Uga近つ飛鳥

                        
                             
1. 500年代前半までの古墳は百舌鳥・古市などの平野部に営まれていた。後半になって大阪府の東南部、太子町と河南町の谷合が王陵の谷とよばれる墓域になる。磯長谷(しながたに)古墳群である。またその南山麓には、蘇我一族の墓域と考えられている一須賀古墳群が営まれる。一須賀古墳群は100基を越える大型の群集墳で、500年代前半から600年代にかけて造営された。

 この山麓の南側に平石谷がある。谷の北斜面には、ツカマリ古墳、アカハゲ古墳など、終末期の切石造の古墳が点在している。


シシヨツカ古墳が造営された平石谷には、この古墳以外にも終末期古墳としてツカマリ古墳、アカハゲ古墳が存在し、それらも最近の調査によっていずれも墳丘規模が数十メートルあるのが明らかにされているが高度な技術で鏡面加工した石槨をそなえ、サイズは推古陵や用明陵と同等である。磯長谷の王陵の被葬者と同じ時期に活躍した勢力の墓域と考えざるを得ない。

古墳の形に似合わない古い副葬品が出土している。祖先の墓を改装してシシヨツカ古墳が造営された。改装にはツカマリ古墳、アカハゲ古墳の被葬者が関与したと思われる。
用明陵や推古陵も改装されている。改装は蘇我馬子の意向が強く働いていた。

平石谷の古墳は大型方形墳で、同規模で並んでいる。飛鳥前期の造営で蘇我の全盛期に当たる。被葬者は皇族か蘇我氏の有力者の墳墓と思われる。

これらの古墳の被葬者は誰か。
 近つ飛鳥博物館の山本彰氏は、蘇我三代の蘇我馬子、蝦夷、入鹿と推測した。

これらの古墳は、蘇我氏に共通する特徴がある。それは、榛原石(流紋岩質溶結凝灰石) の利用である。普通は二上山の凝灰岩 蘇我の遺跡 島庄 甘堅丘東麓遺跡 飛鳥寺 山田寺 等 蘇我系の遺跡はことごとく榛原石を利用している。


さて、馬子の墓とされている石舞台古墳についてはどう考えるのか。
馬子は推古三四年(626)に死去した。桃原墓に葬るとある。弟の摩理勢が造営の為の庵を壊して帰ってしまった。推古の後の天皇について蝦夷は田村皇子を推し、摩理勢は山背大兄王を推して対立し、蝦夷によって殺された。馬子は桃原で殯が行われ、別所に造墓されたようだ。
石舞台古墳から出土した家形石棺の破片から、古墳の年代は馬子の没した624年より遡り、見瀬丸山古墳と同じ時期と確認された。500年代後半のもの、馬子とは時代があわない。

 シシヨツカ古墳、アカハゲ古墳、ツカマリ古墳は壮大な墳丘の方形墳 飛鳥前期の特徴であるほぼ同規格の横口式石槨がある。これらは手前から奥に造営されている。シシヨツカ古墳には500年代後半の須恵器が出土している。
シシヨツカ古墳は500年代後半の造営で稲目の墓。馬子の墓は不明。アカハゲ古墳、ツカマリ古墳は蝦夷・入鹿の墓と考えられる。
なお、シシヨツカ古墳とアカハゲ古墳の間に破壊された墳墓があり、馬子の墓かもしれないが、不明である。

2.蘇我の嫡流はやはり悪者だった。
出自不詳 渡来人説もある。蘇我石川宿禰は蘇我本家滅亡後の石川氏が創った人物だろう。近鉄大阪線真菅駅の側に宗我坐宗我都比古神社(橿原市曽我町)が鎮座、菅と蘇我、蘇我のルーツを思わせる。
系譜 武内宿禰 蘇我石川宿禰 満智 韓子 馬背 稲目 馬子 蝦夷  入鹿
                             (高麗)        雄当  倉山田石川麿
実質初代とされる蘇我稲目は皇室の財産管理の官僚であった。
『古語拾遺』雄略天皇の段 「大蔵を立てて、蘇我朝智宿禰に三蔵(斎蔵、内蔵、大蔵)を検校させ、秦氏に物の出納をさせ、東西の文氏に帳簿をつけさせた。」とある。
蘇我氏はこの立場を利用して財産をくすねて太ったようだ。零落していた葛城本家筋(襲津彦系)に恩を売ってそこの娘を手に入れ、葛城本家の地位と権利の後裔者となり、大臣になる資格を得た。

