猿田彦の原像

1 縄文時代の猿田彦

  
この時代の祈りは、生みの神秘ととセックスであろう。中央に屹立する石棒はみなぎる男根、周囲の円形はホト。猿田彦と天宇豆女の原形であろう。男根は地中から上に向かって立っている。地の神が天女と交合するイメージ。

  ストーンサークル(縄文後期 秋田件)
大湯遺跡 通称商日時計

顔面装飾付深鉢(縄文中期)

集落の存続のために子供を産むことにつながる性に対する強い思いがあった。
集落を子孫に繋ぐ、地下の祖神のパワーを頂いて懐妊を願うのである。石棒も象徴。

2.辟邪
性のパワーには、魔除けがある。古代の戦時巫女は軍の先頭に立って、ホトを露出する。敵は戦意を喪失すると言う。猿田彦神は衢の神である。村に魔物・邪が入るのを阻止する神である。故に性の神と言える。天宇豆女神は巫女であり、性の女神であるのは、『記・紀』の物語から明らか。

3.道案内
辟邪の神は、衢の神、祖(さえ)の神、来名戸祖の神、岐の神とも呼ばれる。この神は逆に言ばば道案内の神ともなる。猿田彦神は天孫の瓊々杵尊を筑紫の日向の高千穂のくじふる嶺に先導した。
『日本書紀』一書第二)には、大己貴神が岐神を経津主と武甕槌につけて方々を巡り歩いて、天神は従わない」者を殺した。
『日本書紀』第九段本文)大己貴神が国を平らげた時に用いた広矛を使者の二神に与えて、これを用いれば、国は平安になるでしょうと言った。。
吉田敦彦氏は、矛は杖であるとしている。即ち、大己貴神は猿田彦神を共として葦原中国を平定したと言うことが出来る。

4.アイヌ語
大三元氏。アイヌ語のサルは葦原の意味がある。猿田彦は葦原の醜男(大己貴神)を案内する神にふさわしい名前である。
 しかし猿田彦の基本に「猿」があるのだろう。南方熊楠「猿は牡蠣を好み、引き潮に海岸で牡蠣が殻を開いた所に小石を打ち込み、肉を取って食う。時々手を挟まれて大騒ぎをする。猿が土人にとらえられて食われる事がある。この話は、『古事記』伊勢の阿邪訶で比良夫貝に手をかまれる話がある。

5.伊勢・伊賀
『伊賀国風土記逸文』 猿田彦神、はじめ此の国を伊勢かぜはやの国に属(つ)く、そして二十余万歳、此の国を知れるなり。猿田彦神の女、吾娥津媛命、日神の御神の、天上より投げ降ろし給ひし三種の宝器のうち、金鈴を知り守り給ふ。またこの神の知り守れる国なるによりて、吾娥の郡といふ。その後、清見原天皇御宇、吾娥郡を以て分かちて国の名とす。

 この伝承によると、猿田彦は伊賀や志摩をふくむ抗議伊勢国(三重県)を長く統治していたと信じられていた。伊賀の土着の神の吾娥津媛命を御子とするのは、その神話的表現である。

6.出雲
猿田はサタとも読めるのは、猿投神社をサナゲと読むことでも判る。
『出雲国風土記』加賀の郷 佐太大神のお生まれになった所である。御祖神魂命の御子の支佐加比売が、「なんと闇い岩屋であることよ。」と仰せられて、金の弓をもって射給うた。その時光が加加とあかるくなった。だから加加と言う。

○佐太大神には太陽神を思わせる。
『古事記』天孫の降臨を天の八衢で待ち受けている猿田彦は、上は高天原を、下は葦原中国を光(てらし)していた。

『出雲国風土記』加賀の神埼
 ここに窟がある。・・いわゆる佐太の大神のお産まれになった場所である。御祖神魂命の御子の枳佐加比売命が祈願して、「私の御子が麻須羅(ますら)神の御子なら、失くなった弓箭よ出てこい。」と祈られた。・・金の弓箭が流れてきた。お産れになった御子はこれを取って「なんと暗い窟だろう。」と言われて射通しなされた。すなわち御祖の支佐加比売の社が鎮座している。

父神は麻須羅であり、これは猿の古語である。猿の子は猿。佐太大神は猿田彦であった。

旧加賀の潜戸

新加賀の潜戸

7.沖縄
宮古島の狩俣で祖先祭(うがんさい)の行列の先頭を歩く老婆は赤い頭巾をかぶって、葉のついた椿の枝を杖として地面をたたきながら神々を案内していく。サダル神と言う。サダルが音韻変化でサルタになり、縮まってサタとなったとは谷川健一 氏の言である。なお、沖縄には「猿」はいない。

