Uga 楽浪郡・帯方郡


三韓の歴史





1.古朝鮮


 檀君王倹 前2333〜前1123  天帝の庶子桓雄が熊女と結ばれ檀君王倹を生み、平壤を都として朝鮮国を治めた。――我は天帝の孫桓雄と熊女の子檀君なり。天帝の御命令に従って国を開き、国の名を朝に鮮やかな聖なる地にちなんで朝鮮と定め、天に従順なるこの民を導き、治めます。――平壌地方の民間信仰である。朝鮮人の心の拠り所だとされる。

 箕子朝鮮 前1122〜前194 周の武帝が殷の王族の賢人箕子を朝鮮王に封じた。檀王位を継いだ。伝説的色彩が強い。

 衛氏朝鮮 前194〜前108 中国の燕に出自を持つ衛満が半島北部に建国した。衛満も檀君の王位を継いだとされる。中国人と土着勢力との連合政権と見なされている。一時は漢をしのぐほどの勢いだったが、内紛もあり、漢に滅ぼされた。




2.漢の動き

前109 漢、やっとの思いで衛氏朝鮮を討った。この地に 漢の直轄地として 楽浪 臨屯 玄菟 真番 の四郡を置いた。漢人に支配させるが、強すぎないように規模を小さくした。楽浪郡は平壌の大同河南岸にある楽浪土城に置かれた。楽浪郡は四郡の中では最も南に位置する。楽浪郡は高句麗の侵攻で313年に滅びることになる。
前82 真番 臨屯 二郡を廃止  一部は玄菟郡・楽浪郡に吸収。
前75 玄菟郡は事実上崩壊した。高句麗建国の素地となった。
 楽浪土器は還元焔焼成で、高温、鉄生産にもつながる。楽浪郡のすぐ南の馬韓やその東南の弁韓の鉄生産にかかわっています。
最近、漢の出先の楽浪郡ではなく、朝鮮人による楽浪王国があったとの説がある。これには歴史の偽造のいとくいな中国人もビックリの偽造。
 日本列島に鉄生産技術をもたらしたのは、馬韓弁韓の関係者ではなく、海洋民が間接的に伝えたとされる。国家機密だったようだ。楽浪土器は、対馬・壱岐・北九州・出雲・吉備から出土してる。



3、三韓

前漢末期になると朝鮮諸族が発展して来た。
 建国神話
前57 辰韓六村が赫居世を推戴、国号を徐那伐とする。新羅国の建国にあたる。
前37 高句麗の始祖朱蒙(東明王) 卒本で建国。
前18 百済始祖温祚、尉礼城で建国。

 衛氏朝鮮が滅びる前から、衛氏朝鮮を囲むように南北に新しい国を形成する動きが活発になってきた。中国遼寧省地方には高句麗が産声をあげた。
南方の漢江以南で、部族連盟体だった辰国が三つにわかれ、馬韓・辰韓・弁韓の分極化始まっていた。この三つの部族国家を三韓と言う。

四郡と韓諸国

 三韓の中では馬韓が比較的大きい存在で、五十四の小国からなっており、漢江流域以南で、西側を領域としていた。これらの小国の中から伯済が中心的存在となり、後の百済となる。
 辰韓は新羅の母体となった国で、慶州を拠点とした斯盧国など十二国で形成されていた。半島の南東側である。
 弁韓は卞韓とも書き、洛東江流域の狗耶国など十二国で形成されていた。後に六伽耶となる。6世紀には新羅に吸収される。