537 仁賢即位。稲目大臣に指名される、欽明派と仁賢派の和解に功があったのか。
552 欽明13年、仏教公伝。稲目、神々の祭祀権を持つ物部氏・中臣氏から蕃~(仏)の祭祀権を巧みに奪いとった。仏教については奉仏反仏の争いではなく、誰が祀るかの祭祀権の争いと思われる。物部氏は仏敵ではない。渋川廃寺、石上廃寺が本拠地にある。蘇我と物部は倭王権の主導権争いをしていた。

稲目は二人の娘を欽明の妃とし、用明・推古・崇峻の三天皇を輩出。外戚として力を得た。
馬子に物部の娘を娶らせた。守屋の妹である。

586 敏達天皇の崩御後、息長系の皇子・押坂彦人大兄皇子を無視して、敏達の弟の蘇我系の用明天皇を即位させた。
587 物部守屋と敏達天皇の弟・穴穂部王は三輪逆探索として用明の皇后の宮を兵に囲ませる。用明の死期を早めたとされる。
馬子の仲介で穴穂部王、用明に謝罪。守屋はすべてをかぶらされて、逆賊とされる。物部の財産を狙う絶好の機会が到来した。

炊屋姫の権威を利用して穴穂部王と宅部皇子を殺害する。

馬子、物部守屋討伐に全ての皇子を味方につける。背景に「逆らえば殺される。」がある。
泊瀬部皇子(崇峻天皇)は守屋退治の皇子達の先頭にたった。
守屋、死去。物部本家滅亡。財産は皇室(四天王寺建立)と妹とで分ける。

588 崇峻天皇即位。宮を山間部の倉梯に置き、大伴連の小手子を皇后的な妃とした。連の氏族からの妃は珍しい。馬子の言いなりにはならないとの宣言であろう。蘇我氏にとって危険な状況となった。
592 馬子、東漢直駒を使って崇峻天皇を暗殺させる。馬子の過剰な自己防衛である。さらに口封じに東漢直駒を殺す。馬子、どこふく風。

崇峻天皇は任那の速やかな復興を考えていた。征新羅論である。
百済の協力で新羅を攻めたい所が、馬子は百済の協力をとりつけて飛鳥寺の造営に力を注ぎ、今のところ百済の力を頼んでの新羅と戦うのは無理。飛鳥寺の造営と都の都市計画により中国から文明国家と認められて新羅より有利な立場に立つというロングレンジで進めるのか戦争するかの政策論があった。これが支配者間の内部分裂であり、暗殺の契機となった。

593 敏達天皇と炊屋姫の皇子の嫡流である竹田皇子はまだ幼く、敏達の最初の皇后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)を推す反蘇我派の声を押しつぶし、馬子は蘇我腹の豊御食炊屋姫を推古天皇として擁立した。
600 遣隋使の最大の目的は任那地域の倭の統治権を隋に認めさせること。
601 聖徳太子は飛鳥では蘇我の力が強すぎる また 皇族が一網打尽にされる恐れがあると考え、別処にもう一つの皇族の拠点が必要と考えた。それが斑鳩である。蘇我氏としては目障りな存在であったろう。
 飛鳥と斑鳩を直線で結ぶ太子用の道が斜めに施設された。太子の権勢がよくわかる。
(余談)
斑鳩は東に20度傾いた都市計画になっており、若草伽藍も傾いている。
20度という角度は正月を迎える真夜中にシリウス星が真南から東に傾いた向きと一致している。シリウス星は古代ペルシャの「ミトラ教」という宗教が信仰の対象にした星です。
聖徳太子をモデルとした法隆寺(夢殿)の救世観音菩薩立像の身長が180cmで、日本人離れをしており、遠く、砂漠と海を越えて渡来した人物とする説もある。また寺院建立でまねかれたペルシャ人と穴穂部間人皇女との間に何かあったのかも知れない。(余終)


604 十七条の憲法をつくる。
605 聖徳太子、斑鳩宮に移る。
612 馬子と推古、お互いを称える歌を詠む。蘇我、馬なら日向、太刀なら呉の真刀に例えられるほど優れている。蘇我氏はいつの間にか馬と鉄の利権をつかんでいた。
618 隋滅亡、唐興る。
620 蘇我馬子と協議して「天皇記」、「国記」などを選録する。
622 聖徳太子没する。譲位の習慣がない時代、推古天皇は長生きをしすぎて、皇位を譲るべき欽明の孫の世代がいなくなった。聖徳太子には王子8人、王女6人がおり、将来は大勢力になる
624 馬子、推古天皇に葛城県をねだったが拒否された。
626 馬子、死去。桃原墓を墓所とする。これを石舞台古墳とする説がある。前述。
628 推古、病臥する。田村皇子、山背大兄皇子をよび、遺訓を与える。

