ウガ  ウミヒト 資料シリョウ 神奈備 2009.5.31
1.フネ 古代コダイフネ丸木マルキフネ、これを船底センテイとしてイタして大形オオガタしている。
5世紀前半
長原出土シュツドの埴輪の船模型
双胴船ソウドウセン カタマラン
2.古代コダイミナト条件ジョウケン 砂浜スナハマアシシゲル地帯チタイカワにつながっているイケ、ラグーン。
3.難波ナニワ津々浦々ツツウラウラ
難波ナンバ 仁徳天皇二二年 難波崎の並び浜のように二人フタリナラんでいられるだろう。
難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ0896
難波ナニワ祝津 欽明天皇元年 難波祝津宮へサイワイ。→八十島ヤソシママツりの原形ゲンケイ
青雲白肩之津 神武天皇即位前紀 河内國草香邑の青雲の白肩之津にいた。
盾津   〃  草香津にカエし、盾をたてて雄たけびをしたので、盾津とぶ。
猪甘津 仁徳天皇十四年 猪甘津にハシワタした。そこを小橋とんだ。
桑津クワヅ 応神天皇十三年 髪長媛は日向からた。桑津邑にいた。
住吉スミヨシ大津オオツミチ 雄略天皇十四年 身狹村主青ら呉織・衣縫兄媛・弟媛等は住吉津にる。
住吉スミヨシイソ齒津路 雄略天皇十四年 呉の客のために道をツクり、磯齒津路にツウじさせた。呉坂。
ボク水門スイモン 住吉スミヨシ南側ミナミガワセマアイダカワ河口カコウ船着フナツスナもしくはラグーン)
大伴オオトモ御津ミツタンミチ竹内タケウチ街道カイドウ  大伴の御津の松原かき掃きて我立ち待たむ早帰りませ0895
欽明天皇元年 大伴大連金村は住吉宅にこもり、ヤマイショウして出仕シュッシしない。
石津イシヅ 仁徳天皇六七年 河内の石津原にき、陵地をサダめた。
4.難波ナンバ争奪戦ソウダツセン 難波ナニワセイするモノ日本ニホンセイする。
難波ナニワ意味イミ セツカワイズミ大和ヤマトヒトつの地域チイキ日本ニホン最大サイダイ生産力セイサンリョクヨウ難波ナニワ海運カイウン
 神武ジンム天皇テンノウ チョウズイビコクサカオリムカつ。
 崇神スジン天皇テンノウ 河内カワチアオタマ繋のムスメハハとするハニアンヒコはまず河内カワチ確保カクホしているようだ。
 日本ニホンソン 難波ナンバカシワワタりのアクカミ退治タイジした。
 神功ジングウ皇后コウゴウ ニンクマオウ住吉スミヨシジンいたが宇治ウジ撤退テッタイ
 応神オウジン仁徳ニントクハンセイ 難波ナニワミヤいた。
 履中リチュウ天皇テンノウ 大江オオエキョライベツ住吉スミヨシナカ皇子ミコさえて天皇テンノウになった。大江オオエ淀川ヨドガワ
 雄略ユウリャク天皇テンノウ 河内カワチオオケンヌシイエカタウオけていたのでハラった。
 吉備キビウエミチシン 雄略ユウリャクボツ星川ホシカワ皇子ミコ天皇テンノウがすため、フネグン四〇40セキ難波ナニワた。
 継体ケイタイ天皇テンノウ ず、ミヤ交野カタノ葛葉クズハいた。
 欽明キンメイ天皇テンノウ 物部モノノベタイ大伴オオトモ = 難波ナニワ住吉スミヨシ大伴オオトモより重要ジュウヨウとなった。
 崇峻スシュン天皇テンノウ 蘇我ソガタイ物部モノノベ難波ナニワオモ拠点キョテンとしていた物部モノノベ打倒ダトウした。
 推古スイコ天皇テンノウ 聖徳ショウトク太子タイシ4天王寺テンノウジ建立コンリュウ
 皇極コウギョク天皇テンノウ 蘇我入鹿ソガノイルカ山背大兄王ヤマシロノオオエノオウめたサイ生駒イコマ山中サンチュウノガれた。
 孝徳コウトク天皇テンノウ 難波ナニワ長柄ナガラホウサキミヤ遷都セント
 壬申ジンシンラン 近江オウミガワはいちはやく河内カワチ占拠センキョしている
 天武テンム天皇テンノウ 難波に羅城を造る。難波に副都を造るも、火災で炎上。難波に海軍を置く。
 聖武ショウム天皇テンノウ 難波ナニワミヤ再建サイケン
