近江宇宙有名地

1.伊勢遺跡について


1.伊勢遺跡について 縄文から中世の複合遺跡。JR守山駅南1km。
 弥生時代後期の遺跡。1世紀末から3世紀初頭。

伊勢遺跡と三上山

 直径220mの円周上の建物は計算上は30棟になる。
 『魏志倭人伝』 「今使譯所通三十国」にあう。
 倭国内の国々の代表者が集まって会議をしたか。
 大国主命の下に各地の神々が集う神集いの現場だったか。

 伊勢遺跡から南西1.3kmに下鈎遺跡があり、最小の銅鐸が出土。東北3kmに最大の銅鐸が見つかった大岩山遺跡がある。

 近畿地方の大型建物は、弥生後期に限ると、野洲川流域の2.5km四方に圧倒的に多い。


2.古事記の舞台は近江か?
 ●伊吹山に天照大神が隠れた高天原の岩戸がある。
  『源平盛衰記』 素盞烏尊(そさのをのみこと)是を取て、定て是神剣ならん、我私に安かんやとて、即天照太神(てんせうだいじん)に奉る。 天照太神、吾天岩戸に閉籠し時、近江国胆吹嶺に落たりし剣なりとぞ仰せける。

 ●高天原とは高海原、琵琶湖の標高は85mである。

 ●三上山の西側を野洲川が流れている。天の安の河と同名の川である。

 ●伊邪那岐命の幽宮である多賀大社が鎮座する。古事記は淡海の多賀に坐すと明記している。

 ●伊邪那美命の墓所とされる比婆神社が彦根市男鬼町(おうり)に鎮座する。タタラ地名。

 ●事戸渡しの場とされる千石岩が大津市にある。黄泉の国との境の平坂を思わせる比良と坂本と言う地名がある。

 ●天照大神と素盞嗚尊の誓約で生まれた天津彦根命にゆかりの土地や市杵島姫命を祭る竹生島神社が鎮座する。

 ●国譲りの先兵の天若日子を祭る神社が鎮座する。天津彦根と天若日子の関係を示唆している。

 ●近江は和珥氏の跋扈した土地、沖之島、和邇、蒲(生郡)が揃う。


 伊弉諾諾尊の幽宮は紀では淡路、記では淡海(真福寺本)。

 『日本書紀』は「是後伊弉諾尊神功既畢。靈運當遷。是以構幽宮於淡路之洲。寂然長隠者矣。」と 幽宮を淡路に求めています。さらに、「亦曰。伊弉諾尊功既至矣。徳文大矣。於是登天報命。仍留 宅於日之少宮矣。〈少宮。此云倭柯美野。〉」と別伝を載せています。近江を指しているとも思えません。
 履中紀には、「淡路の伊弉諾神が飼部の入れ墨の血の臭いをいやがった。」とする記事がでています。また允恭紀にも、淡路の神が明石の真珠をほしがったとあり、伊弉諾神のように思われます。

 『古事記』真福寺本は、「坐淡海之多賀也。」とあり、現に多賀大社(延喜式 多何神社)が鎮座 、『倭名抄』に、近江国犬上郡に田可郷があるとなっており、多賀は古い地名です。
 淡路にはタカ郡やタカ郷の名が見えません。『地名辞書』によれば、「河合村・井谷村を合同して 多賀村と云う。大字多賀には伊佐奈岐神社あり、当国の一宮にして、即国幣小社に列す。」とあります。
 多賀は大字の名で、以前は神宅(かんやけ)でした。淡路の多賀は天保年間が初出。(『兵庫県の 地名』平凡社)要はマイナーな地名。『古事記』道果本・道祥本・伊勢本が「淡路の多賀」と記した のは疑問です。やはり淡海だったのでしょう。

 近江の多賀は記紀や続日本紀には出てきません。壬申の乱の物語にも戦場近くだったのに出ていません。天武側は近江の神に戦勝祈願はしなかったのでしょう。
 『延喜式神名帳』には、淡路伊佐奈岐神社が大社、近江国犬上郡多何神社二座は小社とあります。『 新抄格勅符抄』には、「近江国田鹿神 六戸(多何神社)、淡路国津名神 十三戸(淡路伊佐奈伎神社 )となっています。

   伊弉諾尊を祀る式内社は
 大和国添下郡・葛下郡・城上郡
 伊勢国度會郡
 出雲国出雲郡
 摂津国嶋下郡
 若狭国大飯郡
 に鎮座しています。海人族が祀った神社でしょう。これらに淡路・近江を加えて共通の海人族があれば 、彼らが各地に勧請していったということでしょう。入れ墨の安曇は別として、物部・和珥など、ピッタと来るのはいないようですね。天皇家や藤原氏にまで広げて見ましょうか。


