神武 難波碕に到着、速い潮流があり、浪速国とよんだ。
川を遡って河内国草香(日下)村の青雲の白肩津に着いた。
神武の皇后
『記』 三島溝咋の女、名は勢夜陀多良比売、その容姿麗美しくありき。美和の大物主神、見感でて、その美人の大便まれる時、丹塗矢と化りて、溝より流れ下りて、その美人の陰を突
きき。美人驚きて立ち走りいすすき、矢を将ち来て、床の辺に置けば、忽ち麗しき壮夫と成りて、美人を娶りて生める子 、名は富登多々良伊須須岐比売、亦の名は比売多々良伊須須気余理比売と言う。家は狭井河の上、一宿御寝しましき。
一夜婚 神武は一夜婚で三皇子 日子八井命 神八井耳命 神沼河耳命
瓊々杵・木花咲耶姫も一夜婚で三皇子 火照命 火須勢理命 火遠理命
神妻の資格 神に召される覚悟をした時から男を近づけない。人妻でも良い。
『紀』 大三輪の神、此の神の子は、甘茂君、大三輪君、姫踏鞴五十鈴姫命なり。また曰わく、事代主神、八尋鰐になって三嶋溝橛耳神の女姫三嶋溝樴姫、或いは云わく、玉櫛姫のもとに通い給う。そうして姫踏鞴五十鈴姫命を生み給う。
咋 三島溝咋 溝咋とは何か? 溝を守る板をとめる杭に成る神
溝の中の田螺、泥鰌、虫を食う鴨。
大山咋 日吉大社や松尾神社の原初は磐座、山に打込まれた杭。
松尾大社の神は鳴鏑矢を用いる神とされる。シュモクザメの形。
シュモクザメはハンマーヘッドシャークと言う。ハンマーは杭を打ち込む道具。
まさに大山咋神である。鳴鏑矢を用いるとされた由縁である。
鏑矢
シュモクザメ 袴狭遺跡
耳 美美 見 南方海人系 安曇の綿津見 五島列島の大耳 紀氏の豊耳
金属系 出雲の須賀之八耳 田島の前津耳
三島 摂津三島からは銅鐸の熔范出土 近くに東奈良遺跡
広大な淀川河川敷の高台に渡しの神が祀られた。御島とよんだ。
八尋鰐と丹塗矢
摂津風土記 昔、大神があった。天津鰐といった。鷲となって下樋山に下りとどまった。
十人行くと、五人は行き去らせ、五人は殺された。この山の下で下樋を伏せて神のもとにとどかせ、この樋の中を通って祈り祭った。下樋山と云う。
下樋山 安威川上流に竜仙峡があり阿武山につながる。出雲の「鬼の舌震」に似。
出雲風土記 和爾が阿伊の村に居られる神「玉日女神」を慕って登ってくる。石で川を堰き止めたので会えずに慕っていた。それで「したひやま」(戀山)という。
肥前風土記 海神(鰐魚 ワニ)が嘉瀬川を遡って世田姫に会いに来る。淀、豊姫とも。
山城風土記 玉依日売が石川の瀬見の小川で川遊びをしていた時、丹塗矢が川上から流れて来た。それを持ち帰って家の寝床に置くと、みごもって男子を生んだ。可茂の別雷命。矢は乙訓の火雷神である。
鰐 ワニは海神。事代主神も海神。 豊玉毘売命も海神。
ワニとはシュモクザメのこと。ハンマーヘッドシャーク。別名はカセワニ。
与止日女神社の横の川は佐嘉川または嘉瀬川、ワニはサメのことを示す。
サメは体内にアンモニアがあり、腐りにくい。山間部での食糧。川を登る。
矢 摂津国嶋下郡に式内社の溝咋神社が鎮座、側を安威川が流れる。
出雲の鬼の舌震は阿伊の村。 「あい」とはアイヌ語で「矢」のこと。
鮫−鰐−蛇−矢−箸の連鎖
丹塗矢となった大物主は蛇神でもあり、また箸となり、百襲姫を殺した。
鮫−鰐−海蛇−蛇−龍
鰐−舟への変化
鰐に乗った玉依姫命が尼崎から京都の貴船まで昇ったのが、黄舟になった。
福岡県拾六町ツイジ遺跡(800年頃) 85cmの尖端に女陰が彫られている。
摂津の渡しの神