5.造船ゾウセン 1ジョウは3m マーメイドゴウ2ジョウジャク
常陸ヒタチコク風土記フドキカオシマ ネンごとにフネツクってミヤ奉納ホウノウする。フネ3セキ、それぞれナガ2ジョウ
カルからヒガシオオウミ浜辺ハマベ漂着ヒョウチャクしたオオフネがある。ナガ十五15ジョウハバ1ジョウ
播磨ハリマコク風土記フドキイッブン 仁徳ニントク御代ミヨクスウエにはえていた。朝日アサヒには淡路アワジシマカクし、夕日ユウヒには
オオ島根シマネカゲにした。そのクスフネにした。ハヤいことぶようでソクトリメイ
伊豆イズコク風土記フドキイッブン 応神オウジン5ネンキンヤマクスフネツクった。カルいことのようにハシった。
相模サガミコク風土記フドキイッブン アシカルヤマスギフネツクるとフネアシカルいこと、材木ザイモクではない。
摂津セッツコク風土記フドキイッブン ヤッコカミ神功ジングウ皇后コウゴウフネツクるがいと託宣タクセンした。
カミウエ4 オンナサキコエをかけ夫婦のコウり、蛭兒がまれた。葦船にのせて流した。
カミウエ5 天磐樟船()蛭兒を順風にのせて放棄した。
カミウエ8 素盞嗚尊イワヒゲスギフネムネヒノキミヤシリマキカンマユクスフネ
カミ下第九段 コトダイヌシムカえに熊野諸手船〈亦名天■船。〉■=ゴウトリ はと をした。
オオオノレメイのために高橋・浮橋・天鳥船をツクりましょう。天安河に打橋をツクりましょう。
神代下第十段 竹をって無目堅間でミズかぶイカダツクり、ヤマサイワイヒコウミシズめた。
神武ジンムマエ カメり、りしつつキョき・・帆掛ホカブネのことか。
崇神十7 船は天下の大切タイセツなもの。諸國にメイじて船舶をツクらせよ。
応神五年 伊豆國にメイじて船をツクらせた。長十丈。カルかんでハヤい。船を枯野とう。
仁徳ニントク 兔寸河に高樹あり。朝日の影は淡路島、夕日の影は高安山を越える。
この樹で船を作る。いと捷く行く船。その船を枯野といふ。
仁徳ニントク六二62ネン トオコク大井オオイカワがりカドにとまった流木リュウボクフネツクった。難波ナニワフネとす。
皇極元年 百濟使參官にフネアタえた。大フネと母慮紀舟三艘。モロフネとは木材モクザイ接合セツゴウフネ
万葉集マンヨウシュウ3300 押し照る 難波の崎に 引き上る 赤(あけ)のそほ舟・・・アカツチったフネ
万葉集マンヨウシュウ4336 防人の堀江榜ぎ出(づ)る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ made in izu
6.ウミヒトウジカミ 大量タイリョウ迅速ジンソク移動イドウ イタ一枚イチマイシタ地獄ジゴク  信仰心シンコウシン団結ダンケツココロツヨい 王権オウケン確立カクリツ
阿曇族 綿津見三神 ショウドウウミドウウミワカともく。安曇アズミイソリョウマル
志賀海神社3ウミ神社ジンジャホウタマ比売ヒメ神社ジンジャ穂高ホダカ神社ジンジャオオウミ神社ジンジャシキナイ19シャ
神功ジングウ皇后コウゴウ イソ鹿シカウミヒト名草ナグサ応神オウジン元年ガンネン ショ々のウミヒトメイシタガわず、ウミヒトサイとなす。
津守族 筒男三神 対馬ツシマ住吉スミヨシ神社ジンジャ 彦波瀲武鵜鵜草葺不合命 長門ナガト アラコン摂津セッツ コン
筒男の筒とは何か?帆柱の堅木の船玉を入れる筒、星、津々浦々の津々。
シキナイ住吉スミヨシ神社ジンジャは7シャ、うち5シャカミダイ
長門ナガト住吉スミヨシ山田ヤマダ筑前チクゼン住吉スミヨシオオカミ
宗像族 宗像三オンナ 宗像ムナカタ大社タイシャ、田島坐神社、宇佐ウサ神宮ジングウ比売ヒメカミシキナイシャは7シャ
族 椎根津彦命 カゴ神社ジンジャヒコメイメイ」−クライメイシイヒコメイリョウ神社ジンジャ大和ヤマト神社ジンジャ
アオウミクビシイヒコエイ