3.和珥氏について
 南方系の海神族。入れ墨。和珥の祖の難波根子武振熊命は丹後海部十八世孫とある。『姓氏録』では、大国主命を祖とする。

 和珥氏の支流に安曇海人がいる。奴国王家は和珥氏。

 多数の后妃の輩出した氏族。八色の姓ではトップが大三輪君、2番目が大春日臣(和珥の宗族)とする名門であった。分岐に小野氏、ここから猿女(祭祀氏族)を出した。日吉大社に関係する。

 和珥氏から出た将軍は二つの反乱を収拾した。日子国玖命は建波邇安彦王を、難波根子武振熊命は忍熊王を討伐。(『紀』では忍熊王討伐は武内宿禰。)

 大和での和珥の本拠は天理市和爾町で祖神を祀る和爾下神社が鎮座する。
 4世紀前半に造営された東大寺山古墳から中平紀年銘刀(中平184−189年)が出土。倭国乱の頃。

 和珥氏と同祖氏族 小野(妹子) 柿本(人麻呂) 都怒山・角山(高島郡津野神社)など。



4.歴史年表
西暦 世界の動き 日本の動き 近江の動き
400万年前     伊賀上野に湖誕生
100百万年前     湖、現在地に
40万年前     湖、現状に近い状態になる
57   倭の奴国王が後漢に朝貢。印授。 守山市伊勢遺跡
      栗東市下鈎遺跡 最小の銅鐸出土 3.4cm 5.2g
107 シルクロードの東西交流 倭国王帥升等が後漢に朝貢  
      野洲市大岩山 最大の銅鐸が出土 134.7cm45.5kg
184 大陸 黄巾の乱・後漢衰退 倭国乱れ相攻伐すること歴年  
  半島 高句麗建国    
  大陸 魏呉蜀の三国時代    
210   卑弥呼共立  
239   卑弥呼、難升米・都市牛利らを魏に派遣。親魏倭王。  
240   帯方郡太守、弓遵ら倭国に来る。銅鏡百枚を賜る。  
248   卑弥呼死す。  
      新旭町 前方後方墳
    倭国、男王たてるも国中服さず。誅殺しあい、千余人殺される。  
    卑弥呼の宗女で13歳の台与を女王とする。  
266   倭女王、使者を遣わし、西晋の武帝に貢献する。  
  大陸 五胡十六国、東晋 大和に前方後円墳  
300   景行天皇 高穴穂宮
  半島 百済・新羅成立 成務天皇  
    仲哀天皇 犬上氏 荒神山古墳
建部氏 膳所茶臼山古墳
    河内王朝発足 忍熊王、琵琶湖に死す。
      河内和泉に大型前方後円墳
400      
500   継体天皇即位  
660   白村江の敗北 天智天皇即位 近江大津宮に遷都
670   壬申の乱、天武天皇即位 大津宮炎上
      水碓で治鉄する。
703     志紀親王に近江国の鉄穴を賜う。
710   藤原不比等ら養老律令を選定 藤原武智麻呂が国守
    古事記編纂  
742   有力者の鉄穴を専有を禁止、貧賤にも採取させよ。  


5.近江の製鉄遺跡 60箇所以上  鉄鉱石使用 (全国で年間30トン。)

製鉄遺跡


日本の製鉄の動き
  6世紀 石見や吉備で始まった量産製鉄
  7世紀 近江や畿内で研かれ 量産コンビナートに発展
  8世紀 東北 北九州 越後 四国伊予 大和王権の地方拠点に広がる
  9世紀 近江の鉄鉱石製鉄が衰え、播磨の砂鉄製鉄が興隆。蝦夷の蕨手刀に大和直刀が負けた。

a 古橋遺跡  6世紀〜7世紀前半  近畿では最も古い製鉄遺跡  近江のまほろば
 伊香郡木之本町古橋 與志漏神社 神速須佐之男命 波多八代宿禰命

b 北牧野製鉄遺跡  8世紀 恵美押勝に浅井・高島郡の鉄穴二箇所を賜ったと『続日本紀』にある。
 隣接する北牧野古墳群には96基の群集墓がある。製鉄に従事した渡来系技術者の墓。

c 上仰木製鉄遺跡  平安時代 9世紀後半  比叡山麓、古代製鉄の空白地   雄琴の西
 根本中堂への仰木道の途中   粉鉄七里(こがねしちり)に炭三里
 この付近に炭焼き跡あり 一帯は樹林。鉄鉱石も南川の比叡山中に分布。
 大津市仰木町 小椋神社 猿田彦神

d 南郷・田上製鉄遺跡 7世紀後半 琵琶湖から瀬田川に3km
 製鉄炉(せいてつろ)1基 木炭窯跡1基
 大津市南郷 御霊神社摂社宇賀神社 宇賀御魂命 伊弉冉尊 火産靈尊 踏鞴姫尊

