑では、毎年十二月内に六回鬼餅を作り、神に献じて、後これを食べたが、今は、初庚と次の庚の日の二回となっている。松川地頭(地頭は官職名)は、与那覇堂の田米二斗五升を出し、それを根神人に与える。根神人は鬼モチを作り、小嶽に供祭する。

[11036] Re[11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/16(Thu) 11:03 [Reply]
琉球松さん、面白いお話のご紹介、ありがとうございます。

> 「私の身には口が二つあります。下の口はよく鬼を喰い、上の口はよく餅を喰うのです。」

 邪気を払うという役割が強烈なのでしょうね。


鬼に舌を抜かれる話4
生駒の鬼
 以下のお話は、若尾五雄『鬼伝説の研究』を参考にしました。

 大阪と奈良の境、生駒山域に鬼取山というところがあり、そこに人喰い鬼の話があります。
 昔、赤目、黄目という夫婦鬼がおり、始はおとなしかったがやがて人の子供を食べることをおぼえ、村々を荒らしまわったのです。村人がこの鬼退治を計画しましたが、髪切山(こうきりやま)まで行くと、雨が降り風が吹いて近寄れない。どうしても鬼退治ができないので、困っていました。そこへ、役行者が来て、鬼の子供をとらえ隠したところ、鬼が一生懸命で鬼の子を探したので、役行者がその鬼に、自分の困ることは人の困ることだと説教しますと、鬼は改悛したのです。
 この赤目が前鬼で、黄目が後鬼のこと。

 髪切山はテレビ塔の立っている近くで、入り口に八大竜王と書いてあり、境内に滝があり、この滝からは黄金が出ると言います。また金満大神というのが、その側に祀ってあります。金満大神とは役行者のことで、カネフキ大神と言います。

[11037] Re[11036][11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  琉球松 2012/02/16(Thu) 14:49 [Reply]
神奈備さん、ニーファイユー(ありがとうございます・石垣島方言)

 全国に分布する鬼の説話は、だいたい金属と関わりがあるようです。
 で、興味深いのは、これらの鬼は元々は善なる者だったということですね。何らかのキッカケで人食い鬼に転ずる。。。徳之島の類話では「やむなく指を食する」ことで鬼になってしまいます。
 また、姉妹が登場するアイヌの説話「オキクルミの妹」など兄弟姉妹の関係や、新潟県の「鬼が笑う」などのように観音様までが「ホト」をあらわにして難を逃れるなど、バラエティーに富んだ話が多いですね。

 沖縄島から問題にしたいのは、「羅刹女・鬼婆」など女性を悪と見る飛鳥仏教?との対立で、さらにご紹介した「鬼餅由来」に出てくる川や勾配の激しい地形など、イザナミ&イザナギが対立に至った経過などなんですよ。

 ご紹介の「生駒の鬼」も、暴力的な金属神に対して "役行者が説教" することで改悛。。。これは仏教勢力の影響もありそううですが、やはり "目" を問題にしたいですね。
 たぶん、神奈備さんの手元にもあるでしょう谷川健一さんの『青銅の神の足跡』。。。銅鐸や「倭国の乱」まで考えを広げると、鬼の正体がだんだん見えてきますね。

[11038] Re[11037][11036][11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/17(Fri) 15:41 [Reply]
>  全国に分布する鬼の説話は、だいたい金属と関わりがあるようです。
>  で、興味深いのは、これらの鬼は元々は善なる者だったということですね。何らかのキッカケで人食い鬼に転ずる。。。徳之島の類話では「やむなく指を食する」ことで鬼になってしまいます。

 神奈備とは神が隠れる所と言う意味があります。隠れている神を鬼と言ったのでしょう。
 そのイメージに良くあうのが、「角がある人」だったかも知れない天日槍、まさに金属神でもある鬼神。この神が皇室の祖先神の一柱。日槍は兵主神すなわち蚩尤とされており、鬼の原形のイメージです。