 六伽耶の天孫降臨神話。伽耶の建国者首露王
 首露王の誕生は、「亀旨峰(クジボン)」という山に六つの金の卵が空から降りてきて、卵から生まれた王たちはそれぞれ六伽耶の王になり、その一番最初に生まれたのが、この首露王だと韓国の歴史書「三国遺事」に記載されています。また、首露王は金の卵から生まれたことから姓を「金」と名乗り、韓国に大勢いる金海金氏の祖先として、今でも子孫たちが3月と9月に祭祀を行っています。誕生は、神秘的な神話として伝えられていて、信憑性は疑問視される。『古事記』の中に「くじふる嶺」の山の名前が記載されていたことから、注目されるようになった。
 首露王の王妃はインドのアユタ国の王女で, 西紀48年に洛東江河口に来航し金首露に会い結婚したんだそうです。この夫婦の娘が卑弥呼で、西紀103年に弟の先見王子とともに亀甲船に乗って九州に渡り、邪馬台国を建国したことになっています。

 辰韓に、「昔、中国の秦国の苦役に服することを嫌って逃亡した流民たちが韓に渡ってきた。馬韓では東の国境地帯の土地を彼らに与えて住まわせた。」と伝わっている。


4.後漢 25年建国 東方に無関心

  朝鮮半島の支配に関心を示していない。楽浪郡の組織も在地豪族が主体で、実質的機能は遼東銀に移っていた。
  後漢の世祖は、朝貢に対して通常の倍の賜物を与えた。大いに遼東郡に協力した。
  1世紀半ば 朝鮮南部の韓・倭が遼東郡に朝貢。
  57 委奴国、後漢に朝貢。おそらく楽浪郡経由。
 107 倭国王帥升等、後漢の安帝に生口160人を献じる。
 111 扶余が楽浪郡を攻めた。
 118 高句麗が玄菟・楽浪を攻撃。


5.公孫氏と帯方郡

玄菟郡大守であった公孫よく【王或】は 公孫度を養子にむかえた。
184 後漢 黄巾の乱おこる。衰退する。
184 公孫度、遼東太守になる。遼東郡の支配を確立して高句麗・烏丸を討ち勢力を拡大した。高句麗は二年後に自立、その後協調関係。
楽浪郡を復興し、さらに東方のかい【水歳】族や南方の韓族の支配を強化する。
205 楽浪郡の屯有県以南を帯方郡として朝鮮南部の韓族や倭族を支配した。
220 魏の曹丕、後漢を滅ぼす。
238 魏の明帝の意をくんだ幽州刺史母丘倹が派遣した司馬宣王が公孫淵を討ち滅ぼした。 
238 公孫淵が滅ぶと 韓族の国や邪馬台国が朝貢をし始めた。
 遼東郡を起点とし、楽浪・帯方の二郡を前進基地として、呉と高句麗を睨んだ。


6、『韓伝』から

 韓族は鬼神を信じており、国や村にはそれぞれ天神を祭る人がいて、天君といわれている。また諸国にはそれぞれ特別な村があって、蘇塗(そと)といい、大木に鈴や太鼓にかけて鬼神を祭っている。罪を犯して逃げてきた者も、この村に入ると捉えられない。そこでこの地方の人はよく罪をおかす。


7、晋の東方政策と高句麗の動き


265 晋 中国を統一
274 幽州の五郡を分割して平州(現在の遼寧省)を置いた。平洲は楽浪・帯方など五州を統治した。これにより、馬韓・辰韓諸国が晋に朝貢するようになった。
311 高句麗王美山王が鴨緑江河口の西安県を陥れた。遼東郡と楽浪・帯方二郡との連絡路は断ち切られた。遼東郡と楽浪・帯方二郡との連絡路は断ち切られた。
313 高句麗王美山王 10月、楽浪郡を占拠、翌年9月、帯方郡に侵入し倒した。   前108年、漢の朝鮮四郡設置以来の中国の朝鮮種族支配に終わりをつげた。


漢四郡が滅びて、高句麗・百済・新羅の三国は国境線がじかに接するようになった。この後、7世紀半ばの新羅の統一までの期間、互いに覇を競うことになった。


以上



参考資料
『古代朝鮮』井上秀雄 講談社学術新書
『物語 韓国史』金両基 中公新書
『神功皇后と天日矛の伝承』宝賀寿男 法令出版

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