祖先祭で先頭を歩くサダル神

8.椿
『荘子』 椿は八千歳を春とし八千歳を秋とする霊木。不老長寿の効果があり、進んで、辟邪懲悪の威力があある。『荘子』の椿は日本の都婆岐とは違うが、古代人は同じと見なしたようだ。
霊木。無数の赤い花が咲く。人間の生命にかかわる。人の数だけ花をつける。人が死に直面するとか不幸に見舞われることを予知する。花が何らかの変化を見せる。霊樹。粗末に扱うと祟りがある。
奈良・正倉院の南倉に伝わる椿杖(つばきのつえ)は天平宝字二年(758)正月初卯の日におこなわれた魑魅悪鬼払いの行事に用いられたもの。

9.銅鐸
辟邪は銅鐸の邪視文にも顕れている。邪視文が悪霊を退ける信仰を示している。猿田彦は「目勝つ人」であり、同じ働き。
『猿田彦と秦氏の謎』清川理一郎著によれば、滋賀県高島市の式内社水尾神社につたわる『神社縁起書』に、猿田彦が「われが死ねば銅鐸がなりひびくであろう」との遺言をしたとある。

10.『古事記』天宇受売神
 ここに日子番能邇邇芸命、天降りまさむとする時に、天の八衢に居て、上は高天原を光し、下は葦原中国を光す神ここにあり。かれここに、天照大御神・高木神の命を以ちて、天宇受売神に詔りたまはく、「汝は手弱女なれども、いむかふ神と面(オモ)勝(カ)つ神なり。かれ、専(モハ)ら汝往きて問はまくは、『吾が御子の天降りする道を、誰ぞかくて居る』と問へ」とのりたまひき。かれ、問ひたまふ時に答へ白(マヲ)さく、「僕は国つ神、名は猿田毘古神なり。出で居る所以は、天つ神の御子、天降りますと聞きつる故に、御前(ミサキ)に仕へ奉(マツ)らむとして、参(マヰ)向へ侍(サモラ)ふ」とまをしき。

かれここに、天宇受売命に詔りたまはく、「この御前に立ちて仕へ奉りし猿田毘古大神は、専ら顕(アラ)はし申しし汝送り奉れ。またその神の御名は、汝負ひて仕へ奉れ」とのりたまひき。ここを以ちて、猿女君(サルメノキミ)等、その猿田毘古の男神の名を負ひて、女(ヲミナ)を猿女君と呼ぶ事これなり。

かれその猿田毘古神、阿耶訶(アザカ)に坐す時、漁(スナドリ)して、比良夫貝にその手を咋(ク)ひ合(アハ)さえて、海塩(ウシホ)に沈み溺れましき。故(カレ)、その底に沈み居ます時の名は、底どく御魂(ミタマ)と謂ひ、その海水(ウシホ)のつぶたつ時の名は、つぶたつ御魂と謂ひ、そのあわさく時の名は、あわさく御魂と謂ふ。

 すなはち悉(コトゴト)に鰭(ハタ)の広物、鰭の狭物を追ひ聚(アツ)めて、問ひて、「汝は天つ神の御子に仕へ奉らむや」と言ひし時、諸の魚(ウヲ)皆「仕へ奉らむ」と白す中に、海鼠(コ)白さざりき。ここに天宇受売命、海鼠に謂(イ)ひて、「この口や答へぬ口」と云ひて、紐小刀もちてその口を拆(サ)きき。故、今に海鼠の口拆けたり。ここをもちて御世、島の速贄献る時、猿女君等に給ふなり。

 猿田彦はウズメに送られて伊勢に戻り、夫婦となったようだ。猿女君は巫女や語り部として活躍した。稗田阿礼も後裔である。記紀へ伊勢の物語を持ち込んだのは猿女君だったと思われる。
 阿耶訶での物語は猿田彦には海人族の匂いがする。志摩や神宮周辺の地は豪族の磯部氏の跋扈する地であった。
 磯部氏は伊勢部のこと。全国に磯部の地名がある。
 伊勢国度会郡 伊蘇(SとTとが交替)。 三河国渥美郡 磯部。相模国余綾郡 伊蘇
 信濃国埴科郡 磯部。上野国碓水郡 磯部、越前国坂井郡 磯部。美濃国席田郡 磯部。
 これから見ると、磯部氏は陸地にも上がった海人族と言えよう。

 『筑前国風土記逸文』 によれば、仲哀天皇が行幸した際、怡土の県主の祖、五十跡手が三種の神器を捧げてお迎えしたので、誰かと尋ねられて、日桙の末裔と名乗った。天皇は賞して、伊蘇志といい、この国を恪勤(いそし)の国と名付けるがいいと言われた。磯部は渡来系かも知れない。伊勢神宮は渡来人が祀っていたことになる。

 鰭の物語は志摩が御餞ツ国として天皇に献上する御贅の由来を語る。また海鼠の話は魚類に対する支配力を表し、海の女神となっていることは海人族の司祭者を見ている。

11.猿田彦、佐太大神を祀る主な神社
伊勢 椿大神社、都波岐神社(以上式内) 興玉神社、猿田彦神社(子孫の宇治槌公さんが宮司)、
出雲 佐太神社(式内)
近江 白髭神社

以上

神奈備にようこそ