Uga 吉宗の時代

1 年表
1667 家康の孫、徳川光貞、第二代紀州藩主となる。
1665 長兄 家康の(つなのり)誕生
1680 三兄 頼職(よりもと)誕生 次兄は早世
1684 四男 吉宗誕生
1698 光貞隠居、綱教紀州藩主となる
1705・7 綱教死去、頼職藩主になる 綱吉の娘をめとっている
1705.9 光貞死去
1705・10 頼職 帰国途中で死去 吉宗 藩主となる。
1707・10 宝永地震津波 南海トラフ全域の地震。紀州藩内、大きい被害。
1710・4 吉宗、お国入り、藩政改革に着手。

2 紀州藩政改革
 三人の葬儀費用や地震津波の被害で藩の財政はひっ迫。藩政機構を簡素化し、質素倹約を徹底して財政再建を図る。自らも木綿の服を着て率先、家中への差上金の賦課、藩札の停止などに手腕を発揮した。
 和歌山城大手門前に訴訟箱を設置して直接訴願を募り、文武の奨励や孝行への褒章など、風紀改革にも努めている。

3 徳川将軍家
1709 綱吉死去。綱吉の養子、家光の孫 家宣(いえのぶ) 第六代将軍になる。
1712 家宣死去。家宣の四男家継第七代将軍になる。
1716・6 家継死去(七歳)。紀州藩主 徳川吉宗が第八弾将軍となる。

4 寛政の改革
 吉宗が将軍になったころ、幕府の財政は、ほとんど破綻状態。そのため増税(四公六民から五公五民)と質素倹約などの幕政改革、新田開発、目安箱の設置などの享保の改革を実施した。幕府の財政に直結する米相場安定を中心に改革、米将軍とも呼ばれた。 
 サツマイモは、中南米原産の野菜で、江戸時代初めに中国から琉球に伝わった。その後、薩摩、九州で生産、地方によっては唐藷(からいも)・琉球藷(りゅうきゅういも)などとも呼ばれている。
 江戸時代の中頃になると関東でも広く栽培されるようになり、天災などで米の収穫が激減した際には、米に代わり多くの人々の命を救った。

5 徳川幕府中興の祖
 暦に疑問を持っていた吉宗は、自ら簡天儀・測午表儀などの実用的な観測装置を考案、城内吹上御庭などで天体を観測していた。
関孝和の弟子建部賢弘、皇和通暦などを著した中根元圭、後に天文方となる猪飼豊次郎らを召しては、和漢の暦法のみならず西洋暦法についても問いただしている。しかし、暦の改革は吉宗の逝去によって途絶えた。
 目安箱で民の意見を募集した結果、小石川養生所が設立されている。
 奉行所の負担軽減のために行った相対済令。
 優秀な人材を採用するために期間限定で給与を増額する足高の制などさまざまな改革が行われた。
 ここで吉宗さんが登場しなければ、江戸時代という徳川の時代も、7代で終っていたかも知れないと思わせるほどの名将軍でしたが、御三家とは言え、地方藩主の四男坊が、天下の徳川幕府の将軍になったのです。
 紀州時代には、よくも悪くも、いろんな女性と、ほぼ自由な恋愛をしていて、隠し子の1人や2人いてもおかしくない自由奔放でのびのびとした生活を送っていた。
 吉宗は御三卿という、自分の子孫だけが将軍職を継ぐシステムを、ちゃっかり作り上げる事になるのです

6 町民のために
 江戸時代になると江戸の街の過密化は一気に進み、「火事と喧嘩は江戸の華」とたとえられるくらい江戸の街には火災が多発し、常に火事に対して十分な備えを持たねばならなくなった。そこで萬治元年(1658年)、幕府は四名の旗本に「江戸定中火之番」を命じ、最初の公設消防である定火消が創設された。定火消は与力に同心、そして臥煙(がえん)と呼ばれる火消人足あわせて100名強で組織され、江戸城の防火消火に従事していた。
 この定火消の他に、幕府の命により各大名に組織された大名火消が組織された。しかし、定火消も大名火消も、江戸城や大名屋敷などを火事から守るためのもので、町家を火から守るための消防組織は確立されていませんでした。
 そこで、享保3年(1713年)に将軍吉宗の命を受けた江戸南町奉行大岡越前守忠相が町人のための本格的な消防組織として町火消を創設した。
 当時の消火活動は火事現場に水をかけて火を消すよりも、火事の延焼をくい止めるために、火事現場のまわりの家々を取り壊してしまうことを優先したいわゆる「破壊消防」が中心で、一般の町人では難しかったため、町火消は大工やとび職の人が中心になっていた。これが現在の消防団の原点といえるでしょう。現在の「まとい」が確立したのも、町火消が登場してからです。

 小石川養生所は、別名「施薬院」とも呼ばれた。その名の通り「薬を施し治療する」施設ですが、歴史的に「貧しい庶民を救済する」目的を持った施設をこのように呼び、施薬院の歴史は伝承上、奈良時代にまでさかのぼる。

7 庶民の支持
 なぜ江戸時代は約270年もの間続いたのか。それは「江戸時代が庶民たちにとって幸せなものだったからだ」と山内昌之氏は言う。そして8代将軍・徳川吉宗の時代に焦点を当てると、吉宗が将軍としてとても特異な人物であったことが見えてくる。
 つまり「庶民の目線」というものを考えなければいけない。そのような意味では、世界史の中で江戸時代は、同時代の中国やヨーロッパと比べた場合に、庶民たちが幸福な時代だったと思われる。
 確かに、百姓一揆などの問題も起きた。税制の問題も起きた。しかし、他国における大衆反乱や民衆運動、農民暴動への対応や事後措置と比べた場合に、日本の統治体制は全体として比較的緩やかなものでした。

 特に江戸時代に焦点を当てると、さまざまな浮世絵や文学などを通して分かるのは、江戸の町人や商人たちは、他の国に比べて相対的に幸せだったということです。つまり、庶民の幸福感や、日々の生活の中での納得感などが、そこはかとなく漂っていた。そのような時代だったからこそ、270年もの間、同じ支配者のもとで統治が続いた、ということが言えるのです。

                        以上
参考文献
徳川吉宗(人物叢書 新装版)辻 達也著 吉川弘文館
徳川将軍と江戸幕府の軌跡〜吉宗編(1)庶民感覚と自己管理 山内昌之

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