嗣位(ひつぎのくらい)をめぐって、推古天臭の遺詔を群臣が協議。推古は山背大兄皇子に自重を求めている。
 田村皇子(舒明天皇) 父親は敏達天皇の皇子の押坂彦人大兄皇子、母親は敏達天皇の皇女の糠手姫皇女、嫡流である。
 山背大兄皇子の父親は聖徳太子で用明天皇の皇子、しかし蘇我腹であり、傍流である。
 画期の継体朝以降は、天皇の皇子で母は皇女である皇子が皇位につくのが慣例となりつつあった。嫡流という。一方、母が皇女でない皇子は傍流という。嫡流に適材がいない場合に皇位につくことがある。

 皇位をめぐって、推古天臭の遺詔を群臣が蝦夷の私邸で協議。遺詔は田村皇子。蝦夷、山背大兄皇子を推す蘇我氏の長老の境部臣摩理勢を殺し、田村皇子を擁立する。蘇我氏内部の談合で決められた。一族の結束を乱した者を許さない姿勢である。
   
629 舒明天皇、飛鳥寺の南側の継続的な王宮として飛鳥岡本宮を造営した。飛鳥の都市空間創造は蘇我氏の願いであった。
632 山背兄大王は唐の使節・高表仁といさかいを起こす。これがもとで舒明後にも皇位につけなかった。
636 飛鳥岡本宮、火災により全焼。
 舒明天皇、百済川のほとりに 西に百済大宮 東に百済大寺の建立開始。蘇我の勢力圏から離れたい。
641 舒明死去でこの構想はつぶれた。
642 舒明の大后であった宝皇女が皇極天皇として皇位につく。入鹿、国政の権をにきり、父以上の勢いをもつ。山背兄大王の次の世代は未だ成人していなかったので、宝皇女がリリーフにたった。飛鳥岡本宮の跡地に飛鳥板葺宮を造営した。

642 蝦夷、葛城の高官に祖廟を建て、八侑(やつら)の舞を行う。祖先を祀る祭祀を行ったのを蘇我氏専横の記事としてでっち上げたのかも知れない。
さらに天下を奪う意のある歌を読む。 
大和の 忍の広瀬を 渡らむと 足結手作り 腰作らしも
蘇我の本拠である、大和葛城の忍海の曾我川の広瀬を渡ろうと、足の紐を結び、腰帯をしめ、身づくろいする   天下を横領するための軍立を祖廟に祈った。

 皇極天皇は葛城県の所有を蘇我氏に認めたようだ。推古は拒否だったが。
 蝦夷と入鹿の墓をつくるのに国中の民の徴発を皇極天皇に認めさせ、上宮王家の民を徴発した。大陵、小陵と称した。橿原市菖蒲町で宅地造成中に発見された二基の大型横穴式石室を蝦夷・馬子の墓とする説があり、甘樫丘から数百米の場所にあり、明日香村だったら保存されたと残念がる学者*4もいる。

643 蝦夷は入鹿に大臣位を私的に勝手にあたえた、専横の極み記事である。
643 入鹿、巨勢徳太(とこだ)臣、土師娑婆(さば)連を遣わして山背大兄王を襲う。
643 入鹿、山背大兄王を殺す。入鹿には皇族を殺すのに躊躇はない。今回は王族や天皇に相談していない。
入鹿、独りで計り。簡単にやれた。上宮王家は思ったほどの軍事力を持っていなかった。聖徳太子が準備した二つの王家の一方は消えた。
645 飛鳥板葺宮で入鹿が暗殺された。翌日蝦夷も自害、蘇我本流は滅びた。首謀者は中臣鎌足と中大兄皇子とされるが、軽皇子(皇極の弟)が天皇になっているので、軽皇子とする説もある。また、皇極は知っていたとか加担者とする説もあり、賑やかである。

蝦夷は自害の前に『天皇記』『国記』を焼こうとした。天皇家の由来を焼き消そうとした。

                                   以上

参考文献
『蘇我氏四代の冤罪を晴らす』遠山美都男 学研文庫
『飛鳥の都』吉川真司 岩波新書
『蘇我三代と二つの飛鳥』西川寿勝 新泉社
*4『蘇我氏 古代豪族の興亡』倉本一宏 中公新書