 皇室の歴史に神功皇后を経由して鬼の血がはいり、時々本性を現すようです。

 持統の大津殺し、井上皇后と皇太子を殺し、弟の早良皇子を殺した桓武、平安時代にはたくさんの鬼が出たのでしょう。

 自らが鬼の末裔であることを棚に上げて、各地の鬼や蝦夷を征服して来ました。


鬼に舌を抜かれる話5

茨木童子
 昔、水尾村のある農家に男の子(茨木童子)が生まれた。母の胎内に16ヶ月もいたので、生まれた時には歯がはえ揃っていたとか。すぐに歩き始めたという。
 父はある日、童子を籠に入れて九頭神(くずかみ)の森(現在の茨木高校付近)に捨てた。それを床屋の主人が拾いあげ、大切に育てた。床屋の手伝いをしていた童子がある日、客の顔を剃っていた時に、誤って客を傷つけてしまった。童子は吹き出した客の血をとって舐めた。

 血の味を知った童子は、その味が忘れられない。その後、わざと客に傷つけて舐めるようになってしまった。うす気味悪がった客は、店に来なくなり、床屋はさびれる一方と
なった。床屋の主人に厳しく小言を言われた童子は、ある日近くの小川の橋の上から川に映った自分の顔を見ると、それは鬼の形相をした自分の姿であった。

 その小川の橋は以来、茨木童子貌見橋(すがたみばし)と名づけられ、後の世まで語りつがれている。床屋と小川のあったといわれる所に、その橋の碑が立っている。

 童子は驚き店には戻らず、茨木の町をあとに丹波の山奥に行ってしまった。そして、大江山の酒呑(しゅてん)童子のもとに行き、茨木童子と名乗って副将格になったという。

 茨木は荊切と書かれた。『常陸国風土記』の茨城の郡の話にあるように、茨棘(うばら)を穴に仕込み、そこへ土蜘蛛を追い込んで殲滅したことが、摂津でも行われたのかも知れない。
 中臣鎌足が常陸出身との説がある。かれの墓は当初茨木の阿為山であった。茨木には新屋坐天照御魂神社が三座も鎮座している。式内社。雷神(鬼)を祀る。
新屋坐天照御魂神社

 一社は宿久庄に鎮座、平安時代には夙と呼ばれる地域であり、茨木童子の子孫をなのる賤民のの居住地であったと推測される。土蜘蛛の末裔だったのであろう。この辺りを通る西国街道は京に至って羅生門に到る。鬼に到る道である。

何故童子なのか。
 一般に、元服前の男子を言う。鬼は髪を結わないので、童子のままである。
 また、寺院にいる人で得度していない人を童子と言う。八瀬童子はこの部類に属する。
 酒呑童子や茨木童子の場合には、荒々しい神としての鬼、荒魂・新魂であり、少童神・御子神であることから童子とされたのではなかろうか。

 童子で荒魂では日本武尊が知られています。日本童男とも呼ばれた尊こそ、人皇時代では傑出した荒魂の持ち主だったのです。
 また、素盞嗚尊の御子神である五十猛命も素盞嗚尊の荒魂であったのでしょう。出雲では鬼神として祭られており、紀州の串本の大島では雷公神社(なるかみ)の祭神として祭られています。まさに鬼神です。
 神武東征では、磯城邑と葛城邑に八十梟帥が現れます。所謂土蜘蛛(土雲)であり、やはり祀ろわぬ者としての鬼なのでしょう。
 猛き魂を持つ者、これが鬼。


[11039] -吉備と鉄  とみた 2012/02/19(Sun) 08:54 [Reply]
神奈備さん いつも面白いお話ありがとうございます。

弥生時代後期ー終末期の吉備は5万戸を擁する投馬国かもしれない。

上東遺跡は波止場。吉備は伽耶とのつながりが深い。古墳時代に入った造山古墳は伽耶郡にある。伽耶には鉄技術を持った工人が居たのでしょう。その勢力が入植したのか、交易したのでしょう。