フネタマ神社ジンジャ 住吉スミヨシカミウチ宿ヤドにより紀伊キイ3トコロカミとなる。志摩シマシズ伊達ダテカミ
猿田サルタヒコカミ
シオツチロウオキナカミ
伊予イヨコク風土記フドキイッブン シマカミ大山オオヤマセキカミ仁徳ニントク百済クダラコクよりた。三島鴨神社。
神社ジンジャ 佐渡サド五十猛神
カワ紀伊キイ水門スイモン
1.年表ネンピョウ
神武ジンム 名草ナグサムラススみ、名草ナグサアゼチュウす。
仲哀チュウアイ 熊襲クマソ反乱ハンランいてフネで徳勒津からアナモンかった。
神功ジングウ ウチ宿ヤド皇子オウジいて、紀伊キイ水門スイモンまった。
皇后コウゴウ紀伊キイコク日高ヒダカ皇子オウジい、小竹コタケミヤウツった。御坊ゴボウ粉河コカワ候補地コウホチ
応神オウジン 3ネン 百済クダラシンオウコク無礼ブレイだったのでカド宿ヤドらをツカわした。
オサムカド宿ヤドデイ年齢ネンレイを20サイ仮定カテイする。
このコロカワ下流カリュウ鳴滝ナルタキ倉庫ソウコグンキヅかれた。 応神オウジン四一41ネンまで。
仁徳ニントク四一41ネン カド宿ヤド百済クダラツカわしてクニグンサカイ産物サンブツ記録キロクさせた。
オサムカド宿ヤドデイ年齢ネンレイは20+(41−3)+41=99サイとなる。→応神オウジン仁徳ニントク同一ドウイツセツ
雄略ユウリャク 9ネン 3ツキ ユミ宿ヤド蘇我ソガカン宿ヤドデイ大伴オオトモダンレンショウ鹿シカ宿ヤドデイ新羅シラギ討伐トウバツ派遣ハケン
大将軍ダイショウグンユミ宿ヤド病没ビョウボツした。
         5ツキ オオイワ宿ヤドチチユミんだことをき、新羅シラギき、自分ジブン勝手カッテにふるまう。
顕宗ケンソウ 3ネン イワ宿ヤド任那ミマナから高麗コマき、3カンオウたらんとして神聖シンセイ名乗ナノった。
欽明キンメイ二三23ネン オトコアサ宿ヤドツカわして任那ミマナイタった。
敏達ビタツ一二12ネン コクゾウらをツカわして百済クダラにいるしにった。
崇峻スシュン 4ネン オトコアサ宿ヤドらを大将軍ダイショウグンニンじ、2マンヘイ筑紫ツクシ出発シュッパツさせた。
紀伊キイ水軍スイグン活動カツドウ期間キカンは5世紀セイキ後半コウハンから6世紀セイキ後半コウハン任那ミマナ滅亡メツボウまでの期間キカンオモ時期ジキ
これはミヤフタタミナミ大和ヤマトかれた時期ジキう。スナワ難波ナニワへの攻撃コウゲキへの懸念ケネンがあったのかもか。
大和川ヤマトガワ水運スイウンかない、淀川ヨドガワ飛鳥アスカ三輪ミワ橿原カシハラからは不便フベンカワ水運スイウン利用リヨウされた。
紀伊キイ水門スイモンから半島ハントウ兵士ヘイシグンカミでもある五十猛神祈願キガンしてオモムいたのであろう。
海外カイガイとの緊張キンチョウ関係カンケイけ、また難波ナニワ役割ヤクワリ増大ゾウダイしてくるにつれ、紀伊キイ水門スイモン役割ヤクワリ低下テイカ
クニゾウイツキマツカミ伊太祁曽神社五十猛神」から農耕ノウコウカミ日前国懸神宮へとわってった。
2.シン同族ドウゾク分布ブンプ
航路コウロ
シン紀伊キイカドシンシュウボウヤッコ坂本サカモトシン和泉イズミ坂本サカモト讃岐サヌキ坂本サカモトゴウ
紀伊キイ水門スイモンから鳴門ナルト海峡カイキョウ伊予イヨからシュウボウき、筑紫ツクシ朝鮮チョウセン半島ハントウくのが紀伊キイ水軍スイグン航路コウロ
3.造船ゾウセン
クニ五十猛イソタケイノチ植樹ショクジュカミ温暖オンダンアメによるクススギ産出サンシュツ紀伊キイサイザイゾウ殿デン職掌ショクショウ
万葉マンヨウシュウ0944 島隠り吾(あ)が榜ぎ来れば羨(とも)しかも大和へ上る真熊野の船
1033 御食つ国志摩の海人ならし真熊野の小船に乗りて沖へ榜ぐ見ゆ
伊太祁曽神社

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