Uga葬送儀礼と万葉集

1.殯宮(アラキノミヤ)
  
埋葬までの期間、遺体を置いておく場所 即ち死者の宮。死者に対して芸能や哀悼の言葉(誄詞)を捧げる場。
 建物としては、春日若宮おん祭の御旅所のようなもの。

2.『魏志倭人伝』
その死には、棺有りて槨無し。土で封じ冢を作る。始め、死して喪にとどまること十余日。その間は肉を食さず、喪主は哭泣し、他人は歌舞、飲酒に就く。已に葬るや、家を挙げて水中に詣(いた)り澡浴す。以って練沐の如し。
埋葬以前に歌舞(芸能)や飲酒が行われた。死者と生者が生活を共有する。

3.『古事記』天若日子
天若日子の妻、下照比売の哭く声、風のむた響きて天に到りき。ここに天なる天若日子の父、天津国玉神またその妻子聞きて、降(クダ)り来て哭き悲しびて、すなはちそこに喪屋を作りて、河雁(カハガリ)をきさり持(モチ)とし、鷺(サギ)を掃持(ハハキモチ)とし、翠鳥(ソニドリ)を御食人(ミケビト)とし、雀を碓女(ウスメ)とし、雉(キギシ)を哭女(ナキメ)とし、かく行なひ定めて、日八日夜八夜を遊びき。
埋葬以前の八日間を「遊びき」としている。芸能などであろう。古代の葬儀の風習だったと言える、

4.天武天皇の葬送
朱鳥元年(686)九月九日、飛鳥浄御原宮で崩御。南の庭に殯宮が設けられた。
殯宮の中には讃良皇后がこもっていたようである。
殯庭では繰り返し、誄詞の奏上が行われた。二年三か月の殯の期間に、誄詞の奏上は23回に及んだ。誄詞の内容は残っていないが、和田萃は、「鎮魂」、「誄を奉ずる人々の政治姿勢の表明」、「氏族の系譜」、「皇室系譜」を奉ずる機能があったと推定している。
誄は、職掌、律令諸官角宮司、続いて僧尼、百済王、各国造が行った。誄と芸能を奏上した。いずれも服属の誓約とされている。これらの間に大津皇子の粛清が行われている。
翌正月、草壁皇子(日並皇子)は、公卿、百寮人を従えて殯宮に適でている。
殯宮の催事も終焉に近付いた持統二年十一月に、草壁皇太子が公卿や諸蕃の賓客を率いて殯宮に適でてから、縦伏舞が奏上され、さらに諸臣らが先祖等の仕えまつれる状を挙げて誄んだ。これは氏族がそれぞれの職掌をもって朝廷に奉仕している由来を語り、以後の服属を誓約する内容であった。

5.天武 草壁 持統
681 天武十年二月 飛鳥浄御原令編纂の詔 同じ日に草壁立太子
686 朱鳥元年七月 天武病気ゆえ、政務を皇后と皇太子にゆだねる。
        九月 九日 天武崩御
        九月十一日 南庭に殯宮が建てられる。
        九月二四日 大津事件
九月二七日〜三〇日 律令諸機構の職掌の誄が集中的に奉される。
持統称制
687 元年 正月    草壁皇子が公卿・百寮人を率いて殯宮に詣でる。
688 二年 正月    草壁皇子が公卿・百寮人を率いて殯宮に詣でる。
      十一月    当麻真人智徳は、帝皇の日継の次第を誄にして奉った。 
             天武天皇への誄奏上は全て男であった。
天武の殯宮が終了。檜前大内陵に埋葬。
689 三年 正月    飛鳥浄御原宮の前庭で、元日の朝排が行われた。
       四月    草壁皇太子没
690 四年 正月    鵜野皇后(持統天皇)即位。

6.天武の挽歌
天皇の崩(かむあがりま)せる時、大后のよみませる御歌一首
0159 やすみしし 我が大王の 夕されば 見(め)したまふらし 明け来れば 問ひたまふらし 神岳(かみをか)の 山の黄葉(もみち)を 今日もかも 問ひたまはまし 明日もかも 見(め)したまはまし その山を 振り放(さ)け見つつ 夕されば あやに悲しみ    明け来れば うらさび暮らし 荒布(あらたへ)の 衣の袖は 乾(ひ)る時もなし
意味
中国の陰陽道の思想がもとになっているようで、実際には鵜野大后ではなく、陰陽師などの代作であるのかも知れない。
神山は雷丘か、もしくはミハ山。その神山に「たなびく雲」とは天皇の魂のこと。「青雲」はそれよりもさらに広い雲。その「青雲の中の星からも天皇の魂の雲は離れて行き、さらには月からも離れて行ってしまった…」との、天武天皇の魂との別れを悲しむ歌と解釈すれできる。