吉備には加夜、賀陽とかいう地名が多く韓半島南部の伽耶との関係が深そう。

吉備の備前は鉄がとれたが鉄の多い北部に狙いを定めて大和王権が白猪屯倉を置き鉄を奪いにかかった。備前北部を割いて美作郡と成し地元豪族の和気氏を朝廷側に組み込んだ。

サイコロで勝利した老人は金山彦神なんですね。
先年、吉備をサイクリングで旅したとき吉備津彦神社の前で偶々、呼びかけていただいた人が有木さんと仰せで美作神社の神職の方でした。中山神社は美作一之宮神社とのこと。

この辺がすっきりしません。吉備津神社の方に自転車を進める途中の道で、鼻ぐり地区がありここが有木氏の本拠、一軒の家の前で老人が出て居られて、解説を頂きました。近くに古代の磐座がありそこに太陽光が差し込み古代古墳があるとのことでした。吉備の中山の磐座なんでしょうか。隣の山が茶臼山で中山と複峰を成す。

山と山の間の谷に磐座があり環状列石もある。そこには高麗朝鮮人参が作られていた。

[11040] Re[11038][11037][11036][11035][11034]: 鬼に舌を抜かれる話3  琉球松 2012/02/19(Sun) 11:24 [Reply]
 オボレダレン(ありがとうございます・徳之島方言)

 『茨木童子』の話、これも面白いですね。
 『生まれた時には歯がはえ揃って、すぐに歩き始めた」との比喩は、鬼の優秀さの表現かもしれませんし、「血の味を知った童子は、その味が忘れられない。その後、わざと客に傷つけて舐めるようになってしまった」部分は、徳之島の『秋利神の鬼』と通ずるものがあります。

 ところで、「オニ」の語源が「オン(隠)」とする説が正しければ、地中や川底に潜む?銅鐸を原義とするかもしれません。銅鐸はもともと善なる農耕神だったでしょうけど、土地や水源などの所有意識の発生と金属製武器の発達によって "鬼" に転じた可能性もあるでしょうか。

 琉球圏では、鬼は抹殺の対象ではなく、その角(暴力)の部分を撤去して善なる者に再生するような思想があります。銅鐸神を再生し、誰も所有できない太陽を中心に据えたのも、「ワ」の思想を東に拡大するための戦略でしょうかね。

[11041] Re[11039]: -吉備と鉄  神奈備 2012/02/20(Mon) 11:57 [Reply]
> 吉備には加夜、賀陽とかいう地名が多く韓半島南部の伽耶との関係が深そう。

総社市福谷に姫社神社(ひめこそ)が鎮座しています。

 比売許曽神は大分の姫島と難波のがよく知られていますが、吉備にもありまして、境内には、「古代吉備之国発祥之地」と「古代吉備之国波多波良更郷鉄造之神社」の碑が立っています。備中国下道郡の秦原郷に鎮座と言うことで、吉備の鉄は渡来系の秦氏のグループが関与しているようです。

[11042] Re[11040]: 鬼に舌を抜かれる話3  神奈備 2012/02/20(Mon) 12:00 [Reply]
> 「オニ」の語源が「オン(隠)」とする説が正しければ、地中や川底に潜む?銅鐸を原義とするかもしれません。

 鬼はモノと発音されていたようで、悪の雰囲気はなかったのでしょう。大物主も祟るカミだからこそ畏怖されたので、本来は託宣する神だったのでは。

 卑弥呼の鬼道ですが、古代中国での鬼道について、福永光司著『「馬」の文化と「船」の文化』では、(1)祈祷、(2)祭祀、(3)禁呪、(4)祝詞、(5)護符、(6)憑依、(7)神託・託宣 の七つとしています。卑弥呼の周辺にいた多くの女の中には、後漢や魏の国でおこなわれていたであろう医薬などの知識を持った者が混ざっていて補佐していたのかも。