伊予風土記 乎知の郡。 御島においでになる神の御名は大山積の神、またの名は和多志(渡海)の大神である。この神は難波の高津の宮に天下をお治めになった仁徳天皇のみ世に顕現なされた。この神は百済の国から渡っておいでになり、
摂津の国の御島においでになった。御島と云うのは津の国の御島の名。
三島鴨神社 式内社の三島鴨神社の祭神に大山祇神。物部韓国連の齋き祀る神。
伊予(大三島町) 大山祇神社 伊豆 伊豆三島神社
『記』 天日矛、妻を追い渡り来て難波に到らんとする時、渡し神が塞へぎった。
淀川と紀の国
『播磨風土記』
景行天皇が摂津国の淀川を渡ろうとした際淀川水運は紀氏 渡し守の紀伊国人小玉が「我は天皇の贄人ではない」「渡らんと欲せば、渡の賃を賜え」 景行天皇は弟縵[おとかずら]を賃にしたと言う。
紀州産緑泥片岩 茨木市安威の将軍塚古墳の後円部 遺跡
茨木市西福井の海北塚の箱式石棺の用材
高槻市の闘鶏山古墳
淀川 渡:海を 済:川を
牧場が川沿いに分布。
西暦 日本武尊 難波の柏済の神は悪気で人を苦しめていたので殺しました。
仁徳 30 磐之媛皇后、仁徳の浮気を聞き、南紀で採った柏を川に捨てる。
磐之媛皇后 山背川を遡る。仁徳天皇も河船で山城に行った。
雄略 9 難波日鷹吉士、胸方神を祀るため派遣した凡河内直香賜が、神域で釆女を犯した。不慎を責められたので逃亡、摂津国三島郡藍原で捕らえられ斬殺。
凡河内:淀川左岸、川の内
530 継体 24 近江国の毛野臣、任那より帰国途上にで死す。送葬の舟は河を上った。
552 欽明 13 物部尾輿、中臣鎌子は仏像を難波の堀江に捨てさせた。ここに百済舟到着。
585 敏達 14 物部守屋、中臣勝海は仏像を焼き、残ったものは難波の堀江に捨てた。
644 皇極 3 中臣鎌子、神祇伯に任ぜられるも辞退し、摂津三島に住んだ。
750 孝謙 2 河内の伎人提・茨田提、決壊。以降度々決壊と補修。
762 天平宝字 6 遣唐使船、難波の江口で座礁
784 延暦 3 長岡京へ遷都
785 延暦 4 淀川を三国川に分流する工事を行う。
1592 秀吉は淀川左岸の堤防を改修、堤防上に陸路を開いた。江戸時代には京街道。
淀川付近の都と道路
三島には東奈良遺跡(阪急南茨城東側)があり、銅鐸工房があった。銅鏡を日神として祀る大和大王家とは一線を画した勢力が潜伏していたのではなかろうか。物部、中臣、三島県主など。彼らが継体を北陸から擁立した。しかし大和大王家は欽明・蘇我政権となり、やはり主流にはなれなかった。だからアジールとして武埴安彦の部下、凡河内直香賜、中臣鎌子たちの隠れ里とされた。後に西国街道ができたように交通の要衝でもあった。吉野と同じ雰囲気。
面白いデータがありますので紹介します。
淀川右岸
地域の古代における気風と関係しているのかどうか、古代の魂を祀るこの地域の神社に大きい特徴が見られます。それは神社本庁加盟社かそうでない単立社かのことです。
全神社 内単立神社
島本町 9 8
高槻市 48 33
茨木市 48 8
摂津市 6 3
淀川左岸
枚方市 26 1
寝屋川市 18 0
守口市 10 0
淀川右岸(摂津側)は半分程度が単立。古代より淀川は国家の命運を別ける程の境界だった。
数字は大阪府神社庁HPから
http://www.jinjacho-osaka.net/osakajinjyamap.html
『記紀の考古学』森浩一、『青銅の神の足跡』谷川健一、『日本古代史とアイヌ語』大三元