7.日並皇子の挽歌
日並皇子(草壁皇子)の尊の殯宮(あらきのみや)の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、また短歌(みじかうた)
0167 天地(あめつち)の 初めの時し 久かたの 天河原(あまのがはら)に 八百万(やほよろづ) 千万(ちよろづ)神の 神集(かむつど)ひ 集ひ座(いま)して 神分(かむあが)ち 分(あが)ちし時に 天照らす 日女(ひるめ)の命(みこと) 天(あめ)をば 知ろしめすと 葦原の 瑞穂の国を 天地の 寄り合ひの極み 知ろしめす 神の命と 天雲(あまくも)の 八重掻き別(わ)けて 神下(かむくだ)り 座(いま)せまつりし 高光る 日の皇子は 飛鳥(あすか)の 清御(きよみ)の宮に 神(かむ)ながら 太敷きまして 天皇(すめろき)の 敷きます国と 天の原 石門(いはと)を開き 神上(かむのぼ)り 上り座(いま)しぬ

我が王(おほきみ) 皇子の命の 天(あめ)の下 知ろしめしせば 春花の 貴からむと 望月の 満(たた)はしけむと 天の下 四方(よも)の人の 大船(おほぶね)の 思ひ頼みて    天(あま)つ水 仰(あふ)ぎて待つに いかさまに 思ほしめせか 由縁(つれ)もなき 真弓の岡に 宮柱 太敷き座(いま)し 御殿(みあらか)を 高知りまして 朝ごとに 御言問はさず 日月(ひつき)の 数多(まね)くなりぬれ 

そこ故に 皇子の宮人 行方知らずも

反し歌二首
0168 久かたの天(あめ)見るごとく仰(あふ)ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも 
皇子の遺体は真弓丘だが、生前居所の島の宮を偲びの地
0169 あかねさす日は照らせれどぬば玉の夜渡る月の隠らく惜しも
 或ル本、件ノ歌ヲ以テ後ノ皇子ノ尊ノ殯宮ノ時ノ反歌ト為ス。

一段目 天照大神は天を支配され、天高く輝く日の皇子は飛鳥の浄御原に神として御統治なされ、天上に神としてお入りになった。天武天皇に至る皇統譜。
二段目 その後わが大君たる皇子が天かを御統治なされたら、春の花のように尊く、満月のように満ち足りる、大船のように期待心をもって待ち仰いでいましたが、真弓の庭に立派な宮をお建てになったが、朝の奉仕にもお言葉をいただかなくなった。即位への期待と突然の死。
三段目 宮に仕える人々は途方に暮れています。残された人々の悲しみ。

日並皇子への誄詞は残っていないが、天武天皇への「帝皇の日継の次第」を誄が残っており、その後継者たる日並皇子への誄と似ていたものと推定できる。この誄を受けての人麻呂の挽歌であろう。

人麻呂は 臣下に仮託して挽歌を詠んでいる。
舎人達の本音を言えば、皇子は天皇になった場合、我々は権力の中心にいるはずだった。ああ、皇子、なんで亡くなってしまったのか。人生が狂うじゃないか。何と弱い皇子に仕えてしまったのか、残念。
私は大津皇子の舎人だったが、殺されたので、日並皇子に仕えたのにまた失敗した。
など色んな思いにある。
され、この挽歌であるが、謀殺された大津皇子のために作っておいたものが日の目を見なかったので、日並皇子の時に流用したとの説があるが、確かめようはない。

8.高市皇子の挽歌
巻二 一九九  高市皇子の尊の、城上(きのへ)の殯宮の時、柿本朝臣人麿がよめる歌一首、
0199 かけまくも ゆゆしきかも 言はまくも あやに畏き 明日香の 真神の原に 久かたの 天(あま)つ御門(みかど)を 畏くも 定めたまひて
中略 御門の人も 白布(しろたへ)の 麻衣(あさころも)着て 埴安(はにやす)の 御門の原に    あかねさす 日のことごと 獣(しし)じもの い匍ひ伏しつつ
中略 神葬(かむはふ)り 葬り行(いま)して あさもよし 城上の宮を 常宮(とこみや)と 定め奉(まつ)りて 神ながら 鎮まり座(ま)しぬ

口に言うのもはばかられる、言葉にするのもはばかられる、飛鳥の真上原に悠久の天の朝廷を尊くもお定めになり
中略 御殿の人々も、白布の麻の喪服を着け埴安の御殿の原に茜色きざす日はひねもす鹿のように腹ばいになって
中略 神々しくも葬り申し上げて、城上(きのへ)の宮を永遠の宮として、皇子は神のまま鎮まりなさって

太政大臣高市の皇子の居住地は香具山宮と呼ばれ、埴安の池の近くと言える。藤原京の南東部にあたる。子息の太政大臣長屋王の居住地は平城京の南東隅であり、都の南東隅が太政大臣の居住地とされていたようだ。

0202 哭澤(なきさは)の神社(もり)に神酒(みわ)据ゑ祈(の)まめども我が王(おほきみ)は高日知らしぬ
 右ノ一首ハ、類聚歌林ニ曰ク、檜隈女王、泣澤ノ神社ヲ怨メル歌ナリ。日本紀ニ案ルニ曰ク、〔持統天皇〕十年丙申秋七月辛丑朔庚戌、後ノ皇子尊薨セリ。

                            

参考 『古代日本の文芸空間』上野誠  『万葉集』中西進 『万葉民俗学』上野、大石

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