e 湖国製鉄コンビナート
 月輪南流遺跡 大津市月輪  7世紀後半 鉄滓
 源内峠遺跡  大津市大萱町  7世紀後半 7世紀以前 自然風 人工送風
 湧済谷(ゆさいだに)遺跡 8世紀 製鉄跡 鉄滓
 木瓜原(ぼけわら)遺跡  7後〜8世紀 製鉄炉 鍛冶炉  製銅 梵鐘鋳造跡
 野路小野山遺跡 8世紀  製鉄炉15基 2列  小さい炉が多い  鉄鉱石を使用
 野洲市三上 御上神社 天之御影神(天目一箇神)


6.近江の神々  (金属関連)
野洲市三上 御上神社 天之御影神(天目一箇神)

蒲生郡蒲生町鋳物師 竹田神社 天津彦根命、天目一箇命、石凝姥命、大屋毘古命)五十猛神)
 祭神の天目一箇命は製鉄の神として敬われいる。

高島市高島町 水尾神社 猿田彦神
 猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」との遺言をした。

伊香郡余呉町 鉛練比古神社 天日桙命
「近江伊香郡誌」によれば天日槍は中郷に留まり、坂口郷の山を切り、余呉湖の水を排して面積を1/4に縮めて田畑を広げた。

伊香郡余呉町 丹生神社 丹生神社  丹生都比売命


7.考古学は記紀を裏切らない
     布多遅比売
       ├────── 稲依別(犬上君・建部君の祖)─・─ 倉見別(犬上祖)
       │
       │  天日槍・・・ 息長帯姫
       │         ├────── 応神天皇
       ├────── 仲哀天皇
     ┌ 日本武尊     │      ┌ 香坂王
景行天皇 ───┤      ├────┤
     │           │      └ 忍熊王
     └ 大江王 ── ──大仲比売

塚口義信先生の「香坂王・忍熊王の反乱伝承」について(豊中歴史同好会講演から)
1.忍熊の名が佐紀盾列古墳群(西群)のすぐ西北に位置する「忍熊里」の地名に由来しているので実話かも知れない。
2.仲哀天皇に対し、神々が神功皇后を通じて、新羅国を帰服させるので神意に従うよう託宣するが、仲哀天皇はこれを疑い、そのため崩御する。神功皇后は神託を信じ三韓を帰服させる。前王朝は神に見放されたとする。
3.守護神の神意が仲哀天皇から神功皇后の「御腹に坐す御子」に替わった。新王朝の正当性が神により、認められた。
5.当時は、応神ではなく香坂・忍熊二王の方こそ王権の正当な後継者であったとする認識があった。この認識の消去には神意を持ち出すしかない

近江の古墳



神功皇后伝説の後半部で語っている近江南部における忍熊王敗死の物語

  神功・応神のとの戦争に際し、犬上氏の祖の倉見別は忍熊王方の「将軍」となっている。

  犬上氏は四世紀後半から末葉にかけての時期には佐紀政権主流派の支持勢力として隆盛を極めていた。

犬上郡
  四世紀末葉に大古墳が築かれている。荒神山古墳。

  五世紀代になるとこれに続く大古墳が築かれていない。

忍熊王が「瀬田の済」(大津市瀬田町付近の渡し場)で琵琶湖に入水して乱は終息する。
滋賀郡
 膳所茶臼山古墳(大津市秋葉台)墳丘長一二〇メートル、後円部径約七〇メートル、三段築成。

 膳所地区にはこの古墳に続く同系列の大古墳がない可能性が強い。
 従ってこの古墳の被葬者もまた荒神山古墳の被葬者と同様に、佐紀政権の主流派と深い関わりが見える。
 古墳から東南指呼の所に、延喜式内社の建部神社が鎮座。
 古墳の埋葬者は軍事氏族として有名な建(たける)部(べ)氏であったろう。

 先に荒神山古墳の被葬者ではないかと推測した犬上氏とこの建部氏とは同族関係にあった。

 四世紀末の内乱によって、佐紀政権の首長家とともに没落の運命を辿らざるを得なくなった。

 忍熊王が瀬田済で身を投じたとする『記』『紀』の伝承の背後には、佐紀政権主流派に荷担していた建部氏や犬上氏の前身の一族が四世紀末の内乱で敗北したという史的事実が存在していると考えられるのである。
   以上

参考書
塚口義信 「香坂王・忍熊王の反乱伝承」について(豊中歴史同好会講演)
大橋信弥 「新・史跡でつづる古代の近江」 ミネルバ書房

 近江宇宙有名地:近江は天の下に名のある地。藤原仲麻呂(恵美押勝)著藤氏家伝にある。近江の国司を勤めた。

神奈備にようこそ