[11043] 鬼に舌を抜かれる話5  神奈備 2012/02/21(Tue) 16:24 [Reply]
邪鬼を払う。
 世阿弥が『風姿花伝』の中で、「祇園精舎に見立てる伽藍の背戸にあたる「御後戸」にて、外道(邪鬼)祓いのために、鼓・笛・唱歌で、六十六番の物まね(猿楽)をしたのが能の起源であると言っています。
 平泉の毛越寺では、本尊を後戸で守護する摩多羅神の祭りがある。翁装束の者が秘文を唱えます。
 摩多羅神の祭りで有名なのは太秦の広隆寺の大酒神社の牛祭りです。インド伝来の神と言われる摩多羅神が、赤鬼・青鬼を従えて牛に乗って拝殿まで来て、祭文を読み上げるのです。祭文では、疫病神を追い払い、自身が病に効く神であり、悪行や非行にも効用がある等の内容を言うのです。平成十二年を最後に行われていません。牛の調達や気分によるそうです。

摩多羅神像 日光山輪王寺

 摩多羅神は表で祀られる神ではなく、一種の地主神のように、背後・辺境にいて、表の神々を守護する神です。延暦寺の常行堂、四天王寺の引声堂の後戸などが有名です。

 家康を祭る日光東照宮では、家康の隣に祭られています。真如堂には像があるそうです。

 春日大社(雷神)の後戸の神は、奈良坂に鎮座する奈良坂春日社と呼ばれる奈良豆比古神社の神々とされています。そうして、奈良豆比古神の後戸の神として、境内に石瓶神社が鎮座、ご神体は石神。シャクジ、宿神であり、また客神とされています。本来の神が客神の地位に落とされている例は多いのです。東京の神田神社は平将門が祭神でしたが、明治天皇が参詣することになって急遽大己貴命・少彦名命を主祭神として、将門を隠したと言います。

比叡山常行堂の摩多羅神

山門比叡山に対して寺門園城寺が近江に鎮座。ここの地主神は新羅明神です。円珍が唐より帰朝
時、出現。神性雄健(タケキ)とされます。素盞嗚尊とも五十猛ともされています。牛頭天王の素盞嗚尊のように、五十猛神も仏法の守護神となったのです。

摩多羅神については幾つかの研究があるが、その正体にちゅいての一致した見解はなさそうである。
摩訶迦羅天・吒[口篇に 托のつくり]枳尼天・大黒天などに擬される。死人の肝臓を食う神で、肝臓は汚れが集積しているので、これを持ったままでは成仏できない。また古代ペルシャのミトラ神・秦河勝にも比定される不思議な神である。


[11044] Re[11043]: 鬼に舌を抜かれる話5  琉球松 2012/02/22(Wed) 11:42 [Reply]
 「オニ」よりも「モノ」のほうが古いように思えますがどうでしょうか。

 どちらも頼りがいのある神?なんでしょうけど、敵にまわすと恐ろしいですよね。首を落しても抹殺できないし、祟りは面倒ですから大事にしないといけません。

 これらの「オニ・モノ」の話は出雲的な印象を持ちますね。沖縄島の来訪神「キミマモン(君真モノ)」と「大己貴命・少彦名命」もどこかで繋がっているように思います。

[11045] Re[11044][11043]: 鬼に舌を抜かれる話5  神奈備 2012/02/22(Wed) 21:06 [Reply]
>「オニ」よりも「モノ」のほうが古いように思えますがどうでしょうか。

 『古事記』には、鬼、と言う字は出てきません。

 『日本書記』では、イザナギがイザナミの死体を見た後で逃げる際、桃をなげています。このシーンで「此用桃避鬼之縁也」とあります。
 また、天孫降臨の際に、「吾欲令撥平葦原中國之邪鬼」とあります。

 これから、「オニ」が「モノ」より古いとは言いにくいでしょうが、そのような気がします。

 いずれにしても、オニやモノは国津神のようで、征服される側に属しているようです。



広隆寺の牛祭りの摩多羅神

鬼に舌を抜かれる話6

 牛祭祭文をアップしておきます。 川村湊著『闇の摩多羅神』から。

 牛に乗った摩咤羅神が読み上げる「牛祭祭文」 の最初は、日本中のありとあらゆる神々の勧請である。もちろん、それは滑稽味のある、ふざけた神々への招碍状だ。こんな具合である。
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  謹請再拝(きんじやうさいはい)、謹で啓(まふ)す。維南瞻部洲(これなんせんぶしう)大日本国、応永九年無射(きくづき)十二の天(そら)、朝日の豊登り、夕日の豊降ります中に、銀(しろがね)に花栄え、金(こがね)に実結び、天門開き開(あ)けて、地戸和合したる今夜(こよひ)、当寺の当僧四番大衆等、誠を二花の嶺よりも高くし、志を五葉の底よりも深くして、恒例不闕の勤として、摩叱羅神を敬祭し奉る事あり。神明を祭るは招福の計ごと、霊鬼を敬ふは除災の基なり。上は梵天・帝釈・四大天王・日月・五星・廿八宿・七曜・三辰・九禽、下は炎魔王界・五道の大神・泰山府君・天左宇・司命・司禄、別しては当所鎮守三十人所、五所護法・離来天神部類眷属、総ては日本国中の大小の祀神、田中にはあらね共稲積、片山にはあらね共榎本(ゑがもと)・椙本(すがもと)・木枯(こがらし)・藤杜(ふじもり)、嵯峨の奥なる一挙(ひとこぶし) 打れては、軈(やか)てうさい辻々の道祖神、家々の大黒天神の袋持に至るまで、驚かし言(まふ)して曰(まふ)、夫れ以(おもんみ)れば、性を乾坤の気にうけ、徳を陰陽の間に保ち、信を専にして仏に仕へ、慎を致して神を敬ひ、天尊地卑の礼を知り、是非得失の科を弁ふる、これ偏へに神明の広恩なり。茲(ここ)に因つて単微の幣吊を捧げて、敬みて以つて摩叱羅神に奉上す。豈神の恩を蒙らざるべけんや。茲に因て四番大衆等、一心の懇切を抽でゝ十列の儀式を学び、万人の逸興を催すを以て自ら神明の法楽に備へ、諸衆の感嘆を成すを以て、暗に神の納受を知らんとなり。然る間に柊槌頭(さいづちあたま)に木冠を戴き、鍬平足(くはひらあし)に旧鼻(ふるぴ)高(かう)を絡げつけ、鍼牛(からげうし)に荷鞍を置き、痩馬に鈴を付けて馳るもあり。踊るもあり。或は鞍爪に大[門構えに由](おほつむ)を詰めてにがみ、或は荷鞍に尻瘡摺剥いて悲しむもあり。企は誠に十列の風流に似たりと雄ども、体はたゞ百鬼夜行に異ならず。此の如き等の振舞を以て、摩咤羅神を敬祭し奉る事、偏へに天下安穏寺家泰平の為なり。之に因て長く遠く払ひ退くべきものあり。先づ三面の僧坊の中に忍び入りて、物取る世(せ)古(こ)盗人(ぬすびと)め、奇怪すわいふわいや小童ども、本木のなり物取れとて明障子打壊る骨なさ法師頭も危は覚る。扨(さてか)はあた腹・頓病・風咳嗽・疔瘡・癰瘡・[門構えに由]風、ことに尻瘡・虫瘡・膿瘡・あふみ瘡・冬に向へる大胝(あかがり)、並びに胼(ひび)・咳病・鼻たり・瘧心地・択食(つはり)・伝死病、しかのみならず鐘楼・法華堂のかはつるみ、讒言・仲人・闘諍合(いさかひあい)の中間口、貧苦男の入たけり、無能女の隣ありき、又は堂塔の檜皮(ひはだ)喫ひ貫く大鳥・小烏め、聖教破る大鼠・小鼠め、田の畔(あぜ)穿(うが)つ土豹(むぐらもち)、此の如き異類異形、不道無懺の奴原に於ては、長く遠く根の国底の国まで払ひ退くべきものなり。
 右九月十二日太秦広隆寺牛祭祭文なり。
悪心院源信僧都
応永九年九月十二日夕日書レ之(傍点等は原文のママ)1402年